新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。義貞の生年については判然としていない。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ、生年は正安2年(1300年)前後と考えられている。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている。義貞の出生地には三つの説がある。とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。義貞の育った上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている。正和3年(1314年)、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる。文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。新田政義が足利義氏の娘を娶って以降、新田本宗家は代々足利本宗家当主を烏帽子親として擬制的親子関係を結んだと考えられ、新田本宗家の当主(政氏・基氏・朝氏)は足利本宗家の通字である「氏」を偏諱として受けており、“義貞”の名前に「氏」が付かないのは、足利本宗家を継承しながらも数年で没したとされる足利高義 (尊氏の異母兄)が当主の時期に元服して、その偏諱である「義」を与えられたからだと考えられている。また、義貞の烏帽子親と推定される足利高義は正和4年(1315年)頃に足利氏の家督を継いで(「鶴岡両界壇供僧次第」)、文保元年(1317年)に死去したとされているため、この事も義貞の元服時期を推定する根拠となる。文保2年1月2日(1318年1月21日)、父の朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、8代当主となった。だが、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位は低かった。新田氏(上野源氏)はもともと河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、広大な新田荘を開発していたが、義貞の代には新田氏本宗家の領地は新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。加えて、足利氏と比べると、新田氏は北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた。文保2年(1318年)10月に義貞が長楽寺再建のため、所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して北条高時が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、鎌倉幕府での新田本宗家の地位の低さを表している。世良田満義や大舘家氏など、新田一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、一族の大舘宗氏(家氏の子)と岩松政経が水の利権を巡って控訴沙汰になった際は、両者は義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。また、義貞は先述の文保2年(1318年)に長楽寺再建の際に、私領の一部を世良田宿の有徳人である大谷道海に売却している。大谷道海は北条得宗家ともつながりがあり、かつては単純に新田氏本宗家の経済的衰退と得宗勢力の新田荘への進出の一環として解されてきたが、そもそも一族の世良田氏の菩提寺であっても新田氏とは関係のない長楽寺の再建に関わる必要がない。また、前述のように世良田氏や大舘氏も所領を売却しているが、新田氏本宗家の売却が群を抜いていた。そこで注目されたのは、世良田宿は長楽寺の門前町で交通の要所として当時の北関東屈指の経済都市であったという事実である。当時、長楽寺を庇護していた世良田氏は衰退して長楽寺再建に積極的に関与できる状況ではなく、そこに目をつけた義貞が「売寄進」という方法で世良田の有力者である道海を介在させて長楽寺に寄進を行うことで世良田氏に代わって長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を目指したもので、併せて得宗勢力との関係強化を図ったものであったとみられている。新田本宗家による世良田宿の支配は近隣の武士に対して排他的なものではなく、本宗家が世良田宿を彼らの経済活動の場として提供し、保護する「共生」関係を築くことで彼らへの影響力を強めたと考えられている。また、義貞は得宗被官の安東氏から妻を迎えており、世良田宿の掌握による経済力の強化と得宗勢力への積極的な接近を通じて、衰退した新田氏本宗家の勢力回復に乗り出していたと考えられている。元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱では、大番役として上洛していたが、河内国で楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って正成討伐に向かい、千早城の戦いに参加している。しかし、元弘3年 / 正慶2年(1333年)3月に義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している。奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない。山本隆志も、『太平記』の記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している。また義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使いとの衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた。親連と黒沼は、「天役」を名目として6万貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである。両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は長年世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。彦四郎の首は世良田の宿に晒された。親連は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている。これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗被官・安東聖秀の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される。義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになる。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・脇屋義助の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した。5月、義貞はついに挙兵した。挙兵の日時については史料によって若干隔たりがある。『太平記』は5月8日、『梅松論』は5月中旬、『神明鏡』は5月5日と記述している。千々和実は、幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日であることを鑑み5月5日説を支持し、奥富敬之は徴税使殺害など前後の事象から5月8日説を支持している。また、『太平記』には挙兵に際して、新田荘にある生品明神社(生品神社)頭に義貞はじめ新田一族が参集して決起する逸話が描かれている。だが、義貞決起の経緯の記述構成が『太平記』と類似している『神明鏡』には神社で決起する描写がないことから、神社での決起は『太平記』における創作ではないかという指摘がある。この時点で集まった主なメンバーは、義貞に義助、大舘宗氏とその息子達、堀口貞満、岩松経家らであった。兵の数はわずか150騎であったが、これは騎馬武者のみを考慮した数であり、雑兵も計算に入れると数倍はいたと考えられる。挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。これは『太平記』『神明鏡』による叙述で、『梅松論』は世良田に打って出たと叙述しており、矛盾が生ずる。しかし、矛盾を指摘した山本隆志は、当時は『笠懸野』が示す範囲が今よりも広く、世良田も笠懸野の一部であったと推量し、史料の齟齬を埋め合わせている。その日のうちに、義貞はまず後顧の憂いを絶つべく進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて越後国や信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族2000騎が合流した。『太平記』によれば、彼らは山伏から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたとされる。越後・甲斐・信濃各地から参集した軍勢5000騎と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると鎌倉を目指し一気呵成に進撃した。さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と久米川で付近で合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。尊氏の息子千寿王は鎌倉攻めのもう一人の大将とも言われる存在で、鎌倉攻めの軍勢には、義貞と千寿王、二人の大将がいた。このことから、義貞の挙兵は尊氏の要請に応じて行われたものだと看做す解釈もある。さらに新田軍は鎌倉街道を進み、11日朝に入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。幕府軍は、義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった。両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。戦闘は30回を越える激戦となった。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。翌日朝、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。これにより長崎、加治軍は撃破され、桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始ようとした。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢10万騎が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突する(分倍河原の戦い)。だが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている。しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。敗走した義貞は、退却も検討していた。しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている。義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌16日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。義勝の加勢の背景には、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。いずれにせよ、分倍河原における義貞の勝利はその後の戦局に大きな影響を与えた。同日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。こうして、勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がった。敗戦に次ぐ敗戦で幕府軍は鎌倉の防備を固め、鎌倉街道を進軍してくる義貞軍に対し、金沢貞将を化粧坂に、大仏貞直を極楽寺坂切通しに、北条守時を洲崎(小袋坂、巨福呂坂切通し)にそれぞれを配置した。さらにどの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置していた。17日に関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂切通しから鎌倉を総攻撃する手はずをと整えた。18日明朝、義貞は村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂などの50余ヶ所に放火し、三方から攻め入った。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとし、成功はしたものの、大仏貞直の迎撃によって討死した。とはいえ、同日晩までに洲崎方面の戦闘において、新田勢の糸口貞満と交戦していた北条守時は自害していた。一方、宗氏の戦死によって極楽寺坂方面での指揮系統が失われたため、20日に義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。5月21日未明、義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付けた。幕府側の防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていた。加えて18日に大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に成功したことで、再度の侵入を防ぐためにさらにその防備は厳重となっていた。しかし、義貞率いる軍勢は稲村ヶ崎の突破に成功した。現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。『太平記』では、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者小川清彦の検証によって証明されている。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉し、手配していたと考えられる。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した。 大森金五郎も徒渉説を支持した。久米邦武は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士三木俊連が霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに影響を受け、三上参次も干潮虚構説を支持した。 高柳光寿は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。石井進は、小川清彦の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を平成5年(1993年)に発表している。いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦ののち(由比ヶ浜の戦い)、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎高重、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、22日に北条高時らは自害(東勝寺合戦)、鎌倉幕府は滅亡した。5月8日の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅安東聖秀の逸話を収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。聖秀は鎌倉幕府得宗被官であった安東蓮聖の一族と言われ、義貞が得宗被官との間にパイプを持っていたことを示唆している。またこの逸話について、聖秀という人物が実在したかどうかは不明とされているが、義貞の妻が得宗被官の安東氏の血縁であったことは史料から確実とされている。『太平記』は義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのような逸話を収録したとされる。鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇に幕府を打倒した旨を伝える使者を送らせた。。鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男、北条邦時を捕らえ斬首している。7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。高氏が鎌倉陥落に先んじて京都を制圧したという功績も、武士達の高氏への評価を高める要因となった。他にも、三浦義勝など、足利と関わり深い武士達が目立つ武勲を挙げたことなどもあり、武士達は新田よりは足利へと接近していった。高氏は我が子を支援する為、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。奥富敬之は、義貞はこの騒動の為に鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去ったと指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。森茂暁は、『梅松論』におけるこの騒動とそれに伴う義貞に起請文提出と鎌倉退去について、鎌倉攻めの戦功著しいはずの義貞が、簡単に鎌倉を退去してしまったのは、鎌倉を落とした軍功が義貞よりも尊氏に依拠するところが大きかった証であると言及している。田中大喜は従来の研究が新田政義の失脚以来、新田氏嫡流が足利氏嫡流に従属してきた事実を無視して、義貞と尊氏が最初からライバルであったとする事自体に問題があり、梅松論の記事も単に義貞に疑いがかかったという話でしかなく、実際には尊氏の一配下同然であった義貞は尊氏に対抗するような状況にはなかったとする。契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)7月初頭、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に任官した。さらに上野、越後、10月には、播磨介となった。弟の脇屋義助は駿河守となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている。建武政権発足後、義貞は越後国で反乱を起こした旧北条勢力の大河将長、小泉持長らを討伐し、これを鎮圧した。一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙され、武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。弟の直義は、相模守となった。義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった。同年、武者所の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、江田行義ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐・左兵衛督などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する花押の形に変化が生じている。この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、名和長年らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている。親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した。一方、田中は建武政権において武家の中で唯一公卿の地位にあった尊氏が役職の有無に関わらず建武政権の軍事責任者であり、義貞を武者所の頭人にしたのは他ならぬ尊氏であって、足利氏-新田氏の支配・従属関係がそのまま建武政権内での所管-被管に反映されたとする。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。建武2年(1335年)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し戦死している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している。その後大舘、鳥山一族は、完全に義貞と決別する。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。とはいえ、義貞は時行が鎌倉を占拠してから足利軍に撃退されるまでの中、何もしていなかったわけではない。義貞の配下である堀口貞政が、時行蜂起に際して、背後からの攻撃を計画していた。しかし、彼が越後の武士達に出兵を催促した時は既に時行は敗れて敗走する最中であった。時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が上杉憲房に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、三浦高継に与えられた。鎮圧後、尊氏は信濃で北条の残党が蠢動しているという口実を設けて、朝廷の帰京命令に従わなかった。さらに、北条の残党が軒並み鎮圧されると、今度は「義貞と公家達が自分を讒訴している、」と主張し、鎌倉になお留まった。『太平記』によると、10月に尊氏は細川和氏を使者に立て、君側の奸として義貞を誅伐することを趣旨とした奏状を提出した。尊氏奏状はこのようなものであった。これらの根拠から、義貞を君側の奸でありと非難し、「大逆の基」であるから義貞誅罰を行うよう進言した。一方、義貞は、これらの非難に対して明確に反論した奏状をすぐさま提出した。義貞奏状は以下のようなものであった。これらにより、尊氏にこそ非があると主張、尊氏、直義兄弟を逆賊として誅伐する許可を求めた。