東急バス弦巻営業所(とうきゅうバスつるまきえいぎょうしょ)は、東京都世田谷区弦巻4-29-23に位置し、東京都世田谷区を中心とする同社路線を担当する営業所である。営業所の略号はT。全線の運行を東急トランセ弦巻営業所に委託している。教育センター・中央図書館の目の前に営業所があり、営業所内の「弦巻営業所」停留所には、「教育センター・中央図書館前」の副称が付く。営業所前を発着するのは、弦巻線(渋05)、深沢線(黒07)、および学校線(都立01)・小山線(反11)の出入庫系統である。2008年6月より、事務所棟および整備工場の建て替え工事を行い2009年に竣工した。営業所の開設は1959年(昭和34年)3月3日で、新生・東京急行電鉄になってから2番目の増設営業所、世田谷区内3番目の拠点として立ち上げられた。終戦からかなりの時間が経ち、戦時休止路線がすべて復旧した後の開設であるが、ここでは、現在の所管路線の基礎として戦前に営業した玉川電鉄バス世田谷営業所の系譜まで遡って解説する。1925年(大正14年)、東急世田谷線の前身となる玉川電気鉄道支線、三軒茶屋 - 下高井戸間が開通した。この路線は、上町まで世田谷通りと並行し、渋谷までの直通電車もあったが、その先は京王電気軌道線を目指して北上するルートとなったため、上町以遠の世田谷通りは公共交通をバスに依存することになってしまった。そこに新規参入したのは、玉川電鉄ではなく、地元の名士だった八木哲率いる八木商会だった。昭和初期の八木商会は、まず三軒茶屋から世田谷通りをひたすら西に向かい、陸軍自動車学校、東京第二衛戍病院を経由して調布町(現・調布市)に至る路線を立ち上げていた。これが後の調布線の基礎となる。一方、玉電は路面電車の培養として、1927年(昭和2年)にバス事業に参入。1930年(昭和5年)渋谷駅と園芸学校(現・都立園芸高校)を結ぶ路線の運行を始める。この頃、八木商会は調布町から先、神奈川県方面へも事業を拡大するが、玉電のバス事業参入を見届ける形で翌1931年(昭和6年)、事業を玉電に売却して撤退する。玉電は、八木商会から引き継いだ路線と自社で開設した路線を運営するため世田ヶ谷町桜の農大前停留所近傍に世田谷営業所を設けた。1932年(昭和7年)、沿線の砧村にピー・シー・エル映画製作所(現・東宝スタジオ)が開設される。玉電では、同社に出入りする映画関係者の需要を担うために調布線の途中折り返し便を設ける。後の成城線の基礎となる東宝線の誕生であった。1938年(昭和13年)、玉川電鉄は東京横浜電鉄と合併する。これにより、玉電が持っていた世田谷と淡島の2つのバス営業所も東横電鉄の手に渡った。両営業所は東横、そして東京急行電鉄(大東急)になってからもそのまま維持されるが、終戦前後に国領線と東宝線が休止となり、所管路線を失った世田谷営業所は廃止の上淡島営業所に統合される。このため、八木商会や玉電以来の歴史を持っていた世田谷営業所時代の系譜は淡島営業所に引き継がれており、従って現在の弦巻営業所は、まったくゼロからのスタートということができる。1946年(昭和21年)、陸軍自動車学校跡地に東京農業大学が移転。東京第二陸軍病院は厚生省の手に渡り、国立世田谷病院(現・国立成育医療研究センター)として生まれ変わる。この両機関へのアクセスを確保するため、世田谷通りを走破する幹線だった東宝線と国領線は世田谷営業所を引き継いだ淡島営業所の手で再開される。その際、東宝撮影所と目と鼻の先の距離だった小田急線成城学園前駅に乗り入れ、現在の成城線の形が出来上がった(後述)。1950年(昭和25年)、小田急電鉄は武蔵野乗合自動車を買収、直系バス会社小田急バスを誕生させた。