三億円事件(さんおくえんじけん)は、東京都府中市で1968年12月10日に発生した、窃盗事件である。三億円強奪事件ともいわれる。1975年(昭和50年)12月10日に公訴時効が成立し未解決事件となった。現金輸送車に積まれた東京芝浦電気(現・東芝)従業員のボーナス約3億円(2億9430万7500円)が、白バイまで用意した偽の白バイ隊員に奪われた事件である。被害金額3億円は現金強奪事件としては当時の最高金額であった。その後の現金強奪事件では金額こそ三億円事件よりも強奪金額が多い事件があるが、1968年(昭和43年)当時の3億円は、平成26年(2014年)の貨幣価値に直すと約10億円に当たり、貨幣価値においては現金強奪事件としては日本最高である。三億円強奪事件ともいわれているが、事件のあった日本において、本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功していること、盗まれた3億円は日本の保険会社が支払った保険金により補填され(事件の翌日には従業員にボーナスが支給された)、その保険会社もまた再保険(日本以外の保険会社によるシンジケート)に出再していたので損害の補填をうけ、直接的に国内で金銭的損失を被った者がいなかったという認識から、及び被害金額2億9430万7500円の語呂から、“憎しみのない強盗”のあだ名もある。またマスコミの報道被害を受け後年自殺した人物や、捜査の過労で殉職した警察官2名が存在する。警視庁捜査において容疑者リストに載った人数は実に11万人、捜査した警察官延べ17万人、捜査費用は7年間で9億円以上が投じられる空前の大捜査となったが、1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年(昭和63年)12月10日、民事時効成立(時効期間20年)。日本犯罪史に名前を残す未解決事件となった。この事件以来、日本では多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになり、給料等の支給について(銀行など)口座振込としたり、専門の訓練を積んだ警備員による現金輸送警備が増加した。1968年(昭和43年)12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に脅迫状が届く。翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破するというものであった。当日、警察官約50名が指定の場所に張り込んだが、犯人は現れなかった。4日後、12月10日午前9時30分頃、日本信託銀行国分寺支店(現存せず)から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員のボーナス約3億円(正確には2億9430万7500円)分が入ったジュラルミンのトランク3個を、輸送中の現金輸送車(セドリック)が、府中刑務所裏の府中市栄町、学園通りと通称される通りに差し掛かった。そこへ白バイ隊員に変装して擬装白バイに乗った犯人が、オートバイに被せていたと思われるシートを後方に引っ掛けた状態のまま現金輸送車を追いかけ、現金輸送車の前を塞ぐようにして停車した。現金輸送車の運転手が窓を開け「どうしたのか」と聞くと、「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って、輸送車の車体下周りを捜索し始めた。4日前に、支店長宅を爆破する旨の脅迫状が送り付けられていた事実があり、その場の雰囲気に銀行員たちは呑まれていた。犯人は、輸送車の車体下に潜り込み爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発炎筒に点火。「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と銀行員を避難させた直後に輸送車を運転し、白バイをその場に残したまま逃走した。この時銀行員は、警察官(犯人)が爆弾から遠ざけるために輸送車を退避させたと勘違いし、「勇敢な人だ」と思ったという。しかし、路上に残った発炎筒が自然鎮火したのちオートバイに詳しい輸送車運転手が残された白バイが偽物と判断できたことから、偽警察官による現金強奪事件が早くも判明した。9時50分に伊豆・小笠原を除く東京都全域に緊急配備が敷かれた。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日であった。警視庁は要所要所で検問を実施したが、当初は自動車の乗換えを想定していなかった事もあり、当日中に犯人を逮捕することが出来無かった。三億円事件が起こる前、1968年4月25日から1968年8月22日まで多摩農協へ現金要求や放火予告や爆弾予告をする脅迫が脅迫状・脅迫電話・壁新聞投げ込みで計9回発生した。