仙台空港(せんだいくうこう)は、宮城県名取市と岩沼市に跨って位置する東北地方唯一の国管理空港(旧第二種(A)空港)である。空港ターミナルビルが名取市にあり、滑走路が岩沼市に及ぶ。愛称は仙台国際空港。2016年7月1日に運営が仙台国際空港株式会社に移管(民営化)された。宮城県中南部の海岸にほど近い、仙台市のJR仙台駅から南南東14kmほどのところに位置し、仙台空港アクセス線(空港連絡鉄道)で結ばれている。離着陸の際には、広大な太平洋と仙台湾沿いに続く砂浜や防砂林の松林、南北に流れる貞山運河、そして奥羽山脈に抱かれた仙台平野と市街地のビル群が一望の下になる。滑走路は、開設時からある1,200mのA滑走路と新設された3,000mのB滑走路の2本あり、「y」の字型に交わる。基本的に、A滑走路はセスナなどの小型機、B滑走路は旅客機などの中型機や大型機が使用するが、航空大学校などの小型機も訓練のために、計器着陸装置(ILS)が使用できるB滑走路を使用する。他県の多くの空港では公共用ヘリコプターも見られるが、宮城県警察ヘリは仙台市若林区霞目にある陸上自衛隊霞目飛行場を使用する。現在のターミナルビルは1997年(平成9年)7月に全館供用開始したものであるが、建設にあたりハートビル法に定めるバリアフリー基準を満たし、1995年(平成7年)12月に空港施設として日本で初めて同法認定の特定建築物となった。完成後に制定された交通バリアフリー法にも合致するように整備がなされた。また、出発ロビーや待合室の壁面を全面ガラス張りして照明の使用を減らす省資源化が施されている点や、屋根が3つの波型になっている点、出発ロビーや搭乗待合室などの行先案内表示機が反転フラップ式案内表示機(パタパタ)である点などの特徴もある。展望デッキは、屋上の「スマイルテラス」(民営化により大人も無料)と屋内3階(無料)とがある。ターミナルビル中央部分のエスカレーターが集まる吹き抜けは「プラザ」と呼ばれ、中央の噴水の水を抜くと照明機能付きのステージに変わり、イベントが行えるようになっている。3階にはエアポートミュージアム「とぶっちゃ」があり、旅客機のコックピットやビジネスクラスのシート等が展示されている。かつて仙台市で飛行機の離着陸に使われた場所として、現在の宮城野原公園総合運動場や川内追廻などがあった。1933年(昭和8年)になると、仙台市街地の南東に日本陸軍飛行学校の練習用飛行場として「仙台飛行場」(現霞目駐屯地)が設置された。しかし、日中戦争開戦に伴って飛行部隊が拡充されたため「仙台飛行場」は手狭となり、現在の「仙台空港」のもととなる「名取飛行場」が1940年(昭和15年)に設置された。2011年(平成23年)3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。滑走路は直ちに閉鎖され、ターミナルビルには旅客・周辺住民・従業員ら約1400人が避難した。15時56分、地震による津波が到達し空港および関連施設は冠水した。ターミナルビルは3.02mの高さまで冠水し、1階部分には自動車や瓦礫が大量に流れ込んだ。駐機中の旅客機は居なかったが、海上保安庁や民間の小型機・ヘリコプターなど計67機が津波によって被害を受けた。この内、海上保安庁のDHC-8-315「みずなぎ」のみ修理されたが、他の機体は修理を断念している。3月12日午後に救急車やマイクロバスなどが到着、避難者の退避が開始され、3月16日までに空港職員を除く全員が空港を離れた。3月16日、福島第一原子力発電所事故の影響を考慮して、アメリカ合衆国政府が在日米軍を含む自国民に対し、同原発から50マイル(80km)圏外に退避するよう勧告したが、同原発から80kmの同心円上に位置する当空港に嘉手納飛行場に駐留するアメリカ空軍第320特殊戦術飛行中隊が航空自衛隊松島基地を経由して移動し空港の復旧活動を行った。アメリカ空軍及び空港の保守作業を担当している前田道路が残骸を除去し、部分的な滑走路の確保後、アメリカ空軍特殊作戦コマンド用輸送機MC-130Pが、強行着陸で復旧用の機材や車両を輸送。空軍戦闘航空管制官がバックパックラジオ(可搬型無線機)で臨時の航空管制を確立し、空港機能を復活させた。以降、米軍はこの空港を使って200万トン以上の食料、水、毛布を被災地に輸送するなど、4月7日までアメリカ空軍・同海兵隊・自衛隊による日米合同救援活動「トモダチ作戦」の拠点として使用された。4月3日、仙台空港近くの海岸に流木を用いて作られた「ARIGATO」の文字が仙台空港復旧作業の司令官であったロバート・トス空軍大佐に発見され、後の手記で仙台空港の復旧に力添えできたことを光栄に思う、と言及した。4月13日に運用を再開して以降、全日本空輸・日本航空・AIRDO・IBEXエアラインズによる臨時便を運航。7月25日に全日本空輸・AIRDO・IBEXエアラインズ、9月1日に日本航空の定期便が再開。