小田急バスは当初、三鷹市にあった三鷹営業所(現・吉祥寺営業所)1カ所だけで営業していたが、東京都区部への本格的な進出をめざし、東京急行と交渉。同年11月に若林営業所(現・小田急シティバス)を立ち上げ、国領線の共同運行を始めると、1951年(昭和26年)、成城線でも共同運行を始めた。一方で、世田谷区の市街化が進むにつれて区内を通る路線の新設が相次いだことを受け、淡島営業所1カ所だけでは需要を満たせなくなっていった。隣の目黒区内には既に目黒、不動前の2つの営業所があったが、そちらも路線の増加で規模が追いつかなくなっていく。こうして東急は世田谷区内に新たなバスの拠点を作る必要に迫られた。1956年(昭和31年)、瀬田営業所が先に立ち上げられる。これに続く戦後2番目の増設営業所を開設すべく、東急は世田谷区弦巻の現在地を取得。1959年(昭和34年)3月3日、弦巻営業所が営業を開始した。なお開設と同時に、1957年(昭和32年)に開通していた弦巻循環線(現・弦巻線)の「松ヶ丘小学校」停留所を「弦巻営業所」に改称している。開設にあたり、淡島営業所から成城線・国領線、それに東京都交通局(都営バス)と共管の経堂線、瀬田営業所から戦後新設された学校線・弦巻循環線を、そして不動前営業所からはやはり都営共管の駒沢線を移管され、営業を開始した。その後、上町線や千歳線などを新たに開通し、近隣営業所との路線調整を図りながら世田谷区内を中心に路線拡充を進めた。1970年代から80年代にかけては、調布線の廃止、上町線の分割など長距離路線の整理縮小を進める一方、1984年(昭和59年)3月16日に廃止となった駒沢営業所からコーチ自由が丘線、祖師谷線を引き継いだ。1999年(平成11年)から2002年にかけて、東急トランセへの委託路線化や大橋営業所の廃止に伴う路線調整が行われた。1999年10月16日、成城線が一旦大橋営業所に移された後、弦巻営業所のトランセ全面委託に向けた準備が始まる。最初に管理委託化されたのは祖師谷線で、2000年(平成12年)3月1日付で委託路線となった。その後、同月16日に弦巻線、同年5月1日に千歳線(現・松陰線)が管理委託となる。6月16日の学校線委託の時は、直営のまま残ることになった目黒駅乗り入れ系統が独立して深沢線となり、目黒営業所へ移管されている(後述)。さらに8月1日に上町線が委託となり、11月16日、成城線が大橋から戻ってくるのと同時に管理委託化されて当営業所の管理委託移行は一応の完成を見た。その後、大橋営業所の廃止を控えた2002年(平成14年)は3月16日に松陰線(渋21)が移管の上管理委託化。同年5月16日に小山線が目黒、渋谷空港線が大橋から移管されてくる時に委託路線となった。最後まで直営で残った深沢線も、2007年(平成19年)に管理委託化の上当営業所に戻され、現在に至る。渋谷駅から玉川通りと世田谷通りの中間に位置する弦巻地区へ向かう。かつては弦巻循環と呼ばれ、1957年8月1日から渋谷駅 - 弦巻営業所で両回りの循環運転をしていた。当初のルートは渋谷駅 - 新町 - 松ヶ丘小学校(現・弦巻営業所) - 弦巻一丁目 - 渋谷駅で、ルートの南側は新町以東で玉川通りの旧道を走っていたが、1960年から上馬・駒留・弦巻通り経由となり、さらにその後西太子堂・世田谷消防署経由となった。1984年3月15日に循環線は渋05(渋谷駅 - 上馬 - 弦巻営業所(弦巻線))、渋06(渋谷駅 - 西太子堂 - 弦巻営業所(駒留線))に分割された。しかし1987年9月1日に両線が統合され、渋05(渋谷駅 - 西太子堂 - 向天神橋 - 弦巻営業所)となった。これにより、駒留通りの環七通り以西の区間から路線が消滅した。