EF58形電気機関車(イーエフ58がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用直流電気機関車である。EF58形の半製品を設計変更して就役させた貨物用のEF18形電気機関車(イーエフ18がたでんききかんしゃ)についても本項で詳述する。当初、1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて初期形車が製造されたものの、31両が完成したところで諸事情により一旦製造中止となった。1952年(昭和27年)以降、全くの別形式と見なしてよいほどの大改良を経て量産を再開した。以後、初期形車も車体載せ替えを含む仕様統一の改造を受け、1958年(昭和33年)まで増備された。総製造両数は172両である。根本的には戦前の省形電気機関車由来の設計を強化した、旧式システムの機関車ではあったが、1952年(昭和27年)以降の改良形は高速運転時の性能に優れ、特急列車の牽引にしばしば用いられた。この改良形は、流線形を取り入れた秀逸で、なおかつ独特のロバストネス(逞しさ)を感じさせる車体フォルム(デザイン)も手伝って、多くの鉄道ファンから「ゴハチ」の通称および愛称で親しまれている。1950年代から1970年代にかけ、東海道・山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線黒磯以南といった主要幹線において、旅客列車牽引の主力として用いられた。末期には、1978年(昭和53年)に電化された紀勢本線にも配備された。1980年代までにほとんどが営業運転から撤退し、動態保存機的な少数の残存機も2000年代末までにほぼ運用を退いた。お召し列車牽引指定機関車として知られる61号機は、故障並びに後継となる特別電車・E655系の登場により保留機となった。なお、同時期の1947年(昭和22年)から1958年(昭和33年)まで製造された貨物列車牽引用電気機関車EF15形は、電気機器などの多くをEF58形と共通設計としており、外見は著しく異なるが「兄弟形式」と評されている。1946年から1948年にかけて1号機から31号機までの31両が製造された。「旧EF58形」などの呼び方もある。当初は50両の機関車のうち、まず30両を発注してから、残り20両を発注する予定だった。太平洋戦争中は旅客用電気機関車の新規製造は中止されていたが、終戦後の旅客輸送需要は買い出し客を中心に激増する一方、戦前形の機関車は戦時中の酷使によって疲弊が著しく、旅客用電気機関車は圧倒的に不足していた。EF58形初期型は、このような事情から急遽製造されたものである。機器類の多くはEF15形と共用されており、特に動台車枠部分の設計は完全共通化されていた。性能的には戦前最後に新造された旅客用電気機関車EF57形と同等の水準を狙ったもので、鉄道省の旅客用大型機関車の原則に沿った2C+C2の軸配置を採用し、MT41形主電動機を搭載していた。制御方式は戦前からの標準であった手動進段の単位スイッチ式、デザインも戦前からの伝統に則った「前後デッキ付の箱形車体」となった。しかし外見こそEF57形に似ていたものの、その品質はEF57形とは全く異なるものであった。随所に代用部材や簡易構造が用いられ、戦時設計の貨物用機関車EF13形に近似した「準戦時型」車両で、粗悪と評しても過言ではなかった。唯一評価に値するのは、車軸の軸受けに初めてローラーベアリングを採用したことであったが、このローラーベアリングも当初は品質不良で発熱を起こすなどの問題を生じさせた。また、EF57形に搭載されていた暖房用蒸気発生装置(ボイラー)が省略されたため、冬季には別に石炭焚きボイラー付の「暖房車」を連結する必要があった。品質が極めて粗悪だったために就役当初から故障や事故が頻発した。一時は製造中止措置や使用中止命令が出された時期もある。また、労働組合による乗務拒否運動もあった。製造期間の途上で徐々に品質の改善は進められ、製造時期やメーカーによりデッキの段数や車体高さ、細部の仕様に多数のバリエーションがあった。実際の製造はメーカーに番号を割り当てて進められたが、それぞれの資材調達・工程進捗状況に差があったために必ずしも番号順になっていない。最初に就役したのは、1946年10月落成の21号機(川崎電気・川崎車両)である。増備途中、1949年初頭のドッジ・ラインに基づく経済抑制政策の影響により、31両が就役したところで製造中止となった。特に増備車への対応が極めて早かった東芝(当時・東京芝浦電気)では、増備車の製造凍結が確定した1948年初頭時点で受注予定の31 - 38号機と見込み生産分1両を手がけており、既に4両が完成状態であったため、国鉄は他メーカーで未着工であった3両分を東芝に肩代わりさせ、31号機のみ増備車として引き取った。東芝でデッドストックになった5両分の車体が後にEF18 32 - 34・EF58 35・36へ転用された。1948年3月から翌年9月にかけて、高速度遮断機の装備や高圧回路の引き直し、一部車体の改造を行い保安度を向上させる改造が行われた。「第一次装備改造」とも呼ばれる。1948年1月までに製造された19両が対象になった。後に1953年から1957年にかけて行われた新造の流線型車体への載せ替え改造で捻出された古い箱型車体は、凸型の簡易車体だったEF13形に機器ごと転用された。寸法がほぼ合致し両数もちょうど同じ31両で、全車の車体載せ替えが実現した。32号機から34号機は半製品状態だったものを設計変更して、貨物用機関車のEF18形電気機関車として就役した。東芝府中工場で製造されていた32号機から34号機の3両は1949年(昭和24年)初頭には完成間近の状態だったが、ドッジ・ラインの影響で就役が保留された。その後2年間に渡って東芝でデッドストック状態に置かれることになった3両は、貨物用機関車として転用されることになった。