B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、1000B円紙幣のように、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。デザインは肖像や風景などの具象的なものではなく、彩文模様であり、これはアメリカ軍が占領した地域で使用した軍票と共通したものであった。なお、これ以前に日本国内で流通した軍票には、西南戦争で西郷軍が発行した通称西郷札がある。デザインは人物肖像無しの唐草模様で構成されており、裏面には、日本語と英語で「軍事布告に基き發行す」「ISSUED PURSUANT TO MILITARY PROCLAMATION」と書かれていた。発行者や兌換保証を示す表記は一切無い。アメリカが占領した直後、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、これらの通貨が混合して流通していた。アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美群島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。なお、この時点で奄美群島は既に本土復帰していた。A円もあり、これは南朝鮮(現在の韓国)の法定通貨とされていたが、日本国内ではアメリカ軍基地間での決済のみで使用され、外部への流出は禁止された。ただし、多少は流出したものがあり、残っている。アメリカ軍の軍票は、このほかドル建てのものも存在した。沖縄を除く本土地域でも、1945年の敗戦直後、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領経費を日本円で支弁することを交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認されたため出回った量は極めて少ない。ただし、当時、東京で、B円は受け取り拒否できず困った、という記述がされているので、若干は流通したと考えられている。1948年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかったため混乱はなかった。本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された。
出典:wikipedia
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