1990年代に入り、駒留 - 三軒茶屋の上りルートが若林一丁目経由に変更されている。これは、駒留 - 世田谷消防署間の駒留通りの渋滞により定時運行が困難になったことが理由である。2013年現在、「渋」を冠した系統で最若番号となっている。渋谷駅から三軒茶屋経由で世田谷通り方面に向かう路線のうち、東急が単独で運行する上記2系統からなる。両系統とも深夜バスの運行を行っている(渋21は1988年2月19日開始、渋23は2008年9月1日開始)。渋21は渋23の折返し便に位置づけることができるが、両者は路線の成り立ちが大きく異なる。この路線は弦巻が担当している渋24も含めて上町(駅) - 三軒茶屋間で世田谷線と並行しているが、世田谷線が三軒茶屋止まりで渋谷へは乗り換えを強いられるために、この区間では渋谷駅へ向かうバス便が欠かせない存在になっている。渋21は、もともと東急玉川線の代替路線として、渋谷と西太子堂 - 上町の直通利用者に配慮して設定されたもので、1969年(昭和44年)5月11日の開通以来、玉川線車庫跡地にできた大橋営業所が担当してきた。上町駅バス停は渋21独自のバス停で、上町駅前の一方通行路にある。以前は上町バス停には停車していなかったが、現在は渋谷駅行のみ上町バス停にも停車している。一方、渋23はこれより前の1963年(昭和38年)11月1日に、渋谷駅から千歳船橋に向かう路線として千歳線の線名で開通していた路線で(その後祖師谷大蔵まで延長)、当初より弦巻担当だった。このため、両者は渋谷駅の乗り場が異なり、ダイヤも別々に組まれていた。しかし、2002年3月16日より渋21が弦巻に移管された(大橋は同年9月廃止)ため、同時に東急トランセへの運営委託路線になった。この際、両系統の乗り場やダイヤが共通化され、線名としては渋21で使われていた松陰線に統一された。なお、1974年(昭和49年)8月までは両路線とは別に東京駅直通の都営バス共管系統、東84も存在した(後述)。祖師ヶ谷大蔵駅付近はかつて道路が狭く、道路が拡張され駅前にバスターミナルが完成するまでは、ひとつ手前の祖師谷大蔵(後に祖師ヶ谷折返所、現・山野小学校)で発着していた。同駅まで延長されたのは1993年(平成5年)5月16日のことである。渋23においては、営業所周辺を発着する区間便として桜小学校 - 渋谷駅、上町 → 祖師ヶ谷大蔵駅、祖師ヶ谷大蔵駅 → 松が丘交番の各便がある。三軒茶屋経由で世田谷通りへ向かう幹線で、日中は東急と小田急バスが交互に15分間隔で運行し、両社合わせて7分間隔となっている。1931年(昭和6年)、世田谷通りのバスを最初に立ち上げた八木商会が玉川電鉄に路線を引き継ぐ。その後、東横電鉄、大東急を経て、東宝線(渋谷駅 - 東宝前)として基礎が出来上がるが、国領線(後の調布線)と共に玉川電鉄以来の拠点だった世田谷営業所の主力路線的な存在だった。1944年(昭和19年)に戦時休止となり、戦後は世田谷営業所を引き継いだ淡島営業所の手で復旧、運行していた。この頃、小田急バスは事業を開始したばかりで、三鷹周辺など市部を中心に運行していたが、23区内に営業基盤を設けるべく東急と協議を行い、相互乗入れを行うことになった。1951年(昭和26年)8月28日、小田急バスが成城線に新規参入し運行を開始するが、当初は上町駅と渋谷駅の間が無停車の「急行」という条件付きだった。同じ年の12月に若林駅(現・若林三丁目)と西太子堂への停車が認められ、やがて各停に切り替わった。なお小田急側の現担当拠点、狛江営業所ができたのは1960年(昭和35年)で、それまでは若林営業所(現・小田急シティバス)が担当していた。1999年(平成11年)10月16日から1年間、大橋が担当していた。