猿飛 佐助(さるとび さすけ)は、講談や立川文庫の小説などに登場する架空の忍者。ただし、モデルとなった人物(猿飛仁助や上月佐助など)が実在したとする説もある(#架空説と実在説)。立川文庫や松本金華堂などによると、鷲尾佐太夫は森武蔵守の家臣であった。小牧・長久手の戦いで森長可が鉄砲により討ち死にすると鷲尾佐太夫は信濃の鳥居峠の麓に住んで郷士となり、姉の小夜と弟の佐助の二人の子をなす。以上が初期設定である。。戸隠の山の中で猿と遊んでいるところ、摂州花隈の城主戸沢山城守の父の戸澤白雲斎に見出されてその弟子となる。甲賀流の忍者だが、甲賀の里ではなく、戸澤白雲斎とは信濃の鳥居峠の近くの角間渓谷(真田忍者の修行場だったとの伝説がある)で三年間の間、修行をしていた。真田幸村に仕え、真田十勇士の第一として登場。真田幸村に猿飛佐助幸吉(さるとび さすけ ゆきよし)と名付けられる。同じ十勇士で伊賀忍者の霧隠才蔵は、ライバルでもある。大坂夏の陣で徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ちのびたという。立川文庫版の原作者が愛媛県今治市出身の山田阿鉄一族であることから、JR今治駅前に猿飛佐助の銅像が立っている。司馬遼太郎は、小説『風神の門』において「明治末期~大正年間に立川文庫の作者達が創った」とする説を紹介し、「猿飛佐助の命名は、玉秀斎を中心とした作家グループ達が行った」との説を補筆している。それを司馬は「半ば真実かもしれない」と理解を示した上で、「すでに江戸時代には大阪の庶民の間で語り継がれていた」とする岡本良一の異説を紹介し、『淡海故録』および『茗渓事蹟』を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」と実在説を支持している(三雲佐助賢春は六角氏の重臣である三雲成持の甥にあたる)。『審訓清正実記』には「木下藤吉郎(豊臣秀吉)が金ヶ崎の戦いの退き口で殿(しんがり)を務め、浅井朝倉軍の追撃から逃げて京に至る朽木越えの際に、猿飛仁助が率いる3000名の盗賊に襲われようとしていた」とある。既に藤吉郎の軍は戦う気力さえなかった。この時に蜂須賀小六の配下の日比六大夫(日比野六大夫)は猿飛と旧知の仲だった故に猿飛に盗賊をやめて木下藤吉郎(豊臣秀吉)配下に入り一緒に天下を取るように誘った。猿飛仁助はこの説得に納得して木下藤吉郎(豊臣秀吉)の家来となった。それ以来、猿飛一族は太閤秀吉の天下取りの陰の力となり天下を取った。それ以外にも、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事から、「上月佐助こそが猿飛佐助である」との実在説もある。これについては、大坂夏の陣後、徳川家康の命を受けたと思われる服部半蔵宗家が、本拠地の三重県柘植野を徹底的に殲滅・残党狩りをしており、「大坂夏の陣で当時の忍術(≒現在の諜報・特殊部隊)を駆使したことへの報復・恐怖の傍証」とも取れる。また、1719年ごろ成立の『厭蝕太平楽記』には、九度山蟄居の際に伴った身近な家臣としてこの名前が登場する。忍者ものの文学、講談などでは群を抜く知名度を持ったヒーローである。戦後、猿飛佐助をモチーフにしたキャラクターが、多くの小説や漫画などで生み出されている。年代順。ほか多数
出典:wikipedia
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