橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。1940年(昭和15年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭および奉祝行事「春の神武祭」が行われる4月3日にも多くの参拝者が訪れる。畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。県道を隔てた東側は奈良県立橿原公苑として整備されており、橿原公苑野球場や橿原公苑陸上競技場があり、スポーツ競技の奈良県予選決勝の舞台として頻繁に利用されている。公苑に隣接する施設として奈良県立橿原考古学研究所および付属博物館がある。また、付近は多数の陵墓が存在する。社務所に当たる組織は橿原神宮庁と呼ぶ。この地域の開発が進んだ際、元々周辺に存在していた村や被差別部落(洞部落)が「負傷醜ろうナル家屋ノ見下スコト」(奈良県行政文書『神苑会関係書類』)の不都合により、奈良県によって移転させられたという(高木博志『近代天皇制と古都』に詳しい)。しかし、移転後の部落に生まれ育った辻本正教(後の部落解放同盟中央執行委員)の反証によれば、県による強制執行は行われておらず、洞村の人々が陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めたともいわれている。前述のように1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が大々的に行われたが、当時の逓信省(現在の日本郵政グループ)は「紀元二千六百年記念」の切手として同年の11月10日に20銭切手を発行した。この額面は当時の国際郵便書状基本料金のための高額切手であった。毎年の紀元祭当日(2月11日)には、民族派系の諸団体(いわゆる街宣右翼)が集団参拝で多数押し寄せるため、街宣車による喧騒問題が生じており、警察が騒音測定車を出して取締りを行っている。このため、地元橿原市民などは2月11日を敬遠する傾向にあり、神武天皇祭(4月3日)の奉祝行事「春の神武祭」を楽しんでいる。近年では神武天皇祭の前後1週間にわたって開催され、日曜日には周辺を車両通行止めにしてパレードが行われる。他に、1855年(安政2年)建立の京都御所神嘉殿を創建に際して移建した神楽殿(御饌殿)も重要文化財に指定されていたが、1993年(平成5年)2月4日の火災で焼失した。橿原神宮の設計は、東京帝国大学名誉教授を務めた伊東忠太である。毎年の紀元祭は、MBSテレビやABCテレビといった地元メディアによって、近畿圏のローカルニュースとして報道されることが多い。また、2013年(平成25年)2月21日(木)のBSジャパン「GRACE of JAPAN」(21:00-21:54)にて特集報道された。
出典:wikipedia
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