弦巻担当に戻ったのは2000年(平成12年)11月16日で、同時にトランセへの委託路線となった。成城線は現在、東急で唯一道玄坂を経由し、渋谷駅付近の往復経路が異なっている。道玄坂で歩行者天国が実施される日と21時以降は往復とも国道246号を経由するが、1994年以前は東急百貨店2階のターンテーブル乗り場を発着していた。成城学園前駅での発着は南口で行われていたが、同駅の地下化による駅前整備で新たに西口バスターミナルが設けられたことから、2006年(平成18年)7月22日より、降車場所が西口に変更された。渋谷方面行きの乗り場は従来どおり南口のままである。夜間に入庫便として、成城学園前駅→上町、成城学園前駅→松が丘交番前の便がある(いずれも客扱い後に弦巻営業所へ回送)。1956年9月20日に恵比寿駅 - 目黒駅 - 都立大学駅 - 桜新町で開通し、学校名を付した停留所が多かったことから、学校線と命名された。その後、東横百貨店(現・東急百貨店東横店、渋谷駅東口)へ延長され、さらに東横百貨店 - 砧公園緑地の開通、成城学園前駅への延長と拡張を続けた。しかし、渋谷から目黒通りを経由する大幅な迂回ルートで成城に至るという長距離路線であったことから全線通し需要は少なく、1970年9月1日に成城学園前駅発着便は目黒駅起点に短縮された(のちに黒05となる)。1994年に都立大学駅北口起点に短縮され、現行の都立01となった。1970年の改正では東急百貨店 - 桜新町便は存続したが、幾度かの経路変更を経て黒07となり、1999年9月1日に目黒へ移管し深沢線として独立した後、2007年3月16日に弦巻所管に戻った。なお、八雲から先はループで実質循環運転となっており、八雲→都立大学附属高校前→めぐろ区民キャンパス→都立大学駅北口→中根町→八雲高校→八雲の順に停車。都立大学駅をまたいでの乗車も可能である。入出庫便のみ弦巻営業所系統が両方面に運転される。1999年9月1日に弦巻から目黒に移管された際、学校線から独立して成立した。目黒通りの新交通システム導入、東急バス労働組合との協定により、同所が長く運行してきた路線の中で唯一トランセへの管理委託されなかった路線だった。なお、営業所の移管後も変わらず弦巻営業所の構内で折り返していた。学校線は、最盛期には渋谷 - 目黒 - 成城を結んでいたが、1970年9月1日に路線が事実上分割され、東側を東急百貨店(渋谷駅東口) - 桜新町が引き継いだ。その後、弦巻営業所へ延長されたのち、1984年2月16日に恵比寿駅起点に短縮(渋73→恵73)、1986年4月3日から開始された目黒通り新交通システムに対応すべく、大半の便が目黒駅起点の黒07となった。この時の恵比寿駅への運行は、出入庫時のみ弦巻営業所から直通し、それ以外は恵比寿駅 - 目黒駅の短距離区間を往復するという形になったが、1987年3月20日に廃止となっている。この区間は、戦前の東横乗合から続く、都内東急バスの中では歴史ある営業区間の1つであった。2007年3月16日、横浜市営の廃止・民営バス移管に伴う大規模再編による東急バス乗務員の異動により、黒07も弦巻に再移管、約7年半ぶりに弦巻所管に戻り、同時に東急トランセに管理委託された。途中の日体大 - 桜新町一丁目には一方通行路があるため、往復で経路が異なっている。この区間は戦前に東京信託により開発された新町住宅地で、近隣に比較して広壮な邸宅が集まり、沿道には桜並木が植えられて満開時には桜のトンネルになる。1933年の玉電沿線名所図会に、「櫻トンネル」と記されている。桜新町駅周辺でさくらまつり(毎年4月実施)が行われる際は駅前の通行ができないため、迂回を行っている。