牽引力確保のため、歯車比をEF15形並の低速形としたが、先輪が多い分だけ動輪軸重が不足するため車内にデッドウェイト(約15 t)を積載して補った。このため旧EF58形では12.4 tだった動輪軸重は14.5 tに増加したが、先輪などの余剰重量が多いため絶対的な牽引力はEF15形よりも劣っていた。車体が補強されたほか、低速での重貨物牽引による負荷増大に備えて、抵抗器冷却のための通風口追加などの措置が施されている。またデッキについても旧EF58形の簡易構造から、重連時に備えて先端部まで伸びた形態に変更された。EF58形の初期形が全車車体更新を受けた後も旧EF58形の外観を残す貴重な存在であったが、オリジナル形のEF58形に比べると側窓が増えており、新車体でありながら側窓の多い35・36号機との共通点が見られる。東芝府中工場で留置されている32・33号機の車体を撮影した写真が雑誌『鉄道ファン』1984年1月号に掲載された事があり、側面のナンバープレートが確認されている。形式と番号はEF58形として計画されていた番号をそのまま受け継ぎ、下一桁の8をそのままに直流旧型高速を表す50番台の「58」を直流旧型低速の10番台の「18」としただけである。この3両によりEF58形では32号機から34番まで欠番が生じている。将来のEF58形への再改造を視野に入れていたようだが、最後まで実現しなかった。1951年(昭和26年)5月に3両全てが就役し、東海道本線などで貨物列車牽引や静岡県内の駅構内の入換作業の他、機関車の不足した機関区へ貸し出されて運用されたが、1979年(昭和54年)に浜松機関区で廃車された。廃車後は全て解体廃棄されており、本機の現存機は存在しない。1952年から1958年にかけて新規製造された35号機から175号機までの141両、および初期型の台車・一部機器を流用して1953年から1957年にかけて新造グループ同様の車体・性能に改造された1号機から31号機である。「新EF58形」とも呼ばれ、一般にEF58形と言えばこの形態を指す。初期型EF58形とは「完全に別の機関車」と評しても過言でないほどに変化した外観となったが、「EF58形」の形式称号は継承された。兄弟形式であるEF15形も製造期間中に出力向上をはじめとする性能変更が多く生じているが、同様に一貫して「EF15形」の形式称号を継続している。上越線は、1931年の全通時から清水トンネルを擁する水上 - 石打間が電化されていたが、1947年には高崎 - 長岡間の全線電化が完成し、160kmに及ぶ長距離電化区間となっていた。しかし上越国境の山岳区間を越える勾配路線であり、低速の貨物用電気機関車が旅客列車にも用いられていた。その状況に変化が生じたのは、1952年に完成した高崎線電化である。これによって上野 - 長岡間 (270km) の連続電気運転が可能となった。平坦路線で、東京近郊の重要幹線でもある高崎線では、高速性能を備えた旅客用電気機関車が必須であり、高崎線内のみの運用については東海道線の旧型旅客機関車を転用して一部をまかなうことになった。だが、上越線直通の長距離列車牽引では上野-長岡間のロングラン運用も想定され、これに対処できる新たな旅客用電気機関車が求められたのである。一方、日本の最重要幹線である東海道本線の電化区間は、戦前の1934年に丹那トンネルが開業して以来、長らく東京 - 沼津間に留まっていた。戦後、輸送力の逼迫と石炭の供給欠乏を背景として沼津以西への電化が進展した。電化区間は1949年2月に静岡まで、5月には浜松へ延伸された。そして1950年代初頭には浜松 - 名古屋間の電化も目前となり、東海道全線電化の完成も視野に入りつつあった。この電化延伸にあたっては、東京地区の普通列車を電車化することである程度の電気機関車を捻出したが、それでも将来に渡って旅客用電気機関車の著しい不足が見込まれた。折りしも日本は1950年の朝鮮戦争勃発を機に新たな経済成長期(神武景気)に入っており、また1951年のサンフランシスコ講和条約によって進駐軍の支配を脱したことで、国鉄も自律的な経営方針を採ることが可能となっていた。このような情勢から同年より新型電気機関車の開発が開始され、1952年初頭よりEF58形として順次落成した。1952年4月の高崎線電化に伴い高崎・上越線に就役し、相前後して東海道本線にも進出した。なお、EF58形は高速性能優先で登坂能力が弱いため、急勾配の峠越え区間である上越線水上-石打間は、前部補機のEF16形を連結して通過した。東海道本線電化は1953年7月に名古屋、1955年7月には米原へと西進した。そして1956年11月、最後の区間である米原 - 京都間の電化完成で、全線電化を達成する。また東北本線も1958年4月に大宮 - 宇都宮間が電化され、翌1959年5月には黒磯までが直流電化区間となった。EF58形はこのような情勢下で1958年まで大量増備され、1950年代後半の最盛期には、東海道本線の特急・急行列車、普通列車を問わず、客車列車のほとんどを牽引するまでに至った。自動式の暖房用ボイラーを搭載するため、そのスペースを確保する目的で車体が延長され、斬新な半流線型となった。鉄道省→国鉄によって1920年代から1940年代にかけ製造されてきたすべての大型電気機関車は、蒸気機関車と同様に、長大な台車枠を相互に連結して土台とし、前後への牽引力もこの台車枠で受け持つ構造になっていた。車体については、台車枠の動軸部分上に短い車体を載せるのが普通であった。この車体は蒸気機関車のボイラーと同じで牽引力を分担せず、単に機器室外覆の役割を持つだけである。台車枠前後両端に配置された無動力の先輪上は、乗務員の乗降や入れ換え作業時の要員搭乗に使われるデッキとなっていた。乗務員は車体端面のデッキ側ドアから運転台に出入りしていた。改良型EF58形では台車枠を土台とする古い構造自体に変化はなかったが、先輪上のデッキを廃し、車体を先輪上の車端いっぱいにまで延長した。