国際線も、9月25日のターミナルビル完全復旧と共にソウル/仁川線(アシアナ航空)の定期便が再開。その後順次運航が再開され、2012年(平成24年)7月30日の長春線(中国南方航空)再開をもって全路線が復旧した。仙台空港鉄道は、空港敷地内のトンネルが水没するなどの被害を受け、4月2日以降バスによる代行運転を行った。10月1日に仙台空港駅の営業を再開し、同日仙台空港線は全線復旧した。 空港ターミナルビルの西に位置し、管制塔に隣接する。乗降客数は1968年(昭和43年)に年間10万人を超える程度だったが、1975年(昭和50年)には年間54.7万人となり、1978年(昭和53年)には年間100万人を超え、1981年度(昭和56年度)には150万人/年度を超えた。1982年(昭和57年)6月23日に東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅)が開業すると、羽田便が運航されていた当空港では同年度より乗降客数が低迷し、上野駅 - 大宮駅間が延伸開業した1985年(昭和60年)を以って同便は廃止された。1990年代には規制緩和により格安航空券が登場し、個人旅行が増加したという背景に加え、当空港に初めて国際定期便が就航し、滑走路の延長や新旅客ターミナルビルの完成もあって乗降客は増加。1999年度(平成11年度)には338.5万人/年度にまで増加した。その後、横這いを続けたが、2006年度(平成18年度)には338.7万人/年度と1999年度のピークを越えた。燃油価格の上昇に伴い2007年度(平成19年度)から国内線でも運賃値上げが始まり、乗降客数は減少傾向となった。1996年度(平成8年度)から300万人/年度以上を保っていたが、2008年度以降、300万人/年度を割り込んで減少した。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波の被害を受けて一時営業休止となり、2010年度(平成22年度)は262.2万人/年度、翌2011年度(平成23年度)は19年ぶりに200万人/年度を下回って184.6万人/年度にとどまった。2012年度(平成24年度)は、路線の再開が相次ぎによって回復>。2013年(平成25年)4月より格安航空会社が初就航したことで国内線の乗降客数が大きく増加し、同年度以降は再び300万人/年度を超えている。仙台空港を目的地側とする旅客の当日目的地は、1位が仙台市となっており全体の約半分(49.8%)、2位は日本三景・松島がある松島町(7.2%)、3位は隣県の山形市(4.5%)となっており、約3割が宮城県外を当日目的地とする。業務の場合は、仙台市を当日目的地とする者が72.4%で圧倒的に多いのに対し、観光の場合は仙台市(24.8%)、松島町(15.4%)、鳴子町(現・大崎市の一部)となっており、それ以外の目的地は、秋田県田沢湖町(現仙北市の一部)や青森県十和田市、あるいは山形市や盛岡市、福島市などの隣接県の県庁所在地となっており、東北地方各地にも広がりを見せる。国内線旅客数は1999年(平成11年)度に296.5万人でピークとなり、2000年(平成12年)度に277.5万人まで減少。その後は徐々に増加し、2006年(平成18年)度には304.8万人となり、初めて300万人の大台に乗った。しかしその後再び減少。2011年(平成23年)度は、東日本大震災の影響により18年振りに200万人を割り込んだ(177.7万人)。2013年(平成25年)度、ピーチ(LCC)・スカイマークの就航や既存路線の増便等もあり、298.9万人と2006年度に次ぐ水準にまで回復。翌2014年度は、スカイマークの更なる路線開設等もあり、開港史上最多となる307.2万人の乗降客数を記録した。仙台空港の国内線における東北地方居住者の利用客比率は、宮城県70%、岩手県9.2%、山形県8.2%、福島県7.7%、その他4.9%となっており、宮城県の隣接県に広がっている。特に、山形市を中心とした村山地方や、福島県中通り北部および浜通り北部の地域では、仙台空港が第一選択の空港になっている。国内線旅客においては、他の地方から入って来る旅客の方が多い(国内線来訪者比率56.6%。参考:名古屋23.4%、広島52.3%)。これは、関西や北海道、九州からのビジネス客が多いためで、仙台が支店経済都市であることを反映している。国際線旅客数は2000年(平成12年)度の47.2万人をピークに景気低迷やアメリカ同時多発テロ事件の影響で減少。2003年(平成15年)度にSARSが発生して25.1万人にまで減少した。その後は回復基調となり、2007年(平成19年)度には35.0万人となった。その後は25万人前後で推移したものの、2011年(平成23年)度は東日本大震災の影響により6.9万人と大幅に減少、前年度比の26.5%に留まった。