源流は不動前営業所が担当していた、山手線五反田駅と等々力を大回りで結ぶ大橋線という路線である。大橋線は等々力操車所から世田谷通りに出るまでが現在と同一で、世田谷通りを現在とは反対に右折、松陰線や成城線と同じルートで大橋まで行き右折、目黒営業所の品川線と同じく山手通りを南下して五反田駅に達するというルートで、後に反42という系統番号が付くが、1974年(昭和49年)5月19日限りで廃止となり、後継路線として祖師谷線が誕生した。当初は大橋が担当していたが、1981年(昭和56年)6月23日の路線再編成で駒沢営業所へ移管され、1984年(昭和59年)の駒沢閉鎖時に弦巻へ移管。以来、30年以上に渡り弦巻が担当する。1993年(平成5年)5月16日に祖師ヶ谷大蔵駅バスターミナルが新設され、渋23、恵32(現・用01)が同駅バスターミナルまで延伸されたが、等11だけは同駅バスターミナル完成後も祖師ヶ谷折返所(元・祖師谷大蔵/現・山野小学校)発着となっていた。そして、2010年3月1日で祖師ヶ谷折返所が廃止され、等11も祖師ヶ谷大蔵駅まで延伸され、同駅バスターミナルが完成してから約17年目に用01と発着停留所を統合する形となった。同時に時刻も変更され、最終便の繰り上げ(祖師ヶ谷大蔵駅発は22時台から平日・土曜は19時台、休日は18時台に大幅繰り上げ、等々力操車所発も繰り上げ、夜間は桜小学校止まりとなる)を含む減便となった。以前は、日曜・祝日に駒沢公園通りの弦巻一丁目 - 世田谷区役所入口(現:世田谷駅前)間で歩行者天国が行われていたため、向天神橋 - 世田谷区役所入口間は迂回運行していたが、歩行者天国廃止に伴い迂回運行は終了した。しかし、世田谷ボロ市開催時(12月15日・16日、1月15日・16日)にはこの区間が通行止めとなるため、年に最低4日は上記の迂回ルートを運行する。五反田駅から武蔵小山、学芸大学、上馬を経て世田谷区民会館へ向かう。1950年代に五反田駅 - 武蔵小山の路線として開設され、その後道路の整備に伴い1960年代末に世田谷区民会館へ延伸された。渋滞が発生しやすいことや学芸大学駅前の狭路など、運行条件が良好でない部分もあるが、路線の南半分は独自の運行区間である。かつては目黒が担当していたが、2002年5月16日で弦巻に移管、東急トランセ管理委託路線になった。同時に出入便として弦巻営業所発着便が設定された。2009年11月1日より、武蔵小山駅バスロータリー乗入れを開始した。東京都大田区の田園調布駅から九品仏駅、用賀駅、農大前を経由して世田谷区民会館(世田谷区役所)を結ぶ路線である。1959年9月1日に田園調布駅 - 世田谷区民会館が開通し、最盛期には淡島営業所の若林線とつながる形で渋谷駅に至っていたが、1973年に世田谷区民会館を境に分割され、渋谷側は渋52系統・区民会館線となった。区民会館線は1984年(昭和59年)2月の駒沢営業所閉鎖に伴う路線再編成で並行していた若林線と統合、淡島営業所へ移管されるが、2015年(平成27年)12月に若01系統と統合し、31年ぶりに弦巻へ復帰した(後述)。鉄道での移動が困難な地区を効率よく結ぶため、区間ごとの利用客が多く、日中は1時間に2 - 3本で運行されている。1994年(平成6年)1月17日から用賀駅バスターミナルに乗り入れを開始した。営業所付近の入出庫便として、上町→田園調布方面、田園調布駅→松が丘交番、桜小学校-世田谷区民会館の便がある。このうち、桜小学校→世田谷区民会館は小山線の出庫も兼ねている。駒沢営業所から大橋営業所、下馬営業所を経て、2014年(平成26年)6月1日付で弦巻に移管されてきた。1967年(昭和42年)6月25日、都営バスとの相互乗り入れにより大森操車所 - 代田橋 - 東高円寺駅 - 新宿駅を結ぶ路線として開通。