EF61形電気機関車(EF61がたでんききかんしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した直流用電気機関車である。1961年(昭和36年)から新造された基本番台の1 - 18と、1977年(昭和52年)からEF60形の改造によって編入された200番台(8両)が存在する。両者は実質的には別物であるが、新形式の投入に際しては労働組合との間で困難な折衝を行う必要があったために、たまたま主電動機・出力が同じであったことから同一形式とされたものである。1960年(昭和35年)に開発されたEF60形は、国鉄の近代的な大型直流電気機関車の第一陣であった。この機関車は一般貨物列車を牽引するためには十分な性能を備えてはいたが、牽引力重視の設計ゆえ高速走行時の特性に難があり、旅客列車や高速貨物列車の牽引には不向きだった。また、客車暖房のための蒸気発生装置 (SG) ならびに電気暖房装置 (EG) が搭載されておらず、その点でも当時の一般旅客列車牽引には適さなかった。そのため、1958年(昭和33年)に製造が終了していた旅客列車用機関車EF58形の後継として設計され、1961年(昭和36年)から製造が開始されたものの、動力近代化計画によって一般旅客列車を電車化する方針を示したため、新製されたのは18両に留まった。EF60形の1次形をベースにして、以下に示す設計変更を行い旅客列車牽引に対応させた。製造当初の車体塗装は、EF60形基本番台と同一のぶどう色2号(茶色)の一色で、1965年(昭和40年)からEF60形と同様に側面全体と前面上半部・下部を青15号、前面窓下部をクリーム1号とした塗装に全機とも変更されている。上述のとおり旅客用直流電気機関車の需要自体が電車化の進展で減少したこともあって、発注・製造はこの一度のみで製造両数も18両にとどまった。主電動機の駆動力伝達には、EF60形1次形と同様の日立製作所製QD2C形クイル式駆動装置を搭載した。しかし、これが原因とされる走行中の異常振動現象による駆動系トラブルが多発したため、1974年(昭和49年)から1977年(昭和52年)にかけてリンク式に改造された。山陽本線瀬野 - 八本松間(瀬野八)補助機関車(補機)として使用されていたEF59形は、戦前製の電気機関車からの改造車であり老朽化が目立っていた。そのため、置き換え用として、EF60形初期車14両すべてとEF61形18両から8両を改造し、EF60形改造車を200番台、EF61形改造車を100番台とし、改造機のEF61形22両でEF59形24両を置き換える計画が立てられた。まず200番台8両が落成し使用されたが、補機が重連運転かつ力行中に、本務機が非常ブレーキを使用すると、補機の押し上げ力が過大なため編成中に横圧が発生し、脱線事故の危険性があることが判明した。このため、当形式による補機は単機運用可能な1,000t以下の列車に限定されることとなり、1,200t級列車についてはEF59形重連による補機運用を継続することとなった。これにより100番台を含む残りの改造は中止された。以降、1,200t級列車の単機運用が可能な補機はEF67形登場まで待つこととなる。基本番台にSGの撤去・電動機側小歯車の交換・重連総括制御装置・デッキの追加などの改造を施工し本格的な瀬野八用補機とする番台区分。前述のとおり、計画のみに終わり、実際の改造は中止された。1977年、クイル式のEF60 1 - 14を、瀬野八用補機に改造し、本形式に編入する計画で設定された区分番台である。1,000t以下の列車においては単機で、それ以上の重量の列車においては重連で使用することを前提として以下の改造を施工した。改造後の車両番号は、種車の原番号+200が与えられた。しかし、重連使用時に不具合が見つかり、改造計画が途中で中止になったことから、8両のみの改造にとまり、202・205・208・212・213・214が欠番となった。改番の状況は次のとおりである。基本番台は1961年の製造当初は宮原機関区に配置された。東京 - 岡山間で東海道・山陽本線の急行列車を主に牽引したほか、一時的にはEF58形の予備機として寝台特急列車(ブルートレイン)運用にも投入され、主に「あさかぜ」を牽引している。1962年の山陽本線広島電化後は同駅まで旅客列車を牽引し、間合い運用として瀬野 - 八本松間(通称「瀬野八」)での旅客電車の補助機関車運用などにも投入された。そのため、本形式東京方の自動連結器解放テコに走行開放用空気シリンダーが取り付けられている。1963年のEF60形500番台登場により寝台特急の牽引運用からは撤退したものの、1964年の山陽本線全線電化では下関まで運用範囲を広げたが、1965年以降は東海道新幹線開業の影響により急行列車や普通列車の運用が削減、荷物列車の牽引にも充当されるようになり、1968年10月のダイヤ改正に際しては広島機関区に梅小路 - 下関間の貨物列車用として転属、荷物列車を含めた旅客列車での運用をすべて失った。その後山陽本線の急行列車・荷物列車牽引を中心に旅客列車牽引の定期運用が復活したものの、1975年3月10日の山陽新幹線博多開業によって東海道・山陽本線の定期客車急行列車の牽引運用からは外れ、浜松 - 広島間の荷物列車1往復や臨時列車での運用を除くと貨物列車運用が主体となり、岡山・広島周辺で短距離のローカル貨物列車を牽く地味な運用が多い一方、自動車輸送のため岡多線に入線する貨物列車1往復を牽引したこともあった。1978年以降は広島機関区のEF58形に廃車が始まったこともあり、その補充で本形式による荷物列車運用も増えたが、同時期にはSGによる車体の腐食が問題となっていた。EF58形と比べて本形式は車体の外板が薄いため、蒸気の排出口を中心に屋根板の腐食と強度低下が早く進行し、一部の車両では錆びた屋根が抜け落ちる事故が発生した。屋根の抜けた車両のうち、1は屋根の約半分を張り替えるなど大規模な修繕に数か月を要した。その後、老朽化により運用から外れる車両が発生し、1983年3月には、1979年以来休車が続いていた7が最初の廃車となった。その後も状態不良車を中心に廃車が続き、最後まで残った9両についても、荷物列車の電気暖房化により1984年2月1日のダイヤ改正で全機が運用から外れ、1985年(昭和60年)までに廃車された。なお、11は晩年、209・211などとともに広島機関区所属機の特徴でもある下枠交差型のPS22Bパンタグラフに交換されている(上掲画像も参照)。200番台は、重連運転が出来ない問題から単機運用に限定されたために余剰が発生し、201・203の2両は1980年10月改正による単機運用の減少で長期間休車指定となり瀬野機関区に留置された。1982年11月改正でさらに1両が休車となって瀬野機関区に留置されていたが、後に2両は休車から復帰した一方、203は復帰することなく、1986年11月1日のダイヤ改正の直後に廃車された。1987年の国鉄分割民営化時には、203を除く7両が日本貨物鉄道(JR貨物)に承継されたが、老朽化により1990年(平成2年)よりEF67形100番台に置換えが開始され、1991年(平成3年)までに全車廃車となった。201号機が廃棄処分となり現在、全体の形状をとどめるものは無く部分保存の4号機のみを残す。
出典:wikipedia
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