この事件は脅迫日が東芝の給料日だったこと、脅迫状の筆跡が12月6日に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡と同一とされたことから多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件と三億円強奪事件の三事件が同一犯によるものとされた。6月25日に多摩農協を脅迫する文章の中では「よこすかせんはひきょうもん」という文言が入った脅迫状を送っている。「よこすかせん」とは脅迫状を送る9日前の6月16日に国鉄横須賀線大船駅で発生した横須賀線電車爆破事件について触れたと言われている(脅迫状作成当時は横須賀線電車爆破事件の犯人は不明だったが、三億円事件発生1ヶ月前の11月9日に犯人(ペンネームが純多摩良樹であった)が逮捕され、三億円事件の公訴時効直前の1975年12月5日に死刑執行された)。犯人が残した遺留品が120点もあったため、犯人検挙について当初は楽観ムードであった。ところが、遺留品は盗難品や一般に大量に出回っているものであったため犯人を特定する証拠とはならず、大量生産時代の壁に突き当たってしまった。犯人の主な遺留品は以下の通り。府中市栄町3-4の府中刑務所北の学園通り、府中刑務所裏。三億円強奪事件が起きた路上。遺留品には偽白バイが残った。国分寺市西元町3-26の国分寺史跡七重の塔近くの本多家墓地の入口、武蔵国分寺跡のクヌギ林。現金輸送車のセドリックが乗り捨てられていた場所。遺留品にはセドリックが残った。事件直前に第二現場で濃紺のカローラが目撃されていたことから、犯人はここで、濃紺のカローラに乗り換えたと思われた。逃走車の乗換えを想定していなかったことが、初動捜査で犯人を捕まえられなかった遠因となった。府中市栄町、明星高校近くの空地。犯行前に偽白バイをカバーで覆って停めていた場所。犯行前から無人の偽白バイがエンジンをかけっぱなしのまま置かれていたのが目撃されている。小金井市本町、団地駐車場。第二現場で乗り換えたカローラが、乗り捨てられていた場所。事件から4か月後に判明。遺留品にはカローラと空のジュラルミンケースが残った。現金抜き取り場所がこの現場である可能性が高いが、団地駐車場という人目につきやすい場所であるため現金抜き取り場所は別の現場であるという異説もある。しかし団地内の他車も捜査したところ別件の盗難車が複数台発見され、(現金抜き取りにせよ車両放棄にせよ)団地内では他人への関心が薄いことを突いたとする犯人像を補強した。銀行に送りつけられていた脅迫状の切手に唾液の痕跡があり、痕跡からB型の血液型が検出されている。また、脅迫状は雑誌の切り貼りで文字を作っていたが、その雑誌が発炎筒の巻紙に使われた雑誌と完全一致したことから、脅迫状を送った犯人と現金強奪犯が同じであることが明らかになった。多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件の両事件で送られてきた脅迫状の文面の特徴として以下の特徴があった。脅迫状と発炎筒には「電波科学」と「近代映画」という2つの雑誌が使われていた。捜査機関は2つの雑誌の読者の性向を絞って犯人を捜査。しかし、「電波科学」はテレビ配線図などを機械改造を望むマニアックな理系読者、「近代映画」は芸能情報を望むミーハーな文系読者、2つの雑誌の読者の性向は両極端であり、これらの雑誌を置いている書店に聞き込みをしても、2つの雑誌を併読している読者は皆無であった。その後の捜査で、「電波科学」の読者にとって一番重要だった「配線図」のページが犯行に使用されていたことから、本来の読者であれば違うページを使用したと推理し、捜査撹乱のために全く無作為に2冊の雑誌を購入して犯行に使用しただけ……と結論を出して、捜査を打ち切った。事件の少し前に偽白バイに関する目撃証言が集まっている。11月下旬朝8時頃に府中市の市道を運転された青いオートバイ、12月1日深夜に京王線高幡不動駅近くで一方通行の逆向きに停車された青いオートバイが目撃され、二つとも4桁のナンバーが盗難白バイと同じであった。また12月9日午後8時40分には府中市の交差点で不自然なスピードで走行する、本物よりシートが高い白バイとのすれ違いに関する目撃証言がある。現金強奪前の第三現場ではシートを被せられた白バイの目撃証言が寄せられた。現金強奪10分前の9時20分には何かを狙うように待機する白バイの姿が自宅にいた主婦に目撃されている。また現金強奪30分間前の9時頃に日本信託銀行国分寺支店から50メートル離れた空き地で銀行の出入りを窺う不審なレインコートの男を目撃した人物が4人いる。4人の目撃者によるといずれも身長165センチから170センチで30代くらいの男である。直接の現金強奪の犯行現場となった第一現場では4人の銀行員の他に府中刑務所の職員、近くにいた航空自衛隊員などの目撃証言者がいた。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧だったり勘違いだったりすることもあった。また、第二現場付近では泥水を車に跳ねられた通行人の主婦がすぐに車のナンバーを控えたところ、盗難された現金輸送車のセドリックだったことが判明している。