鍼医(はりい)は、奈良もしくは平安時代から明治時代初期までの日本において鍼を使用して治療(現代では医療行為)を行った職業およびそれに従事していた人の名称で、鍼醫または針医(しんい)とも呼ばれた。現在ははり師として国家資格化されている。なお、例は少ないながら古代(紀元前)中国でも使用例はある。その古来起源ははっきりしない。日本の鍼灸は、562年(欽明天皇23年)に中国の呉国から知聡(ちそう)が書物と共にその技術を伝えたのに始まるとされる。701年(大宝元年)には大宝律令の医疾令が、続けて757年(天平宝字元年)には養老律令の医疾令が発せられて、鍼医の原型となるべく官制が定められた。同令では、宮内省典薬寮に鍼博士(定員1名)・鍼師(定員5名)・鍼生(定員20名)などを置くことが医博士、医生などの制度と並んで設けられた。鍼博士は従七位相当官であったが、任じられた丹波康頼は、従五位(後にさらに昇官)に任じられ貴族に列しており、大宝律令に基づく鍼博士が高い身分であることが窺える。医疾令は後代に条文の多くが失われ、また残された資料も四散しており、関連文書からの推定復元が進められているものの当時の制度で不明な点も多い。本来は、治療に用いる鍼を製作する人を「鍼師」(はりし)と、鍼による治療を行う人を「鍼医」と呼んでいた。ただし、この呼び分けは、医疾令からのものもか、あるいは医疾令崩壊後の鎌倉時代以降の用例なのかははっきりしていない。また、平安時代の医官は、医者と書いて「くすし」と読んでいたようである。典薬寮に務めた鍼生は、基礎教養2年および専門教育7年の計9年間の教育を受け、試験を受け合格した後に医療に携わっていたようである。鍼医という言葉が何時頃使われ始めたかはっきりしていないが、むしろ後世から、これらの人々を指して鍼医と呼ぶ事例が多い。当時の医療は「薬物・鍼・灸・蛭食」であり、鍼も医療の一つとみなされていた。『権記』長保4年5月6日条には「詣弾正宮、奉謁入道納言、為時真人・正世朝臣等祇候、正世針宮御腫物、膿汁一斗許出、各給疋綾、」とあり、現在の鍼とは異なり外科的な使い方をしていた。また、当時の患者は、5位以上の貴族であり、5位以上の官職にある者は、申請すれば典薬寮の治療を受けられていたようである。平安時代中期に差し掛かると、鍼博士・鍼師・鍼生に関わらず、典薬寮に所属する官人すべてが「薬・鍼・蛭食」による当時の治療を行うようになり、また、彼らすべてを区別なく「くすし」(医者)と呼ぶようになる。また、典薬寮の官人に留まらず、退官者も同じく薬と鍼による治療を行うようになり、彼らも同様に「くすし」と呼ばれるようになっていった。12世紀末に編纂された『二中歴』によれば、平安時代中期の医者は全て典薬寮での勤務経験者であったことが窺える。この「くすし」が何時頃「鍼医」に変化したかははっきりしていないが、平安時代が終わり、鎌倉時代に移ると、医疾令に基づく典薬寮制度が崩壊し、鍼博士・鍼師・鍼生らは民間に進んで徒弟制度に移行していく。江戸時代に入ると鍼治療は急速な発展を遂げ、中には幕臣の奥医師となる者も現れて社会的地位も向上した。また、江戸時代より視覚障害者(盲人)が鍼医となることが多くなり、彼らは検校や法眼を最高位とする階級制度の下で当道座に支配されていた。この頃の鍼医には、徳川家光の鍼医として山川検校(城管貞久)、徳川綱吉の鍼医として杉山和一、徳川家斉の鍼医として石坂宗哲などが知られる。当時の医師の診療科は本道・傷科・鍼科・口科・眼科・小児科・産科の7科であり、鍼医はその一つと見なされていた。なお、杉山和一は管鍼法を発明し、石坂宗哲はシーボルトに鍼医道具と書籍を贈ったり、西洋医学を取り入れて医学における東西融合を試みたりした。しかし、江戸時代に築かれた鍼医制度は明治維新により崩壊する。明治政府の厚生政策で西洋医学を学んだ医師が優先される中で、1874年(明治7年)以降は西洋医学を学んだ西洋医のみが医療を行いうる者とみなされ、医者の名称や医の名称使用と治療を一旦禁止されそうになる。鍼医たちの陳情の結果、鍼治療は医療というよりは視覚障害者の職業として残されることとなり、その後は規制の緩和と強化とを繰り返していたが、戦後に医師法により医師以外の者が広告・看板等で「医」の文字を使うことが禁じられたため、現在ではほぼ死語となり、職業名として鍼医を使用することはなくなった。現在では、法律の規制外に当たる学術団体などが団体名の一部に使用するほか、職制として使用する場合は、歴史的用法を示すものとして使われる。なお、中国語では書籍タイトルの一部として鍼医の名称が使用されている。
出典:wikipedia
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