戦前の流線型機関車EF55形で片側の流線型部分のみ車端まで車体とした例はあったが、F級機関車でデッキ無しとして全長に渡る車体を載せたのは、日本ではEF58形が最初である。結果としてはデッキ付車の車体が14m級だったのに対し、全長19m弱に達する長大な車体となった。車体支持点位置の関係上、車端部まで中央部並みの車体幅とするとカーブ通過時に車両限界を突破してしまう。そのため、先輪上に当たる運転台部分は車幅が徐々に狭まる形となり、断面が小さくなって、車体の長大さを強調することになった。車端部幅員は2300mm程度に抑えられている。この運転台の前頭形状は、貫通扉を廃した半流線型の正面2枚窓となった。1950年下期から製造された80系クハ86形増備車のデザインの流れを汲む「湘南形」である。床の高さと前頭部断面の小ささ、屋根部から接合された外板の曲げ半径の大きさが重厚な印象を持たせる。一方で、正面中央に折れ筋が入り、窓部分に傾斜の付いた湘南形の形態は、正面窓下に双曲線を描くクロームメッキの飾り帯と相まって、流麗さをも兼ね備えていた。戦後形機関車らしい斬新な車体と、戦前技術の延長上にある古典的な台車枠の組み合わせは、この機関車のユニークな特徴である。デッキ廃止により運転台は車体の先端に位置することになり、乗務員の乗降は運転台直後に設けられた側面ドアから行われるようになった。運転台からの視界は広がり、正面デッキ扉の廃止で隙間風も軽減された。運転室自体も広くゆとりがある。もっとも、隙間風が減った反面で風通しが悪くなったため、盛夏期には運転室が非常に暑くなるというデメリットも生じた。EF58形は、日立製作所、東芝、三菱電機、川崎車両、汽車製造、日本車輌の各所にて車体の製作が行われた。これらの製作所で製造された各車においては、当然、装備の仕様共通化は図られており、目立って大きな差異はないものの製造メーカーにおける特徴のある部分がいくつか見られる。改良型EF58形には暖房用蒸気供給のため、自動式の重油ボイラー(蒸気発生装置)が搭載された。冬期における客車の暖房は長らく蒸気暖房方式が主流であった。これは蒸気機関車の走行用蒸気の一部を流用して客車に引き通すものである。1912年、信越本線碓氷峠に電気機関車が導入されると、旅客列車に暖房用蒸気が供給できないことから、ボイラーを搭載した「暖房車」を別に連結して蒸気を供給した。この手法はその後の他線区における電気機関車牽引列車にも踏襲され、結果として暖房車は1970年代後半まで使用されていた。しかし、暖房車は起・終点でつなぎ換えの手間が掛かり、また重量がかさむため、機関車には余分な重荷となった。加えてその多くは石炭焚きボイラーを用い、電化された路線でありながらホームに蒸気機関車並みの黒煙が漂うこともしばしばであった。さらに、暖房車には専属の係員を乗務させる必要もあった。これを嫌い、1925年から電化された東海道本線・横須賀線の普通客車列車の一部は、電気暖房装置装備の客車を使用し、機関車から直流1,500V電源の供給を受けて暖房を行っていた。しかし、電気暖房車は東京近郊のみの限定運用となっており、非電化区間に直通する大多数の客車は蒸気暖房のみの装備であった。なお、この東京地区1,500V電気暖房は、運用区間での電車への置き換え進展に伴って、1951年ごろまでに廃止された。暖房車問題に対する一策として、1937年に開発された旅客用電気機関車EF56形は、機関車内に暖房用の重油焚きボイラーと水・重油タンクを装備する手法を初めて採用、これは1940年に登場した強化改良型のEF57形にも受け継がれた。これらにおいても係員の配備は必要で、改良の余地を残していた。国鉄技師で1951年から静岡鉄道管理局の機関車課長を務めた西尾源太郎は、運用に当たる立場から、当時東海道本線で第一線の機関車として運用されていたEF56・57の車載暖房ボイラーがキャパシティ不足気味であると上申し、その意見がEF58形改良型の大型ボイラー搭載に繋がったという。改良型の本形式に搭載されたのは、新たに開発された自動制御の水管式重油ボイラー「SG1形」である。EF56形・EF57形の煙管式ボイラーよりも高効率化され、かつ乗務員のボタン操作のみで簡単に扱えるという画期的なボイラーであった。開発にあたっては、汽車製造会社技師の高田隆雄の主導でアメリカのALCOとの技術提携が図られ、自動式車載ボイラーの技術が導入された。このボイラーは、東海道線の長大編成運用に供しても十分な暖房能力を備え、短編成の上越線運用ではオーバーキャパシティ気味と言われるほどのスペックを持っていたが、短期間で設計された急造のボイラーであり、しばしば故障を起こした。作家の内田百は、1953年の早春に(新)EF58形の牽引する上野発新潟行き急行「越路」に乗車したが、機関車のボイラーが故障したため、高崎で機関車が交換されるまで暖房が効かず、寒い思いをした。内田は、この時の旅を描いた作品『雪中新潟阿房列車』の中で、EF58形のボイラーがあまりにしばしば故障するので、関係者に「『冷凍機関車』とあだ名されている」むねを記述している。このため、自動ボイラーは1957年途中(104・105号機及び115号機以降)から改良型のSG1A形に移行し、それ以前のSG1搭載機ものちにSG1Aに載せ替えている。このSG1Aはさらに改良され最終的には「SG1A改」となった。ボイラーの標準搭載は機関車運用の合理化に寄与し、本形式の運用範囲を著しく広げることになった。SGがSG1からSG1Aに改良されたことに伴い、1エンド側屋上のSG排風口の形状が変更されている。(T型ガーランドベンチレータ左右2個から、2位側に大型のダクト型1個)また、1956〜58年にかけて浜松工場担当の既存車にも排風口の改造が行われたが、鷹取工場担当の宮原機関区配置車には施工されなかった。その後、1970年から始まった電気暖房(EG)改造や、SGダクト化未施工車に対して追加改造が70年代半ばに施工されたが全車には及ばず、結局88・96・98・100号機は廃車まで原型のガーランドベンチレーターのままだった。