国分寺市の造園業者の親子が運転中に乱暴な濃紺カローラとすんでのところで接触事故になりかけ、カローラは猛スピードで国分寺街道方面に消えていった。造園業親子は、カローラの運転手が無帽の若い長髪の男で黒っぽい服を着ていて、助手席は無人だったのを目撃。ジュラルミンケースは見ておらず、車のナンバーを見ていないが、挙動不審な運転や濃紺という目撃証言から、犯人が乗ったカローラ「多摩五郎」であることが確実視されている。杉並区内の検問所で“銀色のトランクを積んだ灰色ライトバン”を捕捉したが突破された。これが最後に目撃された犯人の姿といわれる。12月21日にモンタージュ写真が公表された。しかし、これは通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげて作成されたものではなく、事件直後に容疑者として浮上した人物(後述する立川グループの少年S)が犯人に似ているという銀行員4人の証言を根拠とした上で、少年Sに酷似した人物の顔写真をそのまま無断で用いたものであった。本来“このような顔”として示す程度のモンタージュ写真を“犯人の実写”と思い込んだ人が多く、そのために犯人を取り逃がしたのではないかという説もある。捜査本部は1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、問題のモンタージュ写真も1974年に正式に破棄されている。しかしその後も各種書籍物でこのモンタージュ写真が使用され続けており、犯人像に対する誤解を生む要因となっている。事件現場となった三多摩地区には当時学生が多く住んでいたことから、一帯にアパートローラー(全室への無差別聞き込み)を掛けた。警察において被疑者とされた者の数は十数万人に及んだ。事件現場前にある都立府中高校に在籍した高田純次や布施明の名前もあった。もっとも、2人とも事件とは無関係であることが後に判明した。なお事件自体が、当時盛り上がりを見せていた学生運動の摘発を目的に、強制捜査の口実として捏造されたとする陰謀論も存在する。通常の事件と同様に遺留品などから検出された指紋の照合も行われていた。しかし、上記の通り遺留品はどれも大量生産されていたものだった影響から、照合する指紋の量が多すぎたことや、指紋の照合をした警視庁鑑識課の指紋係員がわずか3人と少数だったため大した効果は得られなかった。警察は事件当時に盗まれた3億円のうち、番号がわかっていた500円札2000枚分(100万円分)のナンバー(XF227001A~XF229000A)を公表した。この番号の札は1枚も出回ることはなかったが、犯人が強奪した現金を日本国内で使えなくすることによって、犯人の利益を一部無くすことができたとする一方、犯人が紙幣使用を控えたとされて、犯人の検挙を一層困難にした。この事件の犯人については、目撃者や脅迫状の文面や遺留品から様々な犯人像が浮上した。単独犯なのか複数犯なのかも不明。立川グループとは、当時立川市で車両窃盗を繰り返した、非行少年グループである(立川市は府中市に近い)。立川グループのリーダー格。事件当時は19歳。容疑理由(状況証拠)は以下の通り。だが、以下のような反証が上げられており、単独犯の場合は犯人ではないことを示した。Sは事件5日後の1968年12月15日に自宅で父親が購入していた青酸カリで自殺。Sの自殺については、自殺するような人間ではないとの少年Sの仲間の証言や青酸カリが包まれた新聞紙には父親の指紋しかついていなかったことから疑問視する意見がある。翌日、捜査本部は実行犯を間近で目撃した4人の銀行員たちをS宅に招き、Sの顔を面通しをさせた。4人全員がSが実行犯に「似ている」または「よく似ている」と答えたことを根拠の一つに、1968年の12月21日にSに酷似したモンタージュ写真が公開された。その後で警察はSを「シロ」と断定した。なお、後の警察の補充捜査で、4人の銀行員の目撃証言について4人が同室で証言させられたことで他の銀行員の意見に引きずられやすい雰囲気の中で調書が作成されたこと等の問題点が浮上している。立川グループのメンバー。事件当時は18歳。容疑理由は、事件後に乗用車を購入したり、会社経営をしたりと、金回りがよくなっていた事。そして、少年Sの1 - 3と同じ理由である。だが、血液型はAB型であり、脅迫状の切手のB型とは異なっている。また筆跡も異なっていた。警察は、公訴時効寸前の1975年に、元少年Zを最後の容疑者候補とする。1975年11月に別件の恐喝罪で逮捕するが、三億円事件の公訴時効前に釈放された。以下K。立川グループではないが、少年Sと交際があったゲイボーイ。事件当時は30歳前後。Sの親族を除き、Sの事件当日に関する証言をした唯一の人物。Kの証言はSは事件日2 - 3日前から事件前日に自宅の新宿のマンションで一緒に夜を過ごし、明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。