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ザ・スパイダース

ザ・スパイダース(The Spiders)は、日本のグループ・サウンズのバンド。
1961年に、田辺昭知(現・田辺エージェンシー社長)が結成し、ジャッキー吉川とブルーコメッツとともにGSの礎を築いたグループ。ヒット曲には『夕陽が泣いている』、『なんとなくなんとなく』、『あの時君は若かった』などがあり、1970年に解散。当時の音楽の先端であったブリティッシュ・ビートに強く影響を受ける一方、堺正章、井上順、かまやつひろしの3人を主体に繰り広げられる軽妙なやりとりで、コミカルな要素が強い人気グループであった。すべて昭和42年7月15日 現在ドラムスの田辺、ピアノとアコーディオンに元セブン・サンズの日吉武、スチールギターに元クレイジー・ウエスト〜カントリー・ジェントルメンの山田幸保、エレキ・ギターに元レッド・コースターズの伊藤源雄、ベースはジャズ出身の三科実のメンバーで春頃結成1日初舞台をふむ3日初の映画出演、日活映画「有り難や節 あゝ有り難や有り難や」に出演、封切り丘優子のシングル「スクスク」の演奏を担当主はジャズ喫茶や米軍キャンプ回り、堀プロの歌手のバック演奏斎藤チヤ子のシングル「失恋の海」の演奏を担当専属シンガーとしてスリー・ジェット(井上孝之がいた三人組ボーカルグループ)が加入大野克夫が加入堺正章が加入春頃の2ヶ月程、加瀬邦彦が参加この時点でのメンバーは田辺(ds)、伊藤源雄(g)、大野克夫(stl)、星野一(b)、渡辺治虫(p)、スリー・ジェット(vo)、堺正章(vo)その後加藤充、かまやつひろしが加入前半にリバプール・サウンドの旋風によりメンバーを再編井上順が加入14日日活映画「仲間たち」に出演、封切り井上孝之がスリー・ジェットの歌手からギターに転向し、ここでGS期のメンバーにLP「64年ヒット・パレード」をCBS(日本コロムビア)より発売ザ・ベンチャーズ、アストロノウツと共演ピーター&ゴードンと共演EP「リバプール・サウンズ」をクラウン(現・日本クラウン)より発売ジャニーズのシングル「焔のカーブ」の演奏を担当10日初のシングル「フリフリ」をクラウンより発売23日渋谷のリキ・スポーツ・パレスでのイベント「モンキーで踊ろう」にスパイダースが出演新宿厚生年金会館にてアニマルズと共演ジャニーズのシングル「焔のカーブ」の演奏を担当エディ・キングのシングル「イフ・オール・ユー・ニード」の演奏を担当(田辺、加藤のみ)ハニーカムズ、ザ・サファリーズと共演27日「東西ロックバンド大会」に出演再度来日したベンチャーズと日本各地でステージにあがる12日〜14日「インター・ナショナル・エレキ・フェスティバル」(国際会館ポール)にゲスト出演イギリス、VOX社と契約、世界中何処でもVOX社のアンプを使えるようになる日本テレビ「世界へ飛び出せ〈ニュー・エレキ・サウンド〉」にレギュラー出演ラジオ「ビート・ザ・ビート」にレギュラー出演EP「ダイナマイト」をクラウンより発売LP「熱狂のエレキ・ギター 第2集」ビクターより発売6日NET「エキサイト・ショー」レギュラー出演LP「あなたの選んだ65年ベスト・ヒット」をビクターより発売5日シングル「越天楽ゴーゴー」をビクターより発売EP 「ベスト・オブ・エレキ・ヒット!! 第2集」をビクターより発売4日日活映画「高原のお嬢さん」に出演、封切りソノシート「ザ・スパイダーズ モンキー・ア・ゴーゴー」をビクターより発売ビーチ・ボーイズと共演1日シングル「ノー・ノー・ボーイ」、EP「青春ア・ゴーゴー」をフィリップスより発売オランダ・フィリップスより「フリ・フリ/リトル・ロビー」が発売ソノシート「ザ・スパイダース作戦」をコダマプレスより発売10日シングル「青春ア・ゴーゴー」をクラウンより発売17日〜22日沖縄で「世紀のエレキ大会─田辺昭知とザ・スパイダース・ショー」を開催27日日活映画「青春、ア・ゴーゴー」に出演、封切り15日シングル「ヘイ・ボーイ」をフィリップスより発売初のアルバム「ザ・スパイダース アルバム