都萬神社(つまじんじゃ、都万神社)は、宮崎県西都市にある神社。式内社で、日向国総社論社、日向国二宮論社。旧社格は県社。「都万」の社名について、「妻万」とする説が古くからある。またその場合、読みを「つま」のほか「さいまん」とする説がある。現在も地元では、「おせんさま」という「さいまん」の転訛による呼称が残っている。一説として、祭神は柧津比売命という説もある。創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる。なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない)。国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神社を官社に預かる)」という記事である。その後、神階は天安2年(858年)に従四位下まで昇進した。『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に「都万神社」と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また「五社明神」という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られることから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある。また、都農神社(日向国一宮)に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある。日向国衙の在庁職にあった日下部氏は当社の神官も務め大きな影響を持ったが、室町時代以後の当社は伊東氏から庇護された。中世には「妻宮」「妻万宮」「日向総廟五社大明神」などと呼ばれていたという。日向国の式内社4社の中では、実質的に最も有力な神社であった。江戸時代には領主の島津氏からの崇敬も受け、神領315石が安堵された。明治6年(1873年)、近代社格制度において県社に列格し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進指定を受けた。所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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