ただし、朝8時というのは時計を見ていたわけでなく冬における外の明るさで判断としており、雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がなかったなど、曖昧な点があった。また、Kの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前なのに夏(少なくとも4か月程度前)に一緒に旅行に行った時に撮影された少年Sの写真を飾っていたことなど不可解な点があった。さらに事件1年後に、外国に移住して、ゲイバーを開店したり、再び日本に戻った時には日本では自宅マンションや2軒目のマンションを購入したり、事件7年後には実家に豪邸を建てたりなど、金回りがよくなっていた。もしKがSと共犯であれば、Sが鑑別所にいる間の脅迫書を出すこと、事件関連の30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、第4現場の盗難車に残されていた女性物のイヤリングにもつながる。警察は捜査を進めるも、Kを「シロ」と断定した。Kは急に金回りがよくなった点について「外国のパトロンがついた」と述べている。府中市に住む運転手であった容疑者は、事件当時は25歳。住まいや過去の運転手の仕事から各現場の地理に精通していること、血液型が脅迫状の切手と同じB型、タイプライターを使う能力を持っていること、友人に送った手紙が犯行声明文と文章心理が似ていること、モンタージュ写真の男と酷似していることなどから12,301人目の容疑者候補として浮上。しかし、脅迫状の筆跡が異なっており、金回りに変化がないことから、警察は慎重に捜査をすることとしていた。発生から1年後の1969年12月12日、毎日新聞が本人の顔と本名をモンタージュ写真にFの顔を合成するなどして犯人視する報道を展開。このため警察が逃亡を防ぐとの名目で別件逮捕。新聞各社も「容疑者聴取へ」などと実名報道で書き立てる。ところが、本人が場所を記憶違いしていたながらも、事件当日に面接を受けていたアリバイが報道を見た会社の面接担当者からの連絡で証明され、完全なシロとして釈放された。しかし、警察に容疑者として逮捕されただけでなく、新聞各社が犯人扱いで学歴、職歴、性格、家庭環境まで事細かく暴露。このため本人は職を失い一家は離散。さらに、その後も真犯人の見つからない中で、「三億円事件の容疑者として逮捕された」との世間の偏見と、事件に関するコメントを執拗に求めるマスコミ関係者に悩まされ職を転々とし、2008年9月に自殺した。日野市の電気工事会社を経営する三兄弟。事件当時は上から31歳・29歳・26歳。大きなガレージ風の物置がありオートバイの偽装のための塗装がしやすいこと、次男がオートバイマニアの不良グループに属していたこと、看板店の営業経験があり塗装技術があること、事件前に発炎筒がつけられた車を購入していたこと、兄弟の一人が事件前にハンチング帽を被っていたことが怪しいとされた。しかし、車の発炎筒やハンチング帽が事件のものと異なること、事件の4日後に借金していたことなどが判明。その後、警察は日野市三兄弟を捜査するが、事件と結びつかなかった。不動産会社社員。事件当時は32歳男性。事件前に金に困っていたが事件後に金回りがよくなったこと、東芝府中に勤務経験があること、姉が東芝府中に12年勤務していること、自動車の運転が巧みなこと、モンタージュ写真の男と酷似していることが怪しいとされた。しかし、事件当日に杉並区から横浜に車で行く途中で非常検問にひっかかったことからアリバイが出てきたこと、金回りの変化については不動産売買で1600万円を入手したことが明らかになったことから容疑者候補から外れていった。以下P。三億円事件から13年前の1955年に銀行員1人を仲間にしたり仲間の1人が刑事を装うなどして、千代田区にある銀行の現金輸送車を襲う計画を仲間3人と実行。この事件ではすぐに逮捕されたものの計画性や発想が三億円事件と類似するものであった。Pは出所後に刑務所の中で知り合った友人に「今度は1年がかりで大きなことをやる」と豪語、三億円事件発生後に土地や住宅や外車を購入して金回りがよくなったため、容疑者として浮上。しかし、金回りに関しては、不動産会社から合法的な資金提供を受けたことが判明した。ハワイへ移住しマンション暮らしをしていたことが後にわかる。そののちハワイで病死する。時効成立後、三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している(時期は事件発生時と同じ12月がほとんど。テレビ等で事件が取り上げられることが多いのが原因)。なお、当時の担当刑事によると事件の際に発炎筒が通常通り点火しなかったが、犯人は通常とは異なる手法で発炎筒を点火させていることが遺留品から判明している。またジュラルミンケースには現金・ボーナス袋のほかにある特殊な「モノ」が入っていたという。発炎筒の特殊な点火手法やジュラルミンケースに留置された「モノ」は一般発表されておらず、捜査関係者と真犯人しか知らないはずである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。