NO.1」をフィリップスより発売ホリプロから独立し田辺昭和を社長に「スパイダクション」設立5日〜12日初の「日劇ウエスタン・カーニバル」出演20日EP「スパイダース・ア・ゴーゴー」をフィリップスより発売TBS「歌謡曲ベスト10」に初登場TBS「ヤマハ・ヤング・ジャンボリー」の準レギュラーに1日EP「青春ア・ゴーゴー/モンキーダンス/フリフリ/クライ・アンド・クライ」をクラウンより発売アルバム「ザ・スパイダース アルバム NO.2」を発売20日EP「サマー・ガール」を発売、このレコードよりフィリップスと契約30日日活映画「涙くんさよなら」出演、封切り1日シングル「サマー・ガール」発売ジャニーズの「7ショー」にゲスト出演27日〜29日「日劇ウエスタン・カーニバル」出演TBS「バラエティ」のレギュラーに3日チャリティショー開催(渋谷公会堂)21日守屋浩・本間千代子夫妻の結婚式で演奏25日シングル「夕陽が泣いている」発売24日〜11月14日初のヨーロッパツアー25日オランダ国営放送の音楽番組に出演27日アムステルダムを出発、パリへ28日〜30日パリ国営ラジオ出演30日パリ見物31日〜11月2日パリを出発、ローマへ2日ローマでビートクラブ、パイパークラブに出演3日〜10日ドイツ、ハンブルグへ出発。3日滞在。TV、ラジオに出演25日シングル「なんとなく なんとなく」発売5日アルバム「スパイダース'67」発売1日シングル「太陽の翼」発売アルバム「ゴー!スパイダース、フライ・サベージ」発売15日EP「ダンス天国」発売5日〜12日「日劇ウエスタン・カーニバル」出演20日日活映画「夕陽が泣いている」出演、封切り22日〜7月5日ハワイ、アメリカ・ツアー15日シングル「風が泣いている」発売and more…1961年(昭和36年)、スウィング・ウエストのドラマーであった田辺昭知によって結成。翌年春にかまやつひろし(田辺が才能と人柄を買っていた)にメンバー加入とメンバー探しを依頼。
同年4月5日、井上孝之が神戸から上京、直ぐに訪れた池袋のジャズ喫茶「ドラム」にてその日主演していたザ・スパイダースの演奏に感動、すぐさま加入を志願し認められた(その後5年間、孝之は田辺の家に居候することになる)。
この次に田辺が目をつけたのが、ホリプロから新人デビューした堺正章(田辺が松竹や新東宝の映画で注目していた)である。しかしその父・堺駿二の存在があったため当初加入を持ちかけても色よい返事は貰えず、ついには田辺が堺の家に通い詰めることで加入を実現させる。
この頃もう一人のターゲットとなったのは孝之の知り合いだった大野克夫で、すぐに田辺が関西へ飛び、これまで同様の情熱的な姿勢で加入を求めた(大野はその場でバンドに加入)。1963年には大野の高校の先輩であった加藤充が加入、それまでゲストシンガーだったかまやつも正式メンバーとなる。同年加瀬邦彦がリズム・ギターとして2ヵ月間在籍していた時期もあった。
1964年2月にスパイダースに憧れていた井上順が参加。脱退した伊藤源雄の代わりに3月には孝之がリード・ギター(技術的にはかまやつのほうが遥かに優れていたが孝之のテクニックを向上させるために敢えてリード・ギターのポジションへと置いた)に転向したことで、後に「グループ・サウンズ」と呼ばれ人気を博す時代のメンバー7人体勢が整う。
名付け親は、かまやつの父で当時の日本ジャズ界では有名なシンガーであったティーブ・釜萢であり由来は「蜘蛛の巣の様に世界を席巻する」という想いを込め命名。結成当初はラウンジ・ミュージックを嗜好しながら、歌手のバック・ミュージシャンとしても活動していた。同じ頃にビートルズ旋風が世界的な規模で巻き起こり、そんな彼らに触発されたかまやつは田辺とともにビート・グループとしてバンドを再編成、いち早く彼らの楽曲をコピーすることで、マージー・ビートやブリティッシュ・ビートと呼ばれたサウンドへの造詣を深めてゆく。その過程の中、来日した外国アーティストの前座やバック演奏をこなすことが多くなり、バックでは1964年4月のピーター&ゴードン、前座では1965年1月と9月のザ・ベンチャーズ、6月のアニマルズ(前座にも拘らず『ブーン・ブーン』を歌ってしまい叱られている)、8月のザ・サファリーズ、ハニーカムズ、1966年1月のザ・ビーチ・ボーイズで務めている。