EF58形が多数存在した時代には、工場へ入場した際に別のEF58形から降ろされ整備したSG装置へ振り替えを行なう事が多かった。後述のお召し機である61号機のボイラーも9号機→85号機→61号機と載せかえられたものである。なお、後に電気暖房装置が普及した東北本線系統などで運用される機では、ボイラーを撤去し「電気暖房化改造」を施されたものも存在した(後述)。パンタグラフは電気機関車用として正式に設計された空気圧上昇式のPS14形となった。1955年ごろの製造車よりやや幅狭に改良されたPS15形に移行、またそれ以前のPS14搭載製造車についても、検修・整備の関係でPS15形に換装されたものがある。この中で特異な存在であったのが、広島機関区にて所属・運用していた117号機で、1位側にはPS14が、2位側にはPS15が装備されるというものであった。製造当初からのものであったかは不明ではあるが、後に宇都宮機関区に転属してからはどちらの側もPS14に揃えられて、一般的な形態へと改められた。また、末期になるとPS14・PS15形の部品不足、装備の統一化に伴うことによる、下枠交差式のPS22形に載せ替えた例も生じた。電装品の規格は戦前同様の良質な水準を回復し、高速度遮断器をはじめとする安全策も十分に取られている。主電動機は新開発のMT42形となった。公称定格出力は高くなっているが、在来型のMT38形等とは基本的に同型で、給電側の改善により、架線電圧1,500Vを前提にした設計が可能になり、そのぶん定格出力がかさ上げされたためである。それまで、国鉄では電車・電気機関車とも、架線による抵抗や起動時の電圧降下を意識して、架線電圧を10%減の1,350Vとして電動機出力を計算していた。とはいえ、戦中戦後期製造のMT38形に比して工作精度・部品などの質が格段に改善されている。初期型改造機については、旧電動機のまま就役したものもあったが早期にMT42形へ換装された。台車の基本レイアウトは旧EF58形から引き継いだ古典的なものであるが、車体重量増加に伴い、担いばね追加などの変更がなされている。旧EF58形に引き続き、動軸・従軸の別なくローラーベアリング装備としており、長距離・高速運転に有利である。主台車は、鋳鋼台枠にイコライザーで結ばれた板バネ支持という形態はEF57形までと同様であるが、構造簡素化のために基礎ブレーキ装置がEF57形までの両抱き式から片押し式に変更された。制輪子受けの構造が従来どおりであると1動輪当りの制輪子(ブレーキシュー)数が従来機の2個に対しEF58形は1個に減って制動力不足となるので、一つの制輪子受けに制輪子を2個装備する構造にして従来機と同等の制動力を確保している(兄弟形式のEF15形も同様の構造となっている)。また、主台車前部台枠は、従来の旅客用機はデッキがあったために幅広となっていたが、EF58形についてはデッキが廃止されたために先台車車輪の内側に収まる狭幅のものになっている。先台車は、EF57形までと同様のイコライザー式を継続して採用したLT221であるが、日立製作所で製造された5号機と28号機から30号機まで、および45号機については、保守の簡易化を目的とした試作の一体鋳鋼台枠をもつ先台車を装備していた。この先台車は、イコライザーが鋳鋼台枠内部に隠れており、なおかつ45号機を除いて台車端梁が無い(そのため、スノープロウ取り付け座を持たない5号機、28号機から30号機は前から見ると先輪がむき出しだった)という独特の形態をしたものであったが、鋳鋼台枠の開口部が少なく注油や点検等の保守がしづらいといった欠点があったため後続車への採用はされず、また、45号機はのちに他のEF58形からの廃車発生品である通常の先台車に交換している。なお、鋳鋼先台車の形式も標準型と同じLT221である。流線型車体となった当初のタイプは比較的大型の前面窓を備えていたが、1954年途中に製造の71号機以降については、前面窓の上下幅が縮小され、156、164-166、169-174号機は窓ガラスをパテ仕上げからHゴム支持で製造されている。また、31号機以前の車体乗せ換え機は更新時期に順じており、7、11、12、16、18-20、22、25、28、29、31号機は大窓、他は小窓で出場した。なお、いずれものちの改造でHゴム支持となったものが多い。前照灯は、旧型と同じ1灯式ながら、新型車体では屋根上中央部に埋め込まれた砲弾型のケースに、電球が内蔵された型のものとなった。後には他形式の電気機関車や電車などと同様に、外枠部分を利用してシールドビームを2個内蔵した形(俗称「ブタ鼻」)に改造されたものがあり、特に竜華機関区所属機は全機がこの改造を受けていた(上掲の66号機の画像も参照)。これは同機関区が受け持つ紀勢本線にトンネルが多いため、万が一の「球切れ」に備えての安全策であった。「ブタ鼻改造」は原型のイメージを大きく変えるため鉄道ファンからは忌避されたが、同じ竜華機関区所属のED60、EF15や、EF58撤退後に配置されたEF60にも同様の改造が施され、同機関区所属機の大きな特徴となっていた。改良型EF58形の前面窓上には特にひさしは付けられなかったが、上越線に投入されたEF58形については、冬期にトンネル坑口から垂れ下がったつららによって前面窓ガラスが破損することを防ぐため、前面窓上につらら切りを兼ねた大きなひさしを装備するとともに、汽笛にカバーが取り付けられた。後年、温暖地に転属となった車両においては、汽笛カバーが撤去されたものの、ひさしは宮原機関区・米原機関区所属機の一部が車体整備時に鷹取工場で水切りに交換されたのを除いて撤去されなかったため、上越型の特徴を廃車になるまで残していた。また、この大型ひさしは車両によって形状に多少の違いがあった。ひさしの取り付けは、この他に広島工場で一部の車両について施工されたが、これは基本的に左右一体型の大型ひさしで、唯一上越線と同じ左右分割型を取り付けた63号機を含めて、目的も上越型のようなつらら対策ではなく、日除けを目的としている。