桂 文吾(かつら ぶんご)は、上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。初代 桂 文吾(生没年不詳)は、本名不詳。大坂の生まれともいわれるがはっきりしない。初め春好を名乗る。次に田舎焉馬の門下となり、春馬、後に師名の焉馬を襲名。後、3代目桂文治に従って江戸へと下り、桂花玉、初代文吾を経て、再び花玉へと改名。初代朝寝坊むらくと共に両国の寄席を務め、大道具やせり上げを用いた噺を得意にしたという、「大道具大志かけ落はなし桂文吾」と大書した一枚刷のビラ(1829年ころの物)が現存する。1825年、1937年の2度、名古屋でも来演記録がある。1852年4月13日の神田鍋町での高座が最後であったらしい。没年不詳だが、1880年に三十三回忌が行なわれたとの記録があり、逆算すると嘉永元年頃の没となる。なお、『落語系圖』『古今東西落語家事典』には初代文治門人とあるが、『文之助系図』には3代目文治門下とある。あるいは初代門下から3代目門下に移ったのか、詳細は不明である。2代目 桂 文吾(生年不詳 - 1874年)は、本名不詳。文化・文政ころの生まれ、初め初代文吾の門下で、三光齋(または桂)源吾を経て、1846年に2代目文吾襲名。講談師の門人となった後、初代林家正三(正翁)の門下で林家圓玉。後に上京し、三遊亭圓生一門の狂言亭圓玉との混同をさけるため、安政時代には三光齋延玉から林家延玉と改名。帰阪後は初代桂文枝の桂派に対抗して川喜派の頭取になった。音曲を得意とし、「とっちりとん」や「えんかいな節」などの替唄を作り、唄本や刷り物残し発表した。3代目 桂 文吾(? - 1886年5月17日)は、本名不詳。幕末の生まれ。1875年ころから初代桂文枝の門下で3代目文吾を襲名。1880年夏に林家延玉を名乗る。同年秋に再度、文吾になるが、1886年3月に延玉に復帰。また寄席によっては文吾、延玉を使い分けることもあった。あだ名の「山寺」は、大阪市中央区清水町の自宅で「山寺」という看板を掲げて酒商を営んでいたためらしい。1880年8月、落語取締役に当選。落語研究会を企画したりと活躍したが、初代桂文團治、4代目林家正三と同じく、流行のコレラで死去。弟子には実子の初代桂小文吾、4代目文吾、2代目桂文三、初代桂枝太郎、3代目桂文都、3代目桂文三、桂文屋、3代目笑福亭圓笑らがいる。墓所は大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。4代目 桂 文吾(1865年3月 - 1915年9月17日)は、本名: 鈴永幸次郎(鈴木孝次郎、幸吉など諸説あり)。享年51。出囃子は「本調子のっと」。2代目笑福亭福圓の説によれば、元は酒屋の丁稚だったという。1883年に立川八百蔵の門下で立川八百壽。1884年ころに桂錦枝の門下で錦治。1885年ころに3代目の門下で3代目桂小文吾。1886年ころに3代目林家木鶴(2代目桂文三)の門下で木松、1887年ころに三鶴、1888年ころに再度小文吾。1894年ころに3代目桂藤兵衛の門下で桂藤枝、1899年ころに藤茂栄を経て、1902年ころ、4代目文吾を襲名。主に京都の寄席で真打として活躍。『鹿鍋』『お文さん』『後家ごろし』『市助酒』などを得意とし、晩年は『らくだ』が売り物だった。俗受けはしなかったが、噺は絶品で、真の名人であったという。東京の3代目柳家小さんも4代目文吾の崇拝者で、1910年には東京人形町末広に招いて『睨み返し』『らくだ』を交互で演じたり、『らくだ』を口伝されている。小さんが法善寺の金沢席に招かれた時、噺が終わって小さん目当ての客が多く帰ってしまっても、次の出演の文吾は、五分ほど出囃子を演奏させた後、泰然として高座に上がり「今、お立ちになったお客は、東京から来られた小さんを聴きにこられました。残りの方々は文吾のをもう一つ聴いてやろうとの思し召し、ありがたいことで、しかし、前が寂しいのでどうぞお詰め下さい。」と前口上を振って客を前に集めてじっくりと噺を演じ、小さんを感心させた。