尊氏による義貞への非難は抽象的であるのに対し、それに対する義貞の反論は具体的で、なおかつ足利の護良親王殺害に言及していることもあって、義貞の奏状の方が朝廷に対しての説得力を持ちえたと考えられる。しかし、『太平記』における尊氏と義貞による互いの非難は、創作に過ぎないとの見方もある。『太平記』では、この時坊門清忠が「八逆の罪は軽くなく、護良親王の殺害が事実ならばその罪は免れがたい」とし、尊氏誅伐を促す発言をしたが、まだこの時点では護良親王殺害が明確になっていなかったため、そのまま朝議は終了したという。しかしその後、護良親王殺害に立ち会った女房の証言で、直義による親王殺害が事実と判明した他、直義が赤松則村、那須資宿、諏訪部扶重、広峯貞長、長田教泰、田代顕綱ら、諸国武士に義貞討伐を促す檄文を送っていたことが判明する。信濃の市河近家、陸奥の伊賀盛光などに至っては呼応して挙兵した。こうして、朝議は一気に尊氏誅伐の流れに向き、11月8日に天皇は義貞に尊氏・直義追討の宣旨を発する。この時、義貞は後醍醐帝から錦の御旗を賜った、と『太平記』は記述する。奥富敬之は『太平記』におけるこれら一連の奏状合戦の記述から、未だ護良親王殺害が明確に知らされていない中で義貞が迅速にこれを察知したこと、弾劾状をつきつけられた時にまるであらかじめ弾劾状をつきつけられることが判っていたかのごとく、即座に反駁の奏状を提出できたことは、足利尊氏、直義兄弟の側近に、新田側への内通者がいた可能性があると分析している。なお、田中大喜はこの討伐軍の大将任命こそが、寛元2年(1244年)の新田政義の失脚以来続いてきた足利氏嫡流と新田氏嫡流の支配・従属関係を終焉させ、新田氏嫡流(新田義貞)が足利氏嫡流(足利尊氏)から「自立」した瞬間であるとしている。事実上の官軍総大将となった義貞は上将軍として尊良親王を奉じ、脇屋義助、義治、堀口貞満、千葉貞胤、宇都宮公綱などを率い東海道を鎌倉へ向かい、軍勢は10万以上に膨れ上がった。途中、東海道と東山道、軍勢を二手に分けて進軍した。同じ頃、北畠顕家も陸奥から手勢を率いて進軍を開始する。東海道、東山道、陸奥の三方向から鎌倉を突き、足利兄弟を討ち取るという作戦であったが、この大規模な軍勢は統率を欠いていた。形式上の総大将である尊良親王の周辺には側近の公家達がおり、彼らは「口煩いだけ」の存在であった。加えて同時に進軍した北畠顕家は従二位鎮守府将軍であり、従四位上の義貞は立場上顕家に指図できなかった。そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、義貞は顕家よりも早く軍を進めてしまい、挟撃のタイミングを逃したばかりか、足利側にとっては、兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう、早すぎ、かつ、遅すぎる進撃速度であった。足利尊氏は躁鬱の気質があったとされ、義貞と顕家から討伐を受けたこの時は護良親王を殺害した後悔やその贖罪、恩人である後醍醐帝に刃を向ける背信行為などから鬱状態にあり、遁世しようとする有様であった。そのため、代わりに直義が軍議を開き、軍勢を纏め上げて出撃する。出撃した足利勢は、11月25日に三河国矢作で激突し、矢作川の戦い(愛知県岡崎市)が生じた。この戦いでは、新田軍が勝利した。その後、東進して追撃する新田軍を足利軍は駿河国(静岡県静岡市駿河区)で迎撃する(手越河原の戦い)が、ここでも敗北する。新田軍は官軍であり、足利軍の兵士達の中には朝敵の烙印を押される恐怖から新田軍に投降するものも多かった。敗退を重ねた足利軍は、箱根の水呑に陣を構え、新田軍の攻撃に備えた。同時に、直義や足利軍の主要武将が出家を企図していた尊氏を説得し、尊氏は翻意して出撃する。なおも進撃した義貞は、箱根・竹下で足利勢と三度激突する。義貞は、箱根を越える道を二手に分かれて行動することを計画した。義貞は、足利軍は、箱根山の南を通り湯本へ繋がる「本道」の方に重点的に守備を固め、本軍をこちらに置くだろうと考え、本隊7万をこちらに向かわせた。一方で、箱根山の北を通る道は搦手の道であり、南側の険峻な道と比べると平坦で通りやすく、こちらには弟の脇屋義助に指揮権を任せ、尊良親王と側近の公家達、あわせて7000の軍勢を進軍させた。しかし、鎌倉目前まで攻め込まれ、後がなくなった足利軍は、軍勢のほぼ大半を出撃させてきた。その数は20万以上にも及び、さらに、これだけの大軍では隘路である南側の本道では展開しづらいことから、その内斯波高経、土岐頼遠ら18万近くが、平坦な搦手道の方へ向かってしまった。義貞本隊と激突するのは、直義が率いる6万程度の軍勢であった。その上、新田軍は士気が低下しており、義貞も陣頭に立って突撃することはなく、後方に構えて静観しているばかりであった。一方、搦手道を進んだ脇屋義助らは、多勢に無勢で苦戦を強いられていた。そんな折、説得に応じて前線に戻ってきた尊氏が指揮を取るようになった。これによって足利軍の士気が昂揚し、形勢は一気に足利軍に有利となり、12月13日に新田軍は総崩れとなった。敗退した義貞は伊豆で軍勢を建て直し、さらに西へと逃れる。途中、天竜川にて橋を駆けて渡る。『梅松論』によれば、義貞は三日の内に橋を作るよう命じ、橋が作られるとそれを渡って西へ逃れた。橋を渡った後、追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきであると義貞の部下が提案するが、義貞は「橋を切り落すのは確かに軍略の一つだが、敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である」として、橋を切り落す提案を受け入れなかった。足利勢はこの話を聞き、義貞の態度に感服した。また、世間も義貞の潔さを称賛した。