連結器下には線路上の排雪のためにスノープラウを装備することが可能である(7号機および35号機以降)。その取付部形状には多くのバリエーションがあり、スノープラウ自体も角度固定式や角度可変式などの種類がある。角度可変式の場合は、運転室下にある専用シリンダによってスノープラウの尖り角度を変更することが可能となっている。車体側面下部の冷却風取り入れ口は本来金属製であるが、のちに温暖地配属のEF58形については新型機関車並みにビニロックフィルター化された。寒冷地運用のEF58形は凍結対策面で有利な金属製のままとされた。改造後のナンバープレートは正面は全機が切り貼り文字となった。側面については当初は板式であったが、124号機と128号機以降は切り貼り文字に変更されている。なお、車体乗せ換え機の側面はすべて板式である。この装備は、のちに本線系統での特急列車をはじめとする優等客車列車を牽引するという使命を持たされた機関車であるが故のEF58における装備のひとつであるが、旧性能機関車の中ではこれを装備していた形式は稀で、デッキのない車体を有しているが故の、特徴的な装備の一つである。装備位置は、正面ナンバーの下部にヘッドマーク上部取り付け座が、正面飾り帯の交点部分に下部ヘッドマーク掛け座が設けられている。なお、前面ナンバー上部にあるフックはヘッドマークを装着するためのものではなく、球切れなどで前照灯を使用できなくなった場合に応急処置としてカンテラを吊り下げるための「前部標識灯掛」である。ただし、この増設工事は172両全てに整備されたわけではなく、ヘッドマークを掲げることのない急行列車をはじめとした優等列車の牽引仕業しかなかった浜松機関区における162〜169号機や、高崎第二・長岡第二の両機関区に配置されていた131号機以降の車両を中心に、未装備のまま廃車となったものも多く存在した。また、装備されていたものの中でも異色な存在であったのが、広島機関区に配置されていた64・84号機の2両で、通常のヘッドマーク取り付け座が存在していたにも関わらず、新たに、正面ナンバー上部に設置されている前部標識灯掛を改造してヘッドマークを取り付け可能なようにし、それに伴い下部掛け座をかなり上部に増設している。このため、ヘッドマークを取り付けている時は他のものに比べかなり高い位置にヘッドマークが掲げられ、影響で車両ナンバーが隠れる形となるものとなっていた。1949年に東芝府中工場で製造が始められた。のちにEF18形となった初期型EF58形の32号機から34号機に続く増備車であり、本来はデッキ付の初期型の形態で完成する予定だった。前述のドッジ・ラインの影響によって未完成のまま放置されたが、こちらの2両は32号機から34号機ほど工程が進んでおらず、1951年に至って流線型車体の改良型EF58形に改造され、就役することになった。その際、半完成していた旧型車体の両端を切断して流線型の前頭部を接合し、完全新製車体並みの仕上がりとしている。しかし、完全新製の流線型車体は側面窓が5枚であるのに対し、旧車体は7枚であるため、流線型で完成した35・36号機もそのまま7枚窓の異形車体となってしまった。また、35号機は側面の乗務員室扉も旧車体の正面貫通扉を流用しており、他機とは窓の形状も異なっている。36号機は他機と同じ新製の扉が使われたが、車体整備時にFRP製に交換された。改良型の新製機グループとしては初期にあたる1953年に製造された。60号機が東芝、61号機が日立製作所の製造である。1953年7月15日に60号機が浜松機関区へ、61号機が東京機関区へ新製配属された。それまでお召し列車牽引用の電気機関車としては、戦前の1934年に製造されたEF53形後期形16・18号機と、1937年に製造されたEF56形の6・7号機が用いられていたが、車齢が高い上、EF53形には暖房用ボイラーがない事、東海道本線電化延伸に伴う長距離運転では旧式なプレーン・ベアリングゆえ摩擦で車軸が過熱する恐れもあった。このため、お召し列車運用を前提として最初から特別に製造された機関車が、EF58形60・61号機である。これらの就役により、EF53形は1954年にお召し列車の牽引から退いた。天皇の乗用列車を牽引するという事情から、以下のような特別な装備が施されている。さらに、両端の運転台前面には国旗掲揚器具を装備し、EF58形の特徴である前面の飾り帯は磨き出しのステンレスとして車体側面全周を取り巻くデザインとしている。これはお召し列車牽引指定機を識別するポイントである。塗色は、当初はどちらも他車と同じくぶどう色2号であったが、61号機については1966年3月より御料車編成と釣り合う「暗紅色(ため色)」と呼ばれるお召し機専用色とされている。日立、東芝ともにお召し列車専用の指名であるため、会社の名誉を懸けて製造・点検を入念に行い、国鉄納入前の社内試験も厳重に行われ、極めて良好な状態で納入された。予算は一般のEF58形より130万円高い6,300万円であったが、上記の特別仕様により、これらの機関車製造では両社ともに大赤字を出したという。61号機が初めてお召し仕業に充当された際の逸話であるが、新しい機関車であるとの話を耳にした昭和天皇は、列車出発前の東京駅ホームで、お召し列車牽引機の同機を間近に見たと言われている。機関車が(天皇の意向によって)天覧に浴したのは、希な事例であろう。61号機は東京機関区、60号機は浜松機関区にと分けて配置された背景には、関西方面は浜松機関区が担当する計画があったためとされる。実際には当初は上りと下りで両機を使い分け、その後は61号機が本務機、60号機が予備機とされ、故障防止を兼ねて毎月数回は一般の列車牽引にも用いられた。この他に、東京機関区では別に73号機を予備機に指定していた。両機はお召し列車運転時には入念な整備の上国旗を飾り、御料車編成の牽引に充当された。