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広隆寺

広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。なお、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と関連して取り上げられる。広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。前述のとおり、『書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。このほか、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。なお、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬師如来に代わっており、縁起によれば延暦16年(797年)、山城国乙訓郡(おとくにのこおり)から向日明神(むこうみょうじん)由来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたという。現在、寺にある薬師如来立像(重要文化財、秘仏)は、弘仁9年(818年)の火災後の再興像と推定される。通常の薬師如来像とは異なり、吉祥天の姿に表された異形像である。広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(ともに国宝)が伝わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では京都市でも震度5の強い揺れを観測した。この震災では兵庫県の神戸・阪神地域や淡路島の被害が最も大きかったことで、大阪府や京都府などの他の近畿の各県はそれほど注目されなかったが、広隆寺でも像が折れるなどの被害を受けた。楼門を入り、参道を進むと右手に講堂(重要文化財)、左手に薬師堂、能楽堂、地蔵堂(平安時代の地蔵菩薩坐像を安置)などがある。参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿があり、その手前右手に太秦殿(秦河勝を祀る)、左手(西)には書院、北側には霊宝殿と旧霊宝殿がある。このほか、書院の西方、奥まったところには桂宮院本堂(国宝)がある。広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。。制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。篠原正瑛によれば、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を「人間実存の最高の姿」を表したものと激賞した。1960年(昭和35年)8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよく言われるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼られておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。なお、京都地方検察庁はこの学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。本像についてしばしば「国宝第1号」として紹介されるが、本像と同じく1951年(昭和26年)6月9日付けで国宝に指定された物件は他にも多数ある。本像の「国宝第1号」とは、国宝指定時の指定書及び台帳の番号が「彫刻第1号」であるということである。切手の意匠になった。 ※重要文化財の仏像のうち、虚空蔵菩薩坐像・地蔵菩薩坐像以外は霊宝殿に安置。太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。大酒神社社伝によれば、平安時代、比叡山の恵信僧都(源信)が極楽浄土の阿弥陀如来を拝する願いを持っていたところ、広隆寺絵堂(講堂)のご本尊を拝めばよいと夢のお告げがあり、恵心は大いに喜んで三尊像を手彫りして念仏会を修た。そして常行念佛堂を建立し、念仏守護の神、摩吒羅神を勧請して祈祷したのが始まりとされている。かつては毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっている。京福電気鉄道嵐山本線(嵐電) 太秦広隆寺駅 駅前霊宝殿の拝観は有料。桂宮院本堂は非公開。京都市が、広隆寺に隣接して建てられていた右京区役所を移転の上、留学生寮を建設するため、旧右京区役所の解体工事を2009年3月から開始した。ところが、この工事による振動で、地蔵堂と薬師堂の壁などに10ヵ所以上に亘り皹が入るようになったとして、広隆寺が京都市を相手取り、同年8月5日に京都簡裁に、工事手順の改善や、土地利用の具体的な条件設定などを求める調停を申し立てた。一方、京都市側も、広隆寺に対し、工事妨害の禁止を求め、京都地裁に同年12月5日に仮処分を申し立てたが、翌2010年1月12日に取り下げ。また、広隆寺側も、同年1月に工事続行禁止を求める仮処分を京都地裁に申し立てたものの却下され、大阪高裁に抗告中である。こうした中、京都市は2010年2月5日から、地上部分の解体工事を、特別抗告の結果を待たずに再開した。市側は、振動を軽減する改良を行ったとしているが、広隆寺側は強く反発している。

出典:wikipedia

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