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ローマ進軍

ローマ進軍(ローマしんぐん、)は、イタリア王国でベニート・ムッソリーニが1922年10月に行った政権獲得のためのクーデターのことである。ファシスト党党員の入閣と、ムッソリーニ自身を首相とした内閣を実現するため、1922年10月に起こした行動である。計画では、全国の都市で「黒シャツ隊」と呼ばれていた武装部隊が、市庁舎・警察署・鉄道・郵便局などを占拠し、同時に反ファシズム派の事務所・新聞社などを襲撃した上で、あらかじめ決めておいた3ヶ所の集合地に集まって、そこからローマに進軍するというものであった。しかし実際にはこれらの計画の多くは、軍による様々な妨害活動や党員間の連絡の不行き届きなどから、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世よりムッソリーニに組閣の命が下る、つまり政権交代が実現するまでに実行されないままであった。第一次世界大戦後の世界的な経済不況は、イタリアも例外ではなかった。1919年から1920年にかけてのインフレーションによる物価の高騰は庶民生活を直撃し、都市では賃上げを求めるストライキが、農村では土地占拠運動が激化するとともに、社会主義運動も発展した。青年期に熱心な社会主義者としてイタリア社会党で活躍したベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦が勃発すると参戦論に転じ、民族主義・反革命主義を鼓吹していた。1919年には、ミラノで「イタリア戦闘者ファッシ」を結成し、労働・農民運動を襲撃する直接行動を始めた。初めはあまり注目されなかったが、革命運動の激化に危機感を募らせた資本家・地主階級が彼らに莫大な資金を提供し、軍部・警察も彼らの運動を容認するようになった。これに力を得た戦闘ファッショは、1921年初頭から「ファシスト懲罰遠征」と呼ばれる、労働組合・社会主義政党とその活動家に対する暴行・殺人・放火などを公然と行った。同年11月、戦闘ファッショは「ファシスト党」と改称され、全国に支部と軍事組織が作られた。行動は1922年10月27日夜に起こされた。政府は翌28日朝、この行動を阻止するため戒厳令の布告を決定、ルイージ・ファクタ首相は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の署名を求めた。しかし、革命の進展に王政の危機を感じて保守派に傾いていた国王は、署名を拒否した。3ヶ所の集結地に集まったのは予想外に少なく、1万4千人ほどであった。その上、銃などで武装していない丸腰の物も多く、さらに雨と食糧不足と軍に列車を止められたため出発できなかった。進軍の失敗を覚悟したムッソリーニは、スイスへの亡命の準備をしていたという。ところが、一転して国王は29日にムッソリーニに組閣を命じた。これを受けて鉄道の封鎖も解かれ、イタリア各地から残りの黒シャツ隊がローマに入り始めたのは翌30日のことであった。このように、ムッソリーニのファシスト政権の樹立には、国王が大きな役割を果たしていた。第二次世界大戦後のイタリアで、国民投票の結果、王政が廃止されたのは、国王が一貫してファッショ政権を支持していたことが批判されたためであった。ムッソリーニ内閣成立時の議会ではファシスト党はわずか35議席(総議席数535)であり、国民党、民主党、民主自由党といった保守・中道政党との連立政権であった。その中でムッソリーニが首相の他に外務大臣と内務大臣を兼ねて権力を固めた上で、翌年、選挙法改正案を半ば暴力的に通過させた。それは、全得票数の4分の1を獲得した政党が議席の4分の3を得るというものであった。これに基づいた総選挙が1924年に行われ、その結果、ムッソリーニはファシスト党単独内閣を成立させ、完全な独裁権力を掌握した。この一年後、ドイツにてアドルフ・ヒトラーがローマ進軍を参考にしてミュンヘン一揆を起こす。このように各国のファシズム団体によるローマ進軍を模倣したクーデター事件が続発したが、そのほとんどが未遂に終わるか、謀議の段階で摘発されている。1926年5月にポーランドでユゼフ・ピウスツキが起こした軍事クーデター「五月革命」は、ローマ進軍を研究した上で起こされたものだったといわれている。

出典:wikipedia

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