本務機の61号機は昭和天皇のご乗用列車を100回以上牽引したと言われる。その他、お召し列車が交流区間や非電化区間で運転される時の1号編成の回送にも、直流区間は61号機が指名されることが多かった。60号機は1967年5月、浜松で踏切事故の被害を受け2エンド側左台枠を折損した。1973年にお召し指定が解除された後は一般機と同じ扱いとなり、側面フィルタのビニロック化、正面窓のHゴム支持化などの改修工事が施工されたが、1979年の愛知県植樹祭では、久々に予備機に指定された。その後、老朽化による故障多発により1983年5月18日付で廃車となり、6月初旬に大宮工場で解体された。現在、同機のナンバープレートはさいたま市大宮区にある鉄道博物館に保管されている。61号機は60号機が廃車・解体された後の1987年に国鉄から東日本旅客鉄道(JR東日本)へ承継された。1980年代以降はその来歴を買われ、イベント列車の牽引機にも多く用いられた。2004年に全般検査を終えてからも多くのイベント列車で運用され、特に2006年には10列車以上の牽引に充当された。2008年までは稼働可能状態で保持されていた。しかし平成に入ってからはお召し列車の運転回数も減少し、本来牽引すべき御料車の一号編成客車ともども老朽化が進行していた。平成に入ってから61号機がお召し列車の牽引に用いられたのは3回だけである。そして、2007年に一号編成の後継車両となる電車形式のハイグレード車両と特別車両(E655系電車)が落成したことにより61号機と一号編成客車の本来の役目を譲る形で、お召し列車牽引活動に終止符を打った。また2008年に、経年劣化による金属疲労で主台枠に亀裂を作ってしまい、車両を牽引しての運転が出来なくなってしまった(単独走行のみ可能)。これらの事情から勘案し、61号機は同年秋に現役を退いた。現在、同機は東京総合車両センターの御料車庫に保管されている。書類上は2012年現在も廃車になっておらず、保留車として田端運転所に在籍している。同センターが一般公開される日には屋外に展示されることもある。1950年代末期から地方主要幹線の交流電化が進展する過程で、東北・上信越・北陸地区の幹線については電気機関車に電源供給設備を搭載、列車には電気暖房装置搭載の客車を充当することが一般化した。暖房用ボイラーを搭載しないことで電気機関車の小型化や軽量化に効果があるためで、主変圧器の3次巻線から簡単に暖房用電源を取り出すことができる交流電気機関車のみならず、搭載機器が多く重量制限の厳しい交直両用機関車や直流機関車にも波及した。ただし、九州や北海道については非電化区間直通列車も多く、蒸気機関車やディーゼル機関車との兼ね合いもあって蒸気暖房のままとなっていた。結果、1960年代以降に開発された電気機関車の多くが電気暖房仕様となったが、客車には蒸気暖房配管も残されたため、電源供給ができない場合は蒸気暖房も可能であった。そして、東北・上信越地区の客車のほとんどが電気暖房装備となると、その区間専用の電気機関車に保守点検や給油給水の手間がかかる暖房用ボイラーを載せておく必然性が低くなった。そのために1970年代初頭以降、高崎・上越・東北本線(黒磯以南)などで限定運用される本形式機はボイラーを下ろし、代わりにサイリスタインバータを搭載して電気暖房対応型となった。屋根上への昇降用のハシゴについては、それまでの箱型・デッキ付の旧型電機については妻面に設置され、デッキ上より安全に昇降ができていたが、非貫通・流線形の車体でかつデッキの廃された新車体EF58については車体側面に設置せざるを得なかった。一方で車輌接触限界の関係で外側に大きく張り出して設置することができず、手足を深くハシゴに掛けることができずに昇降の際、足を踏み外して転落するなどの危険性があり、乗務員他関係者から当初より不評であった。この不便を解消するため、車体側の側板を切り込む事で踏み込みの奥行きを確保する改造がなされた。施工期間は担当工場により多少前後するが、1960〜67年である。ただしこの改良工事は全車両に行き渡らず(広島・下関機関区を担当する広島工場では改造の予算が組まれなかったため)、原形のまま廃車されたものもあった。長年にわたって使用されたことから、EF58形電気機関車の塗色には幾多の変遷がある。当初は、全車とも一度は戦前以来の電気機関車標準色である焦げ茶色(ぶどう色2号)単色であった。廃車までぶどう色2号を保ったのは、元お召し列車用の60号機のみである。お召し列車用の61号機は1965年ごろより、大宮工場で独自調合された深紅色(ため色)となっている。60・61号機には、前述の通り車体側面にステンレスの飾り帯がありアクセントとなっている(お召し列車牽引指定機(60・61号機)の項を参照)。東京機関区のお召予備機だった73号機は、1971年に宇都宮機関区に転属するまで、ぶどう色塗装を維持していた。後述の東海道本線全線電化、および青大将色採用に先立ち、1954年から4・16・18・31号機を用いて塗色試験が行われていた。これらは4両とも初期型(車体載せ替え機)ゆえ当時は主電動機の出力が低かったためか、試験終了後はぶどう色2号に戻された。このうち濃淡緑色の上下2トーンに彩色された4号機は当時のフランス国鉄 (SNCF) の電気機関車の塗色を模したものと言われ、また東海道本線全線電化時の記念切手にも同車が描かれている。1956年の東海道本線全線電化に際し、特急「つばめ」・「はと」牽引機用として実際に採用されたのは車体が淡緑色(淡緑5号)に下部黄色(黄1号)・台車等の下回りは暗緑色 (緑3号)というもので、東京機関区および宮原機関区所属の計25両にこの塗装が施された。これも当時としては斬新であり、同系の淡緑色単色(屋根部銀色)とされた客車ともども「青大将」と呼ばれた。1960年に、「つばめ」・「はと」の2列車が151系電車に置き換えられた後は、順次元のぶどう色2号に戻された。ちなみに青大将色と、ほぼ入れ替わりに登場した寝台特急牽引機塗色(下記)の双方が施工された車両はない。