1984年(昭和59年)2月16日に路線分断・短縮され、森91となった。路線名の通り、経路の大部分を占める馬込銀座から新代田駅前の間は環七通りを走る。新代田駅以北では都営バスの宿91系統へ乗り継ぐ乗客の便宜を図るため、同じ91の番号をつけている。都営バスは新代田駅前から南、駒沢陸橋(森91は通過。分断当初は野沢銀座)まで運行することでこの区間で重複していたが、2013年4月から新代田駅前発着に短縮されたことで完全に分断される形となった。移管にあたって、2014年4月1日付で出入庫便の環七通りから外れる区間を回送とするダイヤ改正を行った。戦前は、目黒営業所の前身となる目黒自動車運輸が品川駅 - 目黒駅 - 祐天寺駅に路線を持っていた。このうち、目黒駅と品川駅の間は陸上交通事業調整法による営業地域調整の結果、1942年(昭和17年)2月1日付で東京市電気局(現・東京都交通局)に引き渡され、現在の都営バス品93系統となる。戦後、東急電鉄になってから目黒駅 - 祐天寺駅間を復活させる際に、東京学芸大学附属高校や獣医学校をつなぐ形で三軒茶屋まで延長したもの。開通日は世田谷区史によると1950年(昭和25年)3月1日である。日大三軒茶屋キャンパス、明治薬科大学、昭和女子大学、東京学芸大学附属高校、多摩大目黒中高(旧・目黒学園女子高校)への通学輸送と、目黒区中町・中央町・五本木、世田谷区下馬・三軒茶屋の地域輸送を一貫して担い続けている。旧目黒自動車運輸以来70年以上に渡って目黒営業所が担当してきたが、2002年(平成14年)7月16日に下馬に移り、トランセ委託路線となった。下馬営業所への出入庫のため、目黒駅側からは五本木一丁目発着、三軒茶屋側からは祐天寺駅(朝のみ)、五本木二丁目発着があった。その後、2014年(平成26年)9月1日のダイヤ改正で、下馬から弦巻に移管された。開通後、現在に至るまで2区間において経路変更を行っている。1つは、祐天寺裏 - 祐天寺駅のショートカットが目黒区役所(現・水道局目黒営業所)経由となったこと、もう1つは、三軒茶屋駅付近において住宅前経由が中里経由の循環線になったことである。なお、日大生物資源科学部は2001年(平成13年)に神奈川県藤沢市へ全面移転しており、現在は同じ場所に危機管理学部・スポーツ科学部が設けられている。このため、「日大農獣医学部前」停留所は「日大生物資源科学部前」を経て、現在の「日大前」に名前が変更されている。2013年(平成25年)8月30日に若01系統として新規開設した路線。当初は下馬の担当だったが、2014年9月1日付で弦巻に移管。さらに2015年12月1日付けで淡島営業所の若林線渋52系統と統合のうえ渋谷駅を経由するように改定した。この結果、渋52系統としては1984年(昭和59年)3月16日に淡島へ移管されて以来31年ぶりに弦巻へ復帰する形となった。また平日2本、土休日1本は渋谷駅始発が設定されている。平日、土曜・休日とも日中のみ概ね30分間隔の1日17本が運転される。代田中筋 - 青葉台四丁目間は渋51と同一経路だが、道玄坂上は復路のみ停車となり、往路は旧山手通り・松濤二丁目交差点を経由し東急百貨店本店前に停車する。東急百貨店本店前停留所は淡島営業所の渋61系統が2002年に京王バス単独となって以来、11年ぶりに東急バスの路線が復活する形となった。歩行者天国実施時には、渋谷駅付近の交通規制のため迂回ルートで運行される。迂回ルートは、東急百貨店本店前を出て左折し、一周する形で松濤二丁目方面へ戻り、松濤二丁目交差点を左折し旧山手通りを経由して、青葉台四丁目から正規ルートに復帰する。