『源威集』にも、ほぼ同様の記述がある。一方で、『太平記』は、橋をかけてその上を渡ったところ、綱が千切れて橋が壊れ、義貞と部下達が川に流されそうになったが、義貞は船田義昌と手を組んで対岸へ飛び移り、他の部下達も同僚に助けられて無事川を渡りきれた、という話を載せている。梅松論は「義貞の名誉と恥」、太平記は「義貞主従の思いやり」を強調し、叙述しているとされる。また、『梅松論』も『太平記』も、双方、義貞は部下達を先に渡らせ、自分は最後に橋を渡ったと記述している。義貞が武士としての恥を強く意識した背景には、朝廷から派遣された軍勢の大将という立場が大きく働いていたと見られる。また、太平記、梅松論の双方が記述した「部下に先を行かせ最後に自分が橋を渡る」という行為は、既存の道義や秩序が崩壊しつつあったこの時代において、あるべき武士の姿を描き強調しようとする書き手の意図があったと考えられている。義貞は12月30日に帰京した。しかし、義貞を追撃する尊氏が、破竹の勢いで京都まで攻め上がってきていた。年があけると、京都の覇権を巡り尊氏と後醍醐帝配下の諸将の間で激戦が始まる。帰京後も、義貞は尊氏討伐の全軍指揮官の地位にあったらしく、『太平記』には1月に義貞が各所に軍勢の配置を行っている記述が見られる。最初の内は、まだ総大将である尊氏、義貞らが陣頭に姿を現さず、小競り合いが続いたが、やがて尊氏に合力して山陰道から進撃してきた軍勢と尊氏の本隊が合流する。さらに、中国、四国地方の軍勢を糾合した細川定禅軍もこれに合流した。10日、淀川近辺で両軍は激突する(淀大渡の戦い)。この戦いは義貞らの敗北に終わり、後醍醐帝は遷幸し、義貞もこれに供奉した。京都は足利尊氏の軍勢に占領されることとなった。だが、奥州より上ってきた北畠顕家が京都へ到着することで、この形勢が逆転する。13日に両者の軍勢が合流すると、両軍は足利側の園城寺を攻撃し、陥落させる。16日には足利直義の軍勢に正面から突撃を敢行して蹴散らし、さらに高師直の軍勢までも破り、余勢を駆ってそのまま京都に攻め上り洛中を制圧した。しかし、直後の市街戦において細川定禅の知略に翻弄されて敗退し、京都奪還は失敗する。これらの京都奪還を巡る戦いの中で、義貞は船田義昌を初め複数の重臣を喪った。船田らが戦死した場所、時期については、園城寺攻略時とも、京都での細川定禅との市街戦の時とも言われる。また、果敢に京都に攻め入りながら敗北した義貞と、その義貞を手玉に取り、智謀を用いて敗退させた細川定禅を、京都の市民はそれぞれ項羽、張良に例えた。これに前後して、義貞が北国へ逃走を企てているという風聞が足利軍に流れる。この風聞に対して、足利直義は、若狭の本郷泰光に対して落ち延びる義貞を討伐するよう促す文書を送っている。この文書において、直義は義貞を「落人」と表現し、敗北者のように扱っている。義貞の方は、20日に東山道を通って鎌倉から引き返してきた尊良親王の軍勢2万と合流した。28日、義貞は楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に、京都へ総攻撃を仕掛ける。この合戦は30日まで続いた。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。この合戦の最中、義貞は鎧を脱ぎ捨てて尊氏に一騎討ちを挑もうとしたが、果たせずに終わった。合戦は楠木正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れた。足利軍はまだ再上洛を諦めず抵抗を続けていたが、2月11日に摂津国豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦いで敗北(豊島河原合戦)。足利軍は九州へと落ち延びてゆく。義貞は、周防国の吉川実経に敗走する尊氏を討伐するよう要請した。しかし、実経は直後に尊氏から勧誘され、尊氏側に与してしまった。そのため義貞の要請は無視されたものと見られる。義貞は足利軍を打ち破った功績により、2月に正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し。播磨守を兼任する。『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、2月21日に楠木正成が、新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある。その根拠として、正成は、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい。さらに、義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったのが、尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である、というものであった。正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったいわれる。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方が徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている。この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり、にべもなく却下されてしまった。九州へと落ち延びる途中、尊氏は光厳院から院宣を得る。新田義貞の討伐を促す趣旨であった。尊氏はこの院宣を根拠に、各地の武将に自分に合力して義貞を討ち取るよう促す。