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マルクス・ユニウス・ブルトゥス

マルクス・ユニウス・ブルトゥス(, 紀元前85年 - 紀元前42年10月23日)(英語読みはブルータス)は、共和政ローマ末期の政治家・軍人。民衆派の指導者であった独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺に関わった人物の1人で、現代においてはカエサル暗殺を象徴する人物として記憶されている。伝説的な執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔であり、ローマの名門貴族(パトリキ)であるカプア市の創設者として知られる護民官(大ブルトゥス、Brutus the Elder)と、小カエピオの子女セルウィリア・カエピオニスの子としてローマに生まれる。セルウィリアと小カトーは異父姉弟(小カエピオの妻リウィアが、離婚後に大カトーの孫カトー・サロニアヌスと再婚して小カトーを儲けた)であり、小カトーは母方の叔父となる。父はブルトゥスが生まれた時、ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが率いる閥族派と民衆派の内乱に巻き込まれていた。マリウス死後、マルクス・アエミリウス・レピドゥスによる親マリウス派の蜂起に加わった父はスッラの部将グナエウス・ポンペイウスによって殺害されたとされる。未亡人となった母セルウィリアは、マリウスの外甥にあたるガイウス・ユリウス・カエサルと親しい間柄になり、両者共に家庭を持ちながら愛人関係となった。幼くして父を失ったブルトゥスはカエサルを父親代わりに育てられた。その親密さから一部の歴史家は「カエサルがブルトゥスの実父だったのではないか」とする説を残している。成長する過程でブルトゥスは母方の親族であるセルウィリウス氏族カエピオ家に預けられていた時があり、母の同父弟である叔父の養子とされていた。合わせて父方のユニウス氏族から母方のセルウィリウス氏族に移り、全名もクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ・ブルトゥス(Quintus Servilius Caepio Brutus)と名乗っていた。ブルトゥス家を継いでからは元の名に戻しているが、カエサル暗殺後に前述の全名を用いている。これはユニウス氏族に並んでセルウィウス氏族も独裁者を討ち果たした祖先()を持っており、共和制下での独裁を倒したという点でより近かった。彼は叔父達との絆を大切にし、政治家としての一歩もキプロス島の知事として派遣された小カトーの補佐官に任命された事が始まりとなった。叔父の仕事を手伝う傍ら、自らも金貸し商人として一財を成すなど商才を示した。ブルトゥスはキプロスで得た財産をローマに持ち帰ると、執政官の娘と結婚した。閥族派議員として元老院議席を得たブルトゥスは、当時の政界で形成されていたガイウス・ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススの第一回三頭政治に対抗する派閥に属した。恩人(カエサル)と宿敵(ポンペイウス)に挟まれる形での行動であったが、カエサルがポンペイウスとの対立の果てにルビコン川渡河に及ぶと状況は一変した。当初、カエサルも含めて周囲の人間はブルトゥスがカエサル派に付くかと考えたが、彼は仇敵と手を結んでポンペイウス軍に加わった。閥族派は元老院の決定を不服として内乱を起こしたカエサルを「共和制の敵」と見なしており、ブルトゥスは私的な復讐より公的活動での信念を優先した格好となった。紀元前49年にローマ内戦が始まるとブルトゥスはポンペイウス軍の将官として参加し、両軍の対決となったファルサルスの戦いに従軍した。この時、カエサルは「戦場でブルトゥスを見つけたなら、決して傷つけてはならない」と異例の厳命を下した事で知られている。ファルサルスでポンペイウスが惨敗すると軍内での対立が始まり、ブルトゥスもポンペイウスを見限って軍を離れた1人となった。ブルトゥスはカエサルの陣営に恭順の意思を示し、カエサルもブルトゥスを歓待して一切の罪に問わず、むしろ自身の側近に加えている。小カトーやポンペイウス、メテルス・スキピオら北アフリカ各地にそれぞれ逃亡した反カエサル派の将官を追って軍を派遣する時、ブルトゥスはカエサルからガリア総督に任命されている。紀元前45年、カエサルによるブルトゥスへの厚遇は続き、自らの肝いりで法務官へ推挙している。