なお若01時代は、東急本店の店内放送アナウンサーが車内アナウンスを担当していたが、現在は従来の車内アナウンスとなっている。渋25・26は世田谷通りを経由し、狛江駅・調布駅に至っていた路線である。戦前の路線をベースとして、1950年に国領駅 - 東宝前を国領線として復旧したのがこの路線の始まりで、もともと狛江や国領は、玉川電気鉄道以前の路線をルーツとする東急の独自エリアであったが、まもなく都区部方面への路線を開拓していた小田急バスとの共同運行となり、さらに渋谷駅へと段階的に延伸された。1965年頃に終点を国領から調布駅南口に付け替えて抜本的な見直しを行ったが、1977年(昭和52年)3月30日限りで東急が撤退、共同運行は解消となった。その後、小田急バスは1999年(平成11年)に渋25を廃止したものの、渋26の運行は続けている。2013年8月に下馬営業所の担当で新設、その後2014年9月1日付で弦巻営業所に移管。当初は淡島営業所の若林線渋51系統と同じく若林折返所を起終点とし、経路の都合上渋谷駅前を通過はするが停車しないという特殊な運行をした。2015年(平成27年)12月1日付で若林線渋52系統と統合、渋谷駅にも停車するようになる(前述)。1947年(昭和22年)、中延所管の雪が谷線や目黒の自由が丘線と並ぶ東急バス初の都営共管路線としてスタートした路線で、都営では101系統と呼称した。当初は不動前営業所が担当し、開所と同時に弦巻へ移管(前述)。さらに1964年(昭和39年)駒沢営業所開所時に駒沢へ移管された。その後恵比寿駅での分断など幾多の変遷を経て、1981年(昭和56年)6月23日の中延営業所閉鎖に伴う路線再編成で廃止された。1967年(昭和42年)、首都高速道路3号渋谷線を使った都心と郊外を結ぶ新しい通勤手段として、都営バス主導で企画され立ち上げ。東急からは駒沢・瀬田両営業所と並んで当営業所も参加し、2社4営業所による共管となった。これほどの大規模な共管は、東急バス史上後にも先にも類例がない。1977年(昭和52年)、東急新玉川線(現・田園都市線)が開業したのをきっかけに乗客が鉄道へと流れ、交通局の第2次再建計画による追加の路線再編成で運行取りやめが決まる。そして、1979年(昭和54年)11月22日限りで廃止された。1947年(昭和22年)6月25日、東急初の都営共管路線の一つ、103系統として設定された。都営側の記録によると当初は三軒茶屋から先も玉川通り経由で駒沢折返しだった時期があるが、1949年(昭和24年)までに変更となり経堂駅が終点となった。東急側は当時、世田谷区内の拠点が淡島営業所1カ所しかなかったことから淡島が担当し、当営業所開設と同時に移管された。1974年(昭和49年)8月26日付で渋谷駅を境に分割され、都営が東京駅 - 渋谷駅間の東84系統、東急は渋谷駅 - 経堂駅間の渋22系統となり、同時に大橋営業所へ移管。その後、路線のほとんどが渋21と重複し非効率になったとして、駒沢営業所閉鎖を目前に控えた路線再編成の際、1984年(昭和59年)2月15日限りで廃止された。一方、都営バス側も東京駅と渋谷駅の間で運行を続けたが、乗客が並行する営団地下鉄銀座線に流れ、交通局第2次再建計画による整理対象となり1977年(昭和52年)12月15日限りで廃止となった。()内はデマンド区間。1984年3月16日の駒沢廃止時に、祖師谷線とともに移管された。駒沢は旧・営業所の跡地に設けられた駒沢折返所で折り返していたが、駒沢発は他系統の駒沢折返所(現・駒沢公園西口)停留所と別に設けられた専用の停留所から出発していた。1999年に瀬田へ移管。