1966年10月には所属レーベルのフィリップス本社(オランダ)への表敬訪問を兼ねてヨーロッパにプロモート旅行に出かけ、欧州のテレビ番組への出演、またハンブルグのスタークラブ やコペンハーゲンのヒットハウスなど現地のクラブでの演奏も果たした。1965年5月に、かまやつ作詞・作曲の『フリフリ』でクラウンからシングルデビューし、当時としては斬新な音楽性に加え、ミリタリー・ルックをいち早く取り入れるセンスのよさ、そしてコミカルタッチな演出をも得意とする実力派バンドとして評価される。ちなみに『フリフリ』のジャケット写真にかまやつが写っていないが、これはかまやつが撮影時に遅刻をしたためである。また、かまやつが到着してからも写真を撮っているが何故か6人の写真がジャケットに採用された。1966年に入り、2月『ノー・ノー・ボーイ』、4月『ヘイ・ボーイ』、7月『サマー・ガール』とブリティッシュ・ビートの影響を大きく受けた、かまやつ作品によるシングルが発売され5月には日劇ウエスタンカーニバルに初出場するものの未だに青春歌謡、ムード歌謡の勢いが強かったために芳しいセールスへと繋がらなかった。しかし9月発売の浜口庫之助作品『夕陽が泣いている』が公称120万枚を超える大ヒットとなり一躍スターダムにのし上がる。なお、3月にはオランダ・フィリップスから『フリ・フリ'66』、4月にはアメリカ・フィリップスから『ノー・ノー・ボーイ』、10月にはオランダ、11月にはイギリスで『Sad sunset(夕陽が泣いている)』が発売されている。また、ホリプロダクション(現:ホリプロ)に所属していたが、同年5月に田辺がホリプロダクション事務所内にほんの僅かな一角を間借りする形でスパイダクション(Spi Duction、田辺エージェンシーの前身)を設立し、セルフマネージメントを開始する。1967年は、3月『太陽の翼』、5月に再び浜口庫之助作品である『風が泣いている』(公称70万枚)と順調なセールスを続け、5月には映画『夕陽が泣いている』、8月には初主演映画となる『ザ・スパイダースのゴー・ゴー・向こう見ず作戦』が公開されるなど順風満帆と思えたが、ライバルグループのジャッキー吉川とブルーコメッツが、『ブルー・シャトウ』で150万枚の大ヒットを記録(同年の日本レコード大賞受賞)、更に同年夏には、ザ・タイガース、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズなどの若手グループが次々と台頭してきたことでGS(グループサウンズ)ブームが巻き起こり、ザ・スパイダース、ブルーコメッツといった、当時としては年齢層の高い(若手グループは10代後半 - 20代前半だった)グループが、徐々に窮地に立たされていく転機も迎えていた。1969年の夏頃から観客数の落ち込みが進み、公演会場ではメンバー全員が仮装して臨む(井上順談)という前代未聞の事態にまで発展したこともあり、さらに個々のメンバーの人気が高かったこともあり、収益面などの理由からソロ活動が優先されることになった。堺が1970年2月にTBS系ドラマ『時間ですよ』に出演したことを皮切りに、同月にはかまやつがソロ・アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』、4月には堺がシングル『明日を祈る』(堺正章とザ・スパイダース名義)、順がシングル『人生はそんなくり返し』(井上順とザ・スパイダース名義)で発売する。この影響で堺と順のスケジュールが過密となったこともあり、前年から若干程度始動していた「スパイダース5/7」(スパイダースから堺、順を除いた編成)としての活動も多くなる。また、5月には田辺が自身の経営するスパイダクションでのマネージメント業務に専念するため、同月末で現役を引退することを表明し、6月にバンドボーイであった前田富雄が2代目ドラマーとなった。9月にはシングル『エレクトリックおばあちゃん』が発売されるもヒットには程遠く、11月にかまやつが脱退。