髙木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。愛知県名古屋市生まれ、岐阜県岐阜市出身。現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、引退後はコーチ・監督を歴任した。2代目「ミスタードラゴンズ(初代は西沢道夫、3代目は立浪和義である)。2007年1月より2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長。2012年から2013年まで再び中日の監督を務めた。10歳のとき、中日スタジアムの火災(8月19日)に巻き込まれたが、危うく事無きを得た。1957年、県立岐阜商業高校に進学。肩を痛め遊撃手から二塁手に転向。1年生の時に長嶋茂雄(当時立教大学4年生)にコーチを受けた。長嶋は髙木の才能を見抜き、監督に髙木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、髙木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となったという。なお、遊撃手だった髙木を二塁手に転向させるよう監督に提案した人も長嶋だという。3年春には第31回選抜高等学校野球大会に出場、決勝まで進んだが、中京商業(現・中京大中京高校)に敗れ準優勝に終わる。最後の夏は、県予選で敗れた。高校3年夏の甲子園大会終了後にプロからの誘いがなく、OBの縁故を頼って高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だったが、地元球団・中日から急遽オファーが届き入団する。、中日に入団。同年5月7日の対大洋ホエールズ戦で代走として初出場、初盗塁を記録。この試合に宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打った。から二塁手のレギュラーとなる。同年に50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一とともに中日の新たなスター選手となった。以後、と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトス等を度々披露。、と二度の打率3割を記録するが、5月の巨人戦で堀内恒夫から顔面に死球を受け、一時は意識不明となる。その影響でバッティングフォームを崩し、長期にわたる打率の低迷を余儀なくされる。しかし徐々に打棒も復活し、にはチームの20年ぶりの優勝に貢献した。初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000安打を記録した選手は髙木が初めてであり、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も髙木が初めてである。1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園球場の対読売ジャイアンツシーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋茂雄の引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳、藤波行雄などの若手や、引退直前だった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に髙木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、髙木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。髙木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという(『月刊Dragons』では星野仙一も同様に電話で謝罪したとの記述がある)。ロッテオリオンズと対戦した同年の日本シリーズでは、初戦からサヨナラ打を打つなど大活躍する。後楽園球場での第4戦でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、その試合の3打席目で自打球を左足に当て負傷退場。検査の結果全治3週間の骨折で、高木は第6戦で復帰するも中日はロッテに敗れた。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。視力の衰えもあり、限りで現役引退。シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。翌1981年のオープン戦で引退試合が行なわれた。一軍作戦守備コーチ( - )、二軍監督( - )、一軍守備コーチ()を務めた。1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた。1987年からCBC解説者となるが、星野仙一の監督の辞任を受けに初めて監督に就任する。初年度はシーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロホームラン1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られて大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている。は首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える。シーズン終盤には監督交代の話があがっていたが、後半戦の躍進も評価され翌年も続投となった。しかし、は、投手陣の崩壊や故障者続出による成績不振の責任を取ってシーズン途中で辞任。監督としての最後の試合となった同年6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。からは再びCBC解説者・中日新聞評論家となる。からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務める。オフには谷沢健一や野村克也らと共に、中日の監督候補に名前が挙がったものの、落合博満が就任した。、野球殿堂入り。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。9月22日、落合監督の後任としてシーズンから指揮を執ることが球団から発表された。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした。はシーズン2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。、この年、チームは12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となった。Bクラスが確定した9月25日に今季限りで退任する意向である事が中日新聞が伝え、10月8日に退任の会見を行った。なお退任後は高齢もあってか評論活動にも復帰せず、表舞台からは退いている。現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代はに1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もない。主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は、通算でプロ野球史上歴代最高値を出している。野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として髙木が選出されたことがある。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。
出典:wikipedia
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