一方、義貞は尊氏を追撃し、その途上にある赤松円心の拠点である播磨を攻めることになるのだが、この際義貞の出兵に遅れが生じた。この遅れた出兵について、『太平記』は、藤原行房の娘勾当内侍との色恋沙汰にうつつをぬかしていたと叙述し、これゆえ勝機を逃したと批判している。ただし、勾当内侍との色恋沙汰により出陣が遅れたことについては、太平記以外に明確な典拠がなく、創作の可能性も高い。また、近年では勾当内侍の存在自体を疑問視する声もある。一説には、義貞はこの間に病に罹患していたのではないかとされており、奥富・峰岸らがこの説を支持している。病名は瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病であったという。いずれにせよ義貞の出陣には遅延が生じ、江田行義と大舘氏明が先発隊として播磨へ赴くこととなった。義貞本人が播磨へと出陣したのは、3月30日のことであった。一方、尊氏は多々良浜の戦いで快勝し、着実に九州で戦力を増強して巻き返しつつあった。義貞は赤松円心の篭る白旗城を攻撃し、弟の脇屋義助が三石城を攻めることとなる。しかし、義貞は赤松攻めに手こずり、いたずらに時間を浪費してしまうこととなる。先発した江田行義と大舘氏明は、3月6日迎撃してきた赤松軍相手に播磨書写山で快勝を収めるが、その後10日余りここに留まり、後詰めの部隊の到着を待った。その後、宇都宮公綱、城井冬綱、菊地武澄などが合流し、軍勢が数万に膨れ上がると、一気呵成に赤松軍に攻撃を仕掛けた。劣勢となった赤松軍は、白旗城で篭城戦の構えに出た。城に篭る円心は偽りの降伏の使者を送るなどして新田軍を欺き、時間を浪費させると共に隙をついて白旗城内に兵糧などを送り込むことに成功する。この時、義貞はまだ京都におり播磨で指揮をとっていなかったが、『太平記』は、義貞自身が円心の巧妙な策に引っかかったと記述している。到着した義貞は、円心の策略に江田、大舘らが翻弄されていたことを知り激怒する。そして、白旗城を包囲して猛攻を仕掛けた。しかし、円心はよく持ちこたえ、なかなか白旗城を陥落させることができず、50日近くも時間を費やしてしまった。攻めあぐねている中、弟の脇屋義助が、かつて鎌倉幕府が、楠木正成の篭る金剛山攻めに手こずったことが滅亡の遠因となった事例を引き合いに出し、別働隊を編成して備前・播磨の国境にある船坂峠へ攻め込ませるよう提案した。義貞はこの提案を受諾。別働隊が船坂に差し向けられることとなった。船坂へ進軍した新田軍は、児島高徳と連携して、斯波氏頼の軍勢を破って船坂峠の突破に成功、さらに、大井田氏経の軍勢がその勢いで備中まで進撃して福山城を制圧、江田行義の部隊も奈義城、能仙城、菩提寺城の三城を陥落させて、美作にまでなだれ込んだ。その後、脇屋義助は斯波氏頼が篭城する三石城の攻略に着手する。赤松円心が篭城する白旗城にも、依然として攻撃が加えられていた。しかし、この二城はよく持ちこたえ、新田軍は容易に落とすことが出来ずにいた。義貞が城攻めに時間を浪費している内に、九州で巻き返しを図った足利尊氏が再度の上洛を目指して西から東進、5月1日には厳島に到着した。義貞の播磨攻めもここに終わり、義貞は再度足利尊氏との決戦に及ぶこととなる。5月18日、進撃してきた足利軍と新田軍はまず福山で合戦に及ぶ。この合戦で新田軍は破れ、義貞、脇屋義助、大井田氏経らは攝津まで退却する。さらに進撃を続ける尊氏を迎撃する為、義貞は楠木正成と共にを迎撃することとなった。24日、義貞は正成軍と合流したのち会見し、正成から朝廷における議論の経過を説明された。『太平記』によるとその夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めのへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。この義貞の心中の吐露に対して、正成は「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。しかし峰岸純夫は、周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と分析している。義貞は翌25日の湊川の合戦において輪田泊の西南にある和田岬に本陣を置いた。この陣立ては、「不思議な陣立て」であったと言われる。南から上陸してくる足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が海に面している和田岬は足利軍に完全に包囲され退路をふさがれてしまう形になる。義貞はあえて「背水の陣」を強いて、配下に決死の覚悟で合戦に挑むよう促したと推測される。合戦の趨勢は、細川水軍の突撃が契機となって一気に足利有利に傾き、新田、楠木軍は敗北、正成は自害して、義貞は敗走することとなった。細川水軍は義貞達を引き付けるためにあえて水軍を東へ移動させ、東側から上陸しようと見せかけた。義貞、義助らが誘導されてきたところを、船団の後方の軍船が方向転換して和田岬から上陸、新田、楠木の両軍を分断させて、それらを背後から奇襲し、勝敗が決したとされる。義貞は、先頭に立って東側に上陸しようとする細川水軍こそ尊氏の本隊だと誤認していたようだが、実際には尊氏は方向転換して和田岬へと上陸した最後尾の軍船に乗船していた。尊氏の奇襲作戦は奏功したが、湊川合戦における正成、義貞の敗北の何よりの原因は、兵力の多寡にあるとされる。『太平記』においては、正成、義貞共に、「敵は勢いに乗り大軍を率いているが、一方我々の軍勢は疲弊して人数も少なくなっている」と語っている。また、義貞と正成の間に戦術面における連携の不備があったとも言われる。湊川合戦で、義貞は敗戦濃厚となりながら、馬が無数の矢を受けて倒れてもなお、太刀を振るって奮戦した。