若い時から大酒飲みだったが、酒で酔わず酢に唐辛子を入れて呑んだり、つまみ以外の食事はほとんど取らなかったため、遂には塩ゆで豌豆を「文吾豆」と呼ぶようになったりと、酒にまつわるさまざまな話が伝わっている。またごつごつした強張った顔が仁王像に似ていた。それ目当てに寄席に来る客もいた。晩年はアルコール依存症となり、京都・笑福亭で『外科本道』の口演途中に発狂したという。なお、この発狂説は今では半ば事実と見なされており、よく引用されるが、元々は雑誌『上方はなし』に中濱靜圃(4代目桂米團治のペンネーム)が書いたエッセイが根拠になっているが、一方では、この話を伝える当時の新聞には、『変わり者の文吾だから、それ位の事はやりかねない』と言う趣旨の記述もあり、本当にある夜の高座で突然発狂したのかどうか、断言は出来ない。確かなのは、この前後が最後の高座となり、酒毒のために高座を勤められなくなった、と言う事である。後には壊疽のため足首を切断し、京都市中京区六角裏寺町下ルにあった西念寺(現在は西京区に移転し、跡地はボウリング場になっている)境内で侘び住まいをしていた。死去の際、家には酒樽の他は何もなかったという、正に『らくだ』の噺を地で行くような最後であった。葬儀委員長は2代目林家染丸が勤めたが、金銭が全くなかったため、読経の代わりに出囃子の「のっと」を木魚で叩いたり、香典返しとして追善落語会の切符を配るなどして、何とか無事に果たしたという。法名: 仁王齋桂山文吾居士。墓は京都市西京区御陵大枝山町の西念寺にあり、寺の移転と共に移されたものである。この墓は反対派太夫元の岡田政太郎と初代桂ざこばによって建立されたものである。2014年9月17日には没後百回忌を迎え、奉納落語会が西念寺で行われ、6代目桂小文吾らが出演した。5代目 桂 文吾(1896年12月30日 - 1971年頃)は、本名: 富士村彦次郎。2代目桂文團治(後の7代目桂文治)門下の桂團輔の実子で新内の美住太夫は伯父(團輔の実の兄)。兵庫の生まれ、子役からの噺家で、初め初代笑福亭福松の門下で笑福亭小福松。次に1904年10月に3代目桂文枝の門下で3代目桂小文と改名。この頃は芝居噺、手踊りなどを高座に掛けていた。後に上京し、芝にあった「惠智十(えちじゅう)」という寄席(1935年に閉館)の養子となり、一時桂小文枝を許可なく襲名(代外)。1938年12月に桂華緑(かろく)と改名。日本芸術協会(現:落語芸術協会)に所属して活動した。寄席の経営に失敗し、戦後は帰阪。1948年頃に2代目桂文我を襲名。後、更に京都へ居を移し、1950年頃に5代目文吾を名乗る。ただし、いずれの場合も、襲名披露のようなことはしていない。4代目文吾ゆかりの西念寺で「文吾の会」を昭和30年代末(1963年ごろ)まで続けていたが、人気は全くなく、客は2人切り、出演者と下座の三味線を入れると演者側のほうが多いということがあったほどの有様だった。生活は貧しく、寂しい晩年であった。上方落語協会が結成された時点では、文我なり、文吾なりと言う大きな名前を名乗る現役だったのだから、当然参加していて良いはずだが、参加していない。昭和40年代半ばころに死去。得意ネタは『袈裟茶屋』『花の都』『付きの馬』などがあった。また、事情は分からないが、中国のことに詳しく、戦前の中国の芝居を取り入れた「支那芝居」と言う新作噺を作り、これは当代桂文我の襲名に合わせて出版された『桂文我』に収録されていて、今でも読むことが出来る。他にも『都々逸坊扇歌』の新作があった。弟子には、現在でも鳥取県米子市で活動している6代目桂小文吾がいる。後妻は2代目笑福亭福松の娘だったといい、5代目文吾の次に3代目福松を襲名する予定があった。しかし、文我、文吾、福松と、大名跡を次々と襲名する裏には、集金目的の興行を打つ意図があったとされる。これを憤った2代目文の家かしくが、高齢にも係わらず3代目福松を先に襲名し、大切な師匠の名跡を守ったのだという。(桂米朝の説。)
出典:wikipedia
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