93号機は廃車後に青大将色に塗装され、大宮総合車両センターに保存されていることは前述したが、1956年の電化時の青大将色への塗り替えは、同機に対しては実施されていない。1960年以降、寝台特急牽引機は青に下部クリーム色塗色となった(ブルートレイン牽引の項を参照)。1965年以降、後述の60・61号機を除く全車が新型直流電機標準色の青(青15号)に前面下部クリーム色(クリーム1号)に順次変更された。EF58形は機構的には旧型に属するが、高速性能に優れているため、警戒を促す意味を持たせたためである。1984年になって89号機がぶどう色2号とされ、1999年に廃車されるまでぶどう色2号で使用され、その後の大宮工場での保管時に標準色に戻ったが、鉄道博物館収蔵時に四たびぶどう色2号となった。また、150号機がJR化直前に車籍復活する際、ぶどう色2号塗装とされたほか、同時期に車籍復活した122号機も1992年以降ぶどう色2号とされている。なお、172号機は1982年のお召し列車牽引の際にぶどう色2号への変更も検討されていたが、結局ブルーの標準色のまま装飾を施して牽引に当たった。1960年以降、昼行の特急・急行列車の分野で電車列車が台頭してくると、本形式は夜行列車を主な運用とするようになった。ブルートレイン牽引の本格的後継機であるEF65形500番台(P形)が登場した後も、寝台列車運用には盛んに用いられた。最高許容速度こそEF65形に僅かに劣った(EF58形=100km/h, EF65形=110km/h)が、全界磁定格速度では著しく勝っており(EF58=68.0km/h、EF65=45.0km/h)、平坦線での高速域に限ればその牽引力はEF65形とも大差なかった。したがって110km/h運転が可能な区間の少ない路線や急行列車以下で主力だった旧型客車の牽引(最高速度95km/h)では、1970年代に至っても十分に実用機たり得たのである。なお、1950年代中期の速度試験でEF58形は123km/hの最高速度に到達してもいるが、営業運転ではそこまでの高速は出さなかった。1960年代以降の国鉄は、高出力で貨客両用として用いることのできる新系列電気機関車を大量増備したが、これらは貨物列車牽引機としての牽引力をも満たせる汎用性を重視したため、高速性能は必ずしも十分に高くなく、旅客列車の高速牽引能力においてEF58形を上回るものはなかった。「旅客列車牽引のみ」を念頭に、高速性能最重視で設計された機関車は、事実上日本ではEF58形以降量産されていない。高速旅客列車対応形式としてはEF61形0番台が存在するものの、本形式の補完用として18両が新製されたのみで中止され、また駆動機構や車体構造に問題が多かったことからEF58形より先に運用を終了している。新性能世代で本形式と同等の高速性能を備えた機関車の出現は、1968年から量産されたEF66形電気機関車まで待たなければならなかった。しかし、EF66形にしてもその開発目的は「重量・高速貨物列車の牽引」であり、国鉄末期に至ってようやく寝台特急運用に充当されるまでは貨物列車専用機であった。また、新系列の直流電気機関車でも多数派であるEF60形とEF65形は、一般型客車牽引に必要な暖房供給装置、つまり暖房用蒸気発生ボイラーや電気暖房用電源を搭載しておらず、1980年代初頭まで主要幹線で運行されていた旧型客車の暖房サービスの見地から、本形式を用いる必然性もあったのである。それでも1978年以降は老朽化が顕著となって廃車が生じ、国鉄末期の荷物列車牽引運用を最後に、ほとんどが廃車された。荷物列車運用で重用された背景にも、暖房供給能力と高速性能の両立というEF58形の特性が存在していた。東海道・山陽本線の定期列車からはEF62形に置き換える形で1984年3月に撤退、1985年3月には東北本線の定期列車から撤退し、最後まで残った紀勢本線の定期列車も1986年3月に撤退した。しかしその後も、臨時列車などに僅かに運用例が見られた。JRに引き継がれたうちの89号、122号、157号は動態保存機(詳細は下記参照)であったが、しばしばEF64形・EF65形の代替車として運用された。牽引対象は主に12系客車・14系客車・24系客車、またカヤ21形を使用する20系客車で、EF58形の暖房設備は必要なかったが、長大編成の臨時列車が客車で運転されることは稀になっていたため、EF58形でも性能的に充分なことと、ファンサービスを目的としたことによる充当である。また東日本旅客鉄道(JR東日本)の水戸運転所にスロ81系和式客車1編成が継承されたが、冬季は暖房用電源の外部供給が必要だったため、同編成が直流電化区間で運用される際には、89号が充当されることが多かった。また同社が所有していたジョイフルトレイン『サロンエクスプレス東京』も14系のため、機関車の暖房装置は不要であったが、準指定機(特に61号機)であった。1958年10月ダイヤ改正で、のちに「ブルートレイン」と呼ばれることになる特急列車用固定編成客車20系が東京 - 博多間の特急「あさかぜ」で使用を開始し、牽引機に本形式が使用された。当時においては戦後新製された唯一の旅客列車用大型機関車で、かつ、特急牽引機として既に実績を有していたことが主たる理由である。1960年になると、本形式の一部に20系牽引の対応がなされた。外部塗色は従来のぶどう色2号塗装から20系に揃えた青塗装(青2号)に変更され、車体裾部のみをアクセントとしてクリーム色とした。20系乗務員室との有線電話回路が設置され、のちに架線電源式の電動発電機 (MG) を搭載したカニ22形が20系編成に組み込まれた際には、架線異常時のMG緊急停止・パンタグラフ降下スイッチを追加している。車両番号の変更は行われず、後継形式のEF60形500番台やEF65形500・1000番台のような明確な番台区分は行われなかった。