しかし、小山田高家が馬を失った義貞に自分の馬を与え、それに義貞を乗せて戦場から離脱させた。そして義貞は戦死を免れたが、高家は彼の身代わりとなって討死を遂げた。湊川での敗戦の報を聞き、宮方は5月27日に比叡山に遷幸する。義貞の軍勢は湊川での敗戦などにより四散して6000騎にまで減少していた。義貞は近江東坂本に本陣を置いた。29日には、尊氏によって京都が占領される。尊氏は光厳上皇を奉じて京都東寺に入り、後醍醐帝、義貞と睨み合った。以降、6月から8月にかけて、京都を巡る攻防が展開される。しかし、楠木正成は既に亡く、奥州の北畠顕家も妨害によって加勢に来るのが困難であり、義貞らは劣勢に立たされていた。さらに、この攻防戦の中で、宮方で枢要な地位にいた名和長年、千種忠顕が戦死した。義貞は小笠原貞宗と戦ったり、義貞自身は矢を尊氏のいる東寺へ打ち込み、尊氏に再び一騎討ちを所望して誘い出そうとした。尊氏も奮起してこれを承諾しようとしたが、上杉重能にその軽率を窘められて思いとどまった。義貞は尊氏と雌雄を決しようとしたが、尊氏の首を取ることも京都の奪還も叶わずに終わった。同時期、尊氏の弟直義は、比叡山、東坂本への糧道を断ち、宮方を追い詰めていった。また尊氏は、後醍醐帝との和平工作に着手した。後醍醐帝もこれに応じた。新田一門の江田行義、大舘氏明もこれに応じていた。しかし、義貞には、秘密裏にこの和平工作が行われていたことは知らされていなかった。義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となった。義貞達がこの和平工作が行われていることを知ったのは、和議を結ぶ為比叡山を出立して京都に向かおうとするその直前、当日の10月9日であった。江田・大舘の行動に疑問を感じていた義貞の部下堀口貞満がこの事情を知って比叡山を駆け上がると、還幸の儀式はすでに始まっていた。貞満は鳳輦の轅にすがりついて、「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか」、「新田一族の忠節があるにもかかわらず味方が敗戦続きなのは、帝の徳の不足である」、さらには「新田一族を見捨てて京都へ帰還するのであれば、義貞以下一族50余人の首を刎ねていただきたい」、と目に涙を浮ながらも後醍醐帝の無節操を非難して訴えた。すでに鎌倉幕府の討滅以降、新田一族の戦死者は132人、郎従の戦死者は8000人を超えていた。それから間もなく義貞達も3000騎を以て駆けつけ、後醍醐帝は新田の軍勢に包囲された。このとき、義貞や貞光をはじめとする新田一族の怒りは爆発寸前であったが、義貞は怒りをどうにかして抑えていたという。後醍醐帝らは義貞や義助らを呼び寄せて新田一族の功をねぎらい、和議を結んだのは「計略」であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐ為だとしたが、貞光の進言で過ちを悟ったと取り繕った。対して義貞は妥協案として、自分に恒良親王、尊良親王を推戴させて、北国へと下向させてほしいと提言した。義貞の軍勢が後醍醐帝を包囲したことは、クーデターである可能性もあるとも解釈されている。義貞の提言の結果、宮方は北国へ向かう義貞、恒良親王、尊良親王の軍勢と、後醍醐帝に付き従う軍勢の二つに分裂した。後醍醐帝による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いもある。しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことだけは確かである。新田一族の大半は義貞に随行したが、大舘氏明、江田行義らは後醍醐帝に随行した。その他には宇都宮公綱などが随行している。10月10日に出立した義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み敦賀を目指した。比叡山を離れ北へ下向する際、義貞は日吉山王社に立ち寄り先祖伝来の鬼切太刀を奉納している。義貞らは13日には敦賀金ヶ崎城へ到着した。『本副寺跡書』によれば、義貞一行は近江国堅田まで赴いた後そこから船で海津まで行き、敦賀へ下っていったという。同書によれば、義貞はその道中、堅田で足利軍の追撃を受けた。敦賀まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出したことが、『梅松論』や『太平記』に記述されている。しかし、義貞一行が猛吹雪に見舞われた場所が、『太平記』は木目峠、『梅松論』は荒芽山となっており、情報に齟齬が生じている。『太平記』によれば、斯波高経が待ち伏せをしていた為、塩津から東に向かい、板取を経由して西へ周り、木目峠を越えて敦賀へ至る遠回りな道を選ばざるを得なかったという。この年は通年に増して寒さが厳しい年であることが樹木の年輪から分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、山中の積雪、降雪は著しく、義貞の敦賀までの道程は苦難を極めた。義貞らが東へ進路を取ったのは遠回りをしたのではなく、その延長線上にある越前国府を目指し、そこを拠点とするためではなかったかという見解もある。しかし、越前国府は既に足利方の斯波高経に支配されていたため、西へ進路を代え、敦賀へ向かうことになったのではないかと推定されている。金ヶ崎に到着した親王一行は、各地の武士へ尊氏らの討伐を促す綸旨を送っており、結城宗広に送られた綸旨が『結城家文書』に現存している。10月15日、義貞の長男新田義顕は越後へ向かう為に出発し、弟脇屋義助は瓜生保への加勢に向か
出典:wikipedia
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