「ブルータス、お前もか」()は、ラテン語の史的な格言であり、共和政ローマ末期の独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルが議場で刺殺された時、今際の際に、腹心の1人であった元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥス(父と区別して小ブルトゥスとも)に向かって叫んだとされる言葉である。自身の暗殺にブルトゥスが加担していた事を知ったカエサルが、「ブルトゥス、お前も私を裏切っていたのか」と非難したものである。短い言葉であるために直訳はともかく、意訳する場合はどのような言い回しとして考えるかは議論がある。「ブルータスよ。お前もか」、「お前までか、ブルトゥス」、「そしてお前もか、ブルトゥス」、「お前もなのか、ブルトゥス」、「汝もか、ブルトゥス」、「そして汝もか、ブルトゥス」など、様々な翻訳が見られる。この台詞で最も有名なのは劇作家ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』における台詞が挙げられる。シェイクスピアの影響から、西洋では"は親しい者からの裏切りを意図する格言として定着した。紀元前44年3月15日、独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは自らの古い友人であり、腹心でもあった元法務官・元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥスや部下でブルトゥスの従兄弟デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス、かつての敵だったガイウス・カッシウス・ロンギヌスら閥族派によって暗殺された。カエサルは暗殺の際にブルトゥスの姿を認めるとひどく落胆し、トーガで自身の体を覆う仕草を見せて"と呟いたという。よく誤解されることだが、カエサルがブルトゥスを揶揄する言葉を呟いたという伝承自体はシェイクスピアの史劇以前から存在するものであり、一から完全に創作した場面ではない。最も古い伝承では帝政ローマ初期の歴史家スエトニウスの『皇帝伝』(LXXXII)があり、古代ギリシャ語で「息子よ、お前もか?」(, Kai su teknon カイ・スュ・テクノン)と書かれている。カエサル(に限らず教養ある古代ローマ人)は古代ギリシャ語を流暢に話したと伝えられることから、こうした言葉を残したとしてもさほどの不自然さはない。一方、"という言い回しで定着させたのは間違いなくシェイクスピアである。『ジュリアス・シーザー』では「ブルトゥス、お前もか?もはやカエサルもここまでか!」(Et tu, Brute? Then fall, Caesar!)と続く形になっている。ちなみに、シェイクスピアは同作以外にも似た場面と台詞を使用している 。古くからこの言葉が本当に史実かどうかについて、歴史学者たちの間で既にローマ時代から議論が行われている。プルタルコスは「カエサルはマルクス・ユニウス・ブルトゥスの姿を見ると、トーガで身を覆う仕草を見せた」と伝えており、動揺を示しつつも言葉でなく仕草で現したと主張している。スエトニウスに至っては「カエサルは言葉を残す暇もなく、刺されて死んだ」と伝えている。仮に"、正確にはその源となった"が史実であるとした場合、「息子」という言葉をどのように解釈するかが議論となる。カエサルは後に大甥で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスに謀殺されたカエサリオンを除いて息子はなく、他に子供はポンペイウスの妻であったユリアの一女のみである。したがってこれは、当時からカエサル落胤説が囁かれるほどに寵愛されていたブルトゥスに対する言葉と考えられている。もう一つの説としては、古代ギリシャの格言を引用したのではないかとする論がある。『ジュリアス・シーザー』の台詞も"だけが広がり"Then fall, Caesar!"が余り広がっていないのと同じように、"も部分を抜き出しただけなのではないかとする論者もいる。この論に立つ場合、カエサルの言葉は「息子よ、お前も私と同じ末路を辿るだろう」(ブルトゥスが元老院で失脚することへの予測)であったと主張される。他に「次はお前の番だ」(Your turn next)とする説、「先に向こうで待つぞ、若造!」(To hell with you too, lad!)とする説など多様であるが、無言で死んだとするスエトニウスも自らが聞いた説として"tu quoque, fili mi"(息子よ、お前までが)を書き残している。これは18世紀のラテン語の教本である"De Viris Illustribus"などに引用されており、現代に影響を残した。フランス、イタリア、スペインなどロマンス語諸国では、"et tu, Brute"より"tu quoque, mi fili"もしくは"tu quoque, Brute, fili mi"を使う事が多い。
出典:wikipedia
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