2012年(平成24年)度は近隣諸国との関係悪化によって低調に推移。運休も相次ぎ、V字回復するには至らなかった。2013年(平成26年)度は、ハワイ・タイへの定期便が就航したものの、近距離国際線の運休・減便が拡大。乗降客数も微減となった。仙台空港の国際線における東北地方居住者の利用者比率は、宮城県内居住者が40.0%、残りの6割は周辺各県からの利用者となっている(山形県19.7%、岩手県14.3%、福島県10.6%、その他15.4%)。特に、山形県民の日本国外渡航における仙台空港利用率は50%を超えており、仙台空港が第一選択となっている。1999年(平成11年)度における東北地方居住の日本人出国者の利用空港内訳は、成田54.1%、仙台30.1%、関西6.1%、青森2.7%、福島2.0%、羽田1.9%、新潟1.2%、その他1.9%となっていた。仙台空港の外国人乗降客数は国際旅客全体の30%程度である。仙台空港を利用する外国人旅客の主な渡航目的は、韓国人はゴルフやスキー、台湾人は温泉などである(仙台空港の外国人居住地別利用者比率 : 韓国50.0%、台湾及び中国大陸23.1%、ヨーロッパ11.5%)。航空会社が2社以上の場合、上の段に掲載されている航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航便(コードシェア便)。仙台空港と成田国際空港、中部国際空港、新千歳空港、大阪国際空港、福岡空港を結ぶ便には、共同運航便(コードシェア便)として外国航空会社便名が付与される便がある。外国航空会社便名での利用は国際線乗継旅客に限られ、国内区間のみの利用は運航する航空会社の便名となる。航空会社が2社の場合、上の段に記載されている航空会社の機材・乗務員による共同運航便(コードシェア便)。仙台空港では、4社がセスナ機やヘリコプターで遊覧飛行を実施している。昼間の運航では、仙台市街地や松島、蔵王連峰、栗駒山などの上空を遊覧するコースがある。季節的にナイトフライトも催行され、夏には、宮城県内各地で催される花火を上空から見るナイトフライトや、年末のSENDAI光のページェント期間中において、定禅寺通りなど仙台市上空を回るナイトフライトも催行される。 新規就航 国内線国際線仙台駅前から当空港までの所要時間は約30分、運賃は5,600円である。また、運賃とは別に高速道路料金(500円)が加算される。2003年(平成15年)の調査によると、日本人の当空港へのアクセス方法はリムジンバス等が51.6%で最も多く、次いで団体バスが14.3%、自家用車送迎が13.3%であった。仙台空港鉄道(仙台空港アクセス線)開業を受けた2007年(平成19年)12月の調査によると、当空港へのアクセス方法は鉄道が44%、自家用車(送迎含む)が39%、リムジンバスの割合は3%と大幅に減少した。2007年(平成19年)3月17日、翌日の仙台空港アクセス線開業に伴い、仙台市都心部と仙台空港間の旅客輸送の中心であった仙台市交通局のエアポート・リムジンバスが廃止。翌3月18日より、愛子観光バスがエアポートリムジンを、東日本急行がエアポートライナーを開設。民間のバス会社2社は同区間に従前のリムジンバスの乗車料金より割安な運賃で参入したが、愛子観光バスは2008年(平成20年)2月29日、東日本急行は2009年(平成21年)1月31日をもって撤退。宮城交通・山交バスが運行していた仙台空港と山形市を結ぶ高速バスも2008年6月30日をもって廃止。2010年3月31日には、ミヤコーバスによる仙台空港と館腰駅を結ぶ路線バスも廃止された。これにより、バス路線は岩沼市民バスによる岩沼駅方面への便を残すのみとなった。空港の東側には、江戸時代に伊達政宗の命により作られた貞山運河(貞山堀)が南北に流れており、それを越えてさらに東へ1kmほどいけば太平洋である。旧仙台陸軍飛行学校内には1939年(昭和14年)創祀の航空神社があったが、占領期の1945年(昭和20年)に進駐軍に同校が接収されたため、神体は現在の空港ターミナルビルの東300mほどの名取市下増田にある下増田神社に遷された。また、空港から南に5kmほどの岩沼市二の倉には、航空安全の神が祀られる二の倉神明社がある。滑走路の南西側の岩沼市内に仙台空港臨空公園が設置されている。当初は、中坪臨空公園として2011年(平成23年)4月に供用開始予定であったが、東日本大震災の影響を受けて1年遅れの2012年(平成24年)4月29日に供用開始された。空港周辺にあるホテルは、ビジネスホテルが杜せきのした駅近くにあるホテルルートイン名取のみ。シティホテルは仙台市内が最寄となる。
出典:wikipedia
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