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千歳 (空母)

千歳(ちとせ)は、大日本帝国海軍の航空母艦。千歳型の1番艦。水上機母艦として建造され、太平洋戦争中に空母に改造された。姉妹艦に千代田がある。昭和9年度からのマル2計画によって建造された水上機母艦。元々は甲標的母艦として計画されたが、秘匿のため水上機母艦として竣工した。この時は空母改造を考慮する要求があったが、後日考慮するとして詳細な検討はされていない。竣工後は水上機母艦として中国大陸に進出した。同型艦の千代田は計画通り1939年から甲標的母艦に改装されたが千歳は改装されず、水上機母艦として太平洋戦争に参加。ミッドウェー海戦の空母喪失により空母改造が決定し改装作業が行われた。1944年(昭和19年)6月に僚艦の千代田とともにマリアナ沖海戦に参戦、同年10月25日、レイテ沖海戦で千代田と共に米空母艦載機の攻撃を受ける。午前8時35分、3本の魚雷が命中するとともに数発の至近弾を受けた。魚雷によって第2および第4缶室は急速に浸水し、舵も故障した。傾斜は27度に達したが迅速な復旧作業によって15度にまで修正された。しかしその後も浸水が拡大し、8時55分には右舷機械室にも浸水をきたし傾斜も20度となった。速度も14ノットに低下した。9時25分には機関停止に至り、千歳は漂流を始めた。傾斜も30度に達した。9時37分、右舷に転覆し、艦長以下903名の乗員が命を落とした。水上機母艦時の詳細は千歳型水上機母艦#艦型を参照。1942年5月の写真から舷外電路の装備が確認され、機銃甲板には味方識別用の日の丸が大きく描かれている。航空母艦時の詳細は千歳型航空母艦#艦型を参照。マストは同型艦の千代田が3脚トラス構造なのに対し、千歳は日本空母で一般的な下部4脚ラティス、上部単檣構造となっている。最終時の兵装に関しては12.7cm高角砲は連装4基、25mm3連装機銃は10基のまま、単装機銃はあ号作戦後には25mm単装機銃30挺を装備したとされる。戦闘詳報にはあ号作戦時に搭載した移動式の単装機銃は戦訓により装備せず、固定式は基数不明ながら「現在ノ単装機銃ハアラユル空所ニ無統制ニ備ヘツケアルヲ以テ」との記述がある。また7.7mm機銃の装備も確認される。戦闘詳報から最終時に28連装噴進砲6基の装備も確認できる。装備位置は右舷が無線マスト2本を前方へ移動し後部無線マスト跡、3番高角砲直前に、一方左舷は2番高角砲直後、3連装機銃台との間に装備した。電探は改造時に21号電探を装備、最終時には13号電探も装備した。計画は九五式水上偵察機24機であったが、実際には1938年10月で8機を搭載、機種は九五式水上偵察機の外は、九四式水上偵察機の搭載した。1942年5月時では零式観測機と零式水上偵察機の組み合わせで、尾翼マーキングは1941年4月から1942年7月まで「Y1」で文字色は白。計画は零式戦闘機21機(うち7機を露天繋止)、九七式艦上攻撃機9機であった。レイテ沖海戦時には戦闘機、戦闘爆撃機、艦上攻撃機を搭載、戦闘機、戦闘爆撃機は零戦、艦上攻撃機は天山だった。尾翼マーキングは1944年春の時点で「31」(1は小文字)、マリアナ沖海戦からは航空隊名の「653」を使用、レイテ沖海戦時には垂直尾翼上端に「4」も記入された。文字色はいずれも白。エンガノ岬沖海戦では、岸良幸艦長以下468名が戦死した。 その後軽巡洋艦五十鈴の救助活動により300名あまりが救助された。1944年12月20日に海軍より除籍された。

出典:wikipedia

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