本形式が東海道・山陽ブルートレインを牽引する際の最大の問題は、山陽本線上り列車での難所である瀬野 - 八本松間(通称「瀬野八」)において単機では登坂力不足のため、EF59形電気機関車などの補助を必要とすることだった。これを解消すると同時に、牽引定数向上(20系11両→13両)を図るため、1963年からEF60形500番台への置き換えが始まった。だが、一般貨物列車での大きな牽引力確保を重視してEF15形電気機関車と大差ない高速特性しか持たないEF60形は、高速の特急列車牽引には不向きで、高速巡航可能な本形式と同等のダイヤを維持することが難しく、故障や遅延を頻発させた。1964年10月、東北方面初のブルートレインとして「はくつる」が運転を開始し、上野 - 黒磯間の牽引に本形式が使用された。1968年10月ダイヤ改正で583系電車が投入され、当該運用は終了している。1965年以降、東海道・山陽ブルートレインはEF60形に代わりEF65形500番台を主として使用してきたが、1972年以降から関西発着のブルートレイン(「あかつき」「彗星」「日本海」「つるぎ」)に際しては下関運転所・広島機関区(「あかつき」「彗星」・新大阪 - 下関間の一部)、米原機関区(「日本海」「つるぎ」・大阪 - 米原間と「あかつき」「彗星」の一部)各所属の本形式が牽引に充てられた。これは1960年代中期以降の度重なる同区間のブルートレイン増発でEF65P・F形が不足気味になっていたこと、貨物列車増発のために山陽本線では並行ダイヤを組まざるを得ず、速度を110km/hから95km/hに引き下げたことが一因として挙げられる。本形式はこの時点でクリーム色+青色の標準塗色になっていたが、該当する車両は既にブレーキを改造済であった20系に対応すべく空気関連装備を改造(元空気溜め管ホースの増設)し、P形と称したが、車番については変更されず原番号のままであった。20系特急牽引指定機はP形化工事を受けて運用に就いたが、「あかつき」「彗星」の14系・24系使用列車についてはP形の配置がなかった宮原機関区も担当した。また、1975年3月のダイヤ改正で東京 - 大阪・紀伊勝浦間「銀河1号」・「紀伊」、上野 - 盛岡間の寝台急行「北星」、上野 - 金沢間の寝台急行「北陸」、新大阪 - 下関間「音戸」が特急に格上げされ(「銀河1号」は「いなば」、「音戸」は「安芸」に改称)、九州ブルートレインから転用された20系客車(但し「いなば」「紀伊」は14系客車)に置き換えられることになったが、牽引機には急行時代から引き続いて浜松機関区(「いなば」「紀伊」・東京 - 京都間。14系のためP形非改造)、宇都宮運転所(「北星」・上野 - 黒磯間)、長岡運転所(「北陸」・上野 - 長岡間)、広島機関区(「安芸」・新大阪 - 下関間)各所属の本形式が充てられた。その一方で、「日本海」「つるぎ」が湖西線経由となったため、両列車の運用を終了した。1984年に紀勢本線の客車運用が12系客車に置き換えられた際、同線で使用する本形式にも同様のP形化改造が施工された。これはカーブの多い同線で12系客車の空気バネ台車に空気を充分に供給するための措置である。客車が次第に14・24系化されるに伴い、牽引機関車を問わないこれら客車の牽引についてはP形以外の車両も使用された。1975年3月のダイヤ改正以後、関西発着ブルートレインにおいて、1978年に「安芸」が廃止、「あかつき」「彗星」「明星」が1979年7月にEF65形1000番台に置き換えられ、東京・上野口でも1978年に「北星」がEF65形1000番台に、1980年10月には「出雲3・2号(元「いなば」)」「紀伊」と「北陸」がEF65形1000番台とEF64形にそれぞれ置き換えられ、EF58形の定期特急牽引仕業はここに終了した。急行列車に転用された20系客車の牽引にも使用された。「銀河」(東京 - 大阪)では1976年の20系投入以降も引き続き本形式が牽引し、1980年10月まで使用されたほか、1970年代後期からは「天の川」(上野 - 秋田)の上野 - 新潟間を牽引し、EF64形1000番台が増備されるまで用いられた他、「新星」(上野 - 仙台間)の上野 - 黒磯間を、1982年11月に列車自体が廃止されるまで牽引していたが、同列車は20系化直後の数か月間、定期運用離脱直前のEF57形と共通運用で牽引した。また、1982年11月からは「津軽」(上野 - 青森)に20系が投入され、上野 - 黒磯間で本形式が牽引したが、1983年7月には混雑緩和のため季節運転の「おが」(上野 - 秋田)と編成を交換して14系化、1984年2月からは上り列車のみ本形式の牽引となり、1985年3月にはEF65形1000番台に置き換えられた。急行に転用された20系客車の場合、荷物・電源車カニ21形の荷物室を潰して大型エアコンプレッサーを搭載したカヤ21形を充当したため、P形改修機でなくとも運用に支障はなくなった。旅客列車の牽引に活躍したEF58形だが、阪和線では例外的に貨物列車を牽引する運用も見られた。大都市圏の通勤路線である阪和線では、貨物列車も、通勤用の電車列車の合間を縫って高速で走行する必要があったため、高速性能を買われたEF58形が貨物列車牽引の任に当てられたものである。国鉄民営化時には61号機、89号機、122号機、150号機の計4両が東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、西日本旅客鉄道(JR西日本)に引き継がれ、1988年にはJR東海が国鉄清算事業団から157号機を購入し車籍復活させた。その後、動態保存機としてイベント列車などに使用されてきたが、老朽化や客車列車の廃止に伴う機関車運用の減少に伴い2011年までに全車が運用を離脱し、現在走行できる車両はない。2012年現在はJR東日本の61号機が車籍を残すのみとなっている。
出典:wikipedia
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