山形空港(やまがたくうこう、)は、山形県東根市にある特定地方管理空港。愛称はおいしい山形空港。南北に長い山形盆地の中北部、最上川右岸(東岸)にあり、南北方向の滑走路を擁する。滑走路東側に沿うように国道13号やJR山形新幹線・奥羽本線(愛称山形線)が並走しており、県庁所在地の山形市から北に約20kmの距離にある。最寄ICは、東北中央自動車道・東根IC。年間利用客数は、1991年に約70万人でピークとなった後、ドル箱路線の東京便と競合する山形新幹線が山形駅まで開通すると1992年から減少に転じ、さらに1999年の新庄駅延伸でその傾向に拍車がかかり、ピーク時の4分の1以下まで減少した。そのため県は、各路線利用客への運賃助成などを行っている。2014年度には国内207,605人、国際1,824人に復調した。滑走路は開業当初1200mで、1973年に1500m、1981年に2000mと延長されてきた。国際定期路線誘致のため、県は滑走路の2500m延長を計画しているが、旅客数の減少に加えて仙台空港との旅客争奪競争もあるため、計画は凍結されている。山形空港ターミナルビル()の500mほど北側には、山形県消防防災航空隊(、防災ヘリ「もがみ」が所属)、および、山形県警察航空隊(、県警ヘリ「がっさん」が所属)が位置する。また、国道13号および奥羽本線を挟んで隣接する神町駐屯地(。陸上自衛隊東北方面隊隷下の第6師団が所在。南東北3県を管轄する)の第6飛行隊()の飛行場としても使用されている。そのため、山形県村山市にある「大高根演習場」など、第6師団管区での訓練に参加する全国の自衛隊の移動でよく利用されている。大日本帝国海軍・舞鶴鎮守府神山練習飛行場として設置された。戦後の占領期には米軍が使用し、その後は自衛隊などが利用する飛行場となった。1964年(昭和39年)に民間空港となり、山形空港(神町空港)の名称で供用されている。2011年3月11日に発生した東日本大震災により花巻空港および仙台空港が閉鎖されたため、岩手県および宮城県に最寄りで損傷が無かった当空港に各県の防災ヘリおよび各地の自衛隊輸送機が集中し、両県被災地への災害支援の中継地として当空港が利用された。震災に対応するため24時間運用を行い(同震災における24時間運用化は花巻空港が3月14日 - 31日、福島空港が3月14日 - )し、アメリカ軍も使用した。米軍は、当空港まで大型輸送機C-130で物資を運び、小分けしてヘリで各被災地に運んだり、ヘリの燃料補給地として運用し、当空港が空路の物資輸送の拠点の1つとなった。花巻空港はまもなく運用が再開されたが、仙台空港の閉鎖が続いた事に加え、震災直後から首都圏と宮城・岩手間の鉄道網(東北新幹線およびJR東北線)と東北自動車道が5日以上不通となった事情も加わり、定期便の運航がある当空港に旅客が集中し(宮城県からが9割)、旅客数は震災発生前の10倍以上となった。このため、需要減により路線削減や就航撤退をしていた日本航空と全日本空輸が臨時便を設定し、遠隔地間の旅客・民間貨物輸送に務めている。同様の対応は福島空港においても実施された。なお、首都圏から山形県への旅客輸送は新潟(下越)・庄内方面を結ぶ上越新幹線とJR羽越線の特急いなほの運行再開が早期であり、庄内空港もほぼ通常通りであったため、山形新幹線の再開までは村山地方・置賜地方ではJR在来線の陸羽西線や米坂線を利用して日本海側へと大迂回を余儀なくされたが、大きな混乱には至らなかった。以下に定期便の乗降客数を示す。国内・国際チャーター便は含まない。マウスポインタを棒グラフの各要素に合わせると、該当年度の数値がポップアップする。この空港をハブ空港(拠点都市)としている航空会社は無い。航空会社が2社以上の路線は、最前の航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航便(コードシェア便)。かつての定期就航路線2009年に山形駅と山形空港を結んでいた山交バスの空港バスが廃止となり、それ以降は予約が必要な乗り合いタクシーのみの運行となったが、2014年3月29日から山交ハイヤーによる山形駅東口 - 山形空港間のシャトルバスが運行されることになった。
出典:wikipedia
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