同年に最初の妻クラウディアと離婚して、カエサルに追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(自身の従姉妹)と再婚している。友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった為、巷では小さな争論へと発展したとされ、母セルウィリアとも口論になったという。内戦後、独裁色を日増しに強めていくカエサルの行動に元老院内では共和制の終焉を危惧する声が聞かれ、何時しか暗殺の謀議が巡らされ始めた。ブルトゥスは当初暗殺の謀議には加わっていなかったが、周囲から暗殺に加わる様に促された。暗殺の首謀者であるカッシウス・ロンギヌスが祖先ルキウス・ブルトゥスの銅像の前に手紙を置き、ユニウス氏族の使命を思い起こさせたと言われているが、この有名な逸話はウィリアム・シェイクスピアによる創作と見られている。カッシウス・ディオによれば「王の如きカエサルの振る舞いに、元老院議員として率直に反感を抱いたのだろう」と結論している。妻ポルキア・カトニスも父の仇であるカエサル暗殺に賛同し、唯一の女性参加者となった。暗殺が実行に移された3月15日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めており、暗殺計画が露呈した様にも思われた。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと疑われても議場に留まっていた。そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、によれば最初に短剣で一撃を加えたという。カエサルは辛うじて致命傷は免れたが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガに覆う仕草を見せた。数十人の議員達によってカエサルは四方から滅多切りにされ、その凄まじさは議員同士で手を切りあってしまうほどであったという。暗殺後、元老院はブルトゥスらによるカエサル暗殺を賞賛して彼らの罪を許す恩赦を決議した。決議案にはカエサルの有力な腹心であったマルクス・アントニウスも名を連ねていたが、こうした状況に関わらず騒乱を予感したブルトゥスはローマから離れている。一説にクレタ島に滞在していたとされるが、足取りは定かではない。ローマではアントニウス、レピドゥスとカエサルの大甥オクタウィアヌスが手を結んで第二回三頭政治が結成され、次第に状況は悪化していった。紀元前43年、オクタウィアヌスが執政官となると対立は決定的になった。オクタウィアヌスは大叔父カエサルの神格化を推し進めて自身の権威を高める中、その大叔父を討った(もしくは協力した)ブルトゥスら閥族派を何としても討伐せねばならなかった。しかしアントニウスとオクタウィアヌスの権力闘争は直ちに閥族派との決戦を行う事を許さなかった。ブルトゥスはデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス討伐に絡んで両者が仲違いしている事を盟友キケロを通じて知っていた。ブルトゥスは同じく東方属州に逃れていたロンギヌスと自派の軍団を結集させ、17個の軍団を率いてローマに進軍を開始した。ブルトゥス挙兵を聞いたオクタウィアヌスは慌ててアントニウスの要求に応じて和解し、再び共同戦線を組む事となった。2人はブルトゥス軍よりやや多い19個の軍団と共にローマに向かう敵軍を迎え撃つべく進軍、両軍はマケドニアのフィリッピで遭遇した。後世においてフィリッピの戦いとして知られる一大会戦は名将として名高いアントニウスの活躍によって三頭政治側の勝利に終わり、激戦の中で13個の軍団が壊滅して副将ロンギヌスも戦死した。ブルトゥスは残った4個軍団と丘の上に立て篭もって抵抗を続けたが、やがてアントニウス軍に包囲されると捕虜になる事を潔しとせず、陣営地で自害した。ブルトゥスの遺骸を見つけたアントニウスは自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬る様に命じたという。これはかつてアントニウスとブルトゥスが友人であった事を示唆している。ブルトゥスは火葬によって葬られ、遺骨はローマのセルウィリアの元へ届けられた。暗殺に加わっていた妻ポルキアは夫の死を聞いて直ちに自害したと伝えられるが、自害しなかったとする論者もいる。

出典:wikipedia

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