これが引き金となり、年内の解散が発表された。なお、1971年1月の第43回日劇ウエスタンカーニバルを最後のステージとして、同じく前年12月末に解散した弟分グループ、ザ・テンプターズの萩原健一と共に出演したが、これは「再編成」という形で行われた。なお解散後の1971年11月11日に、第2回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。同年12月5日、第4回日本有線大賞大衆賞を受賞。1975年8月21日にも、ザ・スパイダースとして第1回日本テレビ音楽祭特別賞を受賞している。堺正章、井上順、かまやつひろし、大野克夫は、現在も個性を発揮した芸能活動を展開している。井上堯之もギタリスト・作曲家・俳優と多彩な活動を行い個性を発揮してきたが、2009年に健康上の理由などのためプロ活動を引退した。田邊昭知は、田辺エージェンシー代表取締役社長、長良プロダクション取締役、また日本音楽著作権協会(JASRAC)理事・日本音楽事業者協会(JAME)会長として、日本芸能界の裏方として大きな役割を担っている。加藤充は解散後、プロベーシストとして数年活動した後引退、保険会社に入社しのちに役員となる。現在埼玉県所沢市に在住しアマチュアバンド「カッペちゃんオールスターズ」を結成して地元に根付いた活動を行っている。前田富雄も解散後いくつかのバンドを経て1970年代半ばに引退、現在は世田谷区にて鮮魚店を経営する傍ら、地元でアマチュアバンドを結成し、商店街のイベントなどで活動している。諸事情により一時期加藤が疎遠となったこともあるが、現在も前田を含むメンバー全員が親交を温めている。ザ・スパイダースとしての再結成はこれまでに数回行われている。ザ・スパイダースとしてではないが、1999年には堺正章、かまやつひろし、井上堯之の3人によるユニット「ソン・フィルトル」が結成され、紅白歌合戦に出場した。2008年には、テレビ特別番組ザッツ宴会テイメントで、田邊、加藤、大野以外のメンバーが出演し、「バン・バン・バン」「夕陽が泣いている」「フリフリ」「エレクトリックおばあちゃん」などを披露した。堺正章が司会をするTBS系料理バラエティ『チューボーですよ!』(現・新チューボーですよ!)には、かまやつひろしや、井上順がゲストとして出演する回も多く、『バン・バン・バン』などを披露したり、堺正章と井上順がそろって懐メロ番組に出演し、往年のヒット曲を歌う機会は何度もあった。2013年には「堺正章 with ムッシュかまやつ・井上順」名義で、中野サンプラザ(4月26日)、梅田芸術劇場(7月25日)、大宮ソニックシティ大ホール(11月5日)の各会場で、平日一日限り・昼夜二回公演のコンサート「スペシャルコンサート2013 〜あの時君は若かった〜」が開催された。堺のソロコンサートのような名目だが、実際には冒頭から三人揃っての出演であり、スパイダースの結成から解散、その後のソロデビューまでを寸劇も交えて歌い上げた。『ザ・スパイダース・アルバム・No.1』の楽曲は、当時の洋楽テイストを生かしたかまやつ作曲の楽曲に、彼の友人ら(川喜多和子、岩元梶子)がつけた英語詞などにより、リバプール・サウンドの向こうを張った「トーキョー・サウンド」を標榜し、イギリスなど海外でもレコードがリリースされ、ツアーやTV出演なども行っていた。音楽性以外では、堺の軽妙な司会や曲ごとに違う振付をするなどの特徴もあり、この辺も人気の一因となった。なお、かまやつひろしの友人であった福澤幸雄が、「8人目のスパイダース」といういわばブレーン的な役割を担っていた部分もあり、最新の音楽情報やダンスステップをグループに提供していた。ちなみに、かまやつひろしが彼を偲んで作った『ソーロング・サチオ』という曲が、アルバム『スパイダース'69』に収録されている。悲しき願い/ロックンロール・ミュージック/抱きしめたい悲しき願い(全盛期の7人編成になって以降の作品)

出典:wikipedia

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