2000年(平成12年)7月19日に東京空港交通・京浜急行電鉄との共同運行で渋谷 - 羽田空港が開通すると、翌年にはセルリアンタワー経由に経路変更する。大橋営業所が廃止される直前の2001年(平成13年)5月16日付で東急トランセ管理委託の上、弦巻の管轄となる。2003年(平成15年)には、パートナーの京急電鉄がバス部門を分離。これ以降は子会社の京浜急行バスが担当する。2009年(平成21年)4月24日、二子玉川駅 - 羽田空港が開業。空港線ではこの路線のみPASMO・Suicaを導入する。2012年(平成24年)4月16日、京急担当便が両路線とも横浜市神奈川区に新設された新子安営業所に移管される。2014年(平成26年)9月1日のダイヤ改正で、弦巻営業所から下馬営業所へ移管された。いずれも首都高速3号渋谷線、首都高速都心環状線・首都高速湾岸線を経由する。ただし、高速道路の渋滞が激しい時は一般道経由となる。車両は補助席付き60人乗りで、営業所と交信できるように無線機を装備している。2015年8月3日より実証運行路線として運行開始された。平日のみ運行される。2016年1月29日に実証運行を終了した。いすゞ自動車・UDトラックス・日野自動車・三菱ふそうの4メーカーを配置。一般路線車のうち大型車は松陰線と成城線、中型ロング車は弦巻線と学校線、上町線、環七線、中型車は祖師谷線、小山線、三軒茶屋線、若林百貨店循環線などをそれぞれ中心に使用される。所属台数は2013年3月現在78台。弦巻営業所ではいすゞと日産ディーゼル/UDトラックスを中心に日野、三菱ふそうの一般路線車が在籍する。なかでも中型ロング車の比率が高く、なかでもKLーJPは当営業所のみの配置である。また都内のトランセ管理委託営業所で唯一いすゞ車が存在する営業所であり、いすゞ製V8エンジン車が所属する数少ない営業所の一つ。2013年からは東急初のいすゞ・エルガハイブリッドも1台導入されている。日野車では大橋営業所から転属してきた2ステップ車のブルーリボンが所属していた時期もあったが、現在はブルーリボンシティハイブリッドと、PK代のレインボーHRが在籍している。このほか渋谷空港線・二子玉川空港線用のセレガRが新羽営業所から転入していたが、後に路線ごと下馬営業所に移籍している。三菱ふそう車は、東急トランセ管理委託化後に三菱ふそう・エアロスターMのT1487が1台だけ下馬から転属され配置されていた時期もあったが、日産ディーセル・JPのPDG代がふそう製エンジンとなるものに備えた前哨配置であり、長らく渋谷空港線・二子玉川空港線用の高速バスのみの配置だった。一般路線車は2014年1月にエアロスターノンステップ車のT480が新羽営業所から転入したが、僅か1カ月で瀬田営業所へ転出した。その後、2014年6月の環七線の移管時に下馬営業所からエアロミディMK(ナロー車)とエアロスターS(UDトラックス・スペースランナーRAのOEM車)が転入し、一般路線車は4メーカー全て、ナロー車もいすゞを除く3メーカー全ての車両が配置されることになった。現在はUDトラックスのバス製造販売終了という事情もあり、いすゞ・エルガおよびエルガミオの比率が高まりつつある。2011年度に新車で導入されたブルーリボンシティハイブリッドのT1139は、東急バス創立20周年を記念した「2代目一般路線車色」となっている。2014年11月17日からは世田谷ナンバー(ご当地ナンバー)の使用開始に伴い、新車と転入車は世田谷ナンバーで登録されており、2014年度第2期・2015年度導入のエルガおよびエルガミオが世田谷ナンバーとなっている。
出典:wikipedia
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