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唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル)。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂の建立年代には諸説あるが、おおむね8世紀末と推定され、鑑真の没後に建立されたものである。伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛によって復興された。南大門(1960年の再建)を入ると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)がある。かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出て金堂左右に達していた。金堂・講堂間の東西にはそれぞれ鼓楼(国宝)と鐘楼がある。講堂の東方には南北に長い東室(ひがしむろ、重要文化財)があるが、この建物の南側は礼堂(らいどう)と呼ばれている。講堂の西にあった西室、北にあった食堂(じきどう)は今は失われている。この他、境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡などがある。国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われ、2009年11月1日-3日に落慶行事が行われた。寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)で、手前の7間×1間を吹き放し(壁、建具等を設けず、開放とする)とすることがこの建物の特色である。吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)、元亨3年(1323年)、元禄6年 - 7年(1693年 - 1694年)に修理されている。特に元禄の修理は大規模で、創建当初は垂木のすぐ上に瓦を葺いていたものを改めて、屋根勾配を急にし、桔木(はねぎ)を入れ、近世風の小屋組とした。そのため屋根高は創建時より2メートル以上高くなっている。外面の各所に打ち付けられた長押も元禄材で、創建当初は現状よりせいの低い長押が用いられていた。明治31年から32年(1898年 - 1899年)の修理では小屋組の構造を再度改め、西洋式のキングポストトラスとしている。このように修理が重ねられて来たが、平成の大修理に伴う調査の結果、当初材が良好に残存していることが分かった。地垂木は9割が当初材を再用しており、扉も当初材を加工して使用している。2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建立は同年以降ということになる。堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。国宝。入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた。また、講堂は僧侶が習学するための空間であったことから講師、読師が座る論義台が置かれる。重要文化財。文化財指定名称は「旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関」。鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌前後の6月5日 - 7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、慶安2年(1649年)の建立。1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築された。障壁画は鑑真像に奉納するため、日本画家東山魁夷によって新たに描かれたものである。1970年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫。例年春と秋に期日を限って公開される。金堂にあった木造大日如来坐像(重要文化財)の他、「旧講堂木彫仏群」といわれる、もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期~平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されている。境内が国の史跡に指定されている。(参考)京都・壬生寺の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)は、唐招提寺旧蔵。典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。平成26年:西室跡周辺などで三彩瓦(白・緑・黄の三色釉薬(うわぐすり)を施した瓦)が見つかった。

出典:wikipedia

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