八郎潟(はちろうがた)は、秋田県にある湖。二級河川馬場目川水系に属する。かつては面積220km²と、日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位であったが、大部分の水域が干拓によって陸地化され、陸地部分が大潟村になった。現在では日本の湖沼において18位の面積である。八郎湖や、八郎潟残存湖といった別名でも呼ばれる。狭義には、南東部の八郎潟調整池のことを指し、現在「八郎潟」のデータとして示されるものの多くはこの「八郎潟調整池」のものである(表にあるデータも八郎潟調節池のもの)。広義には、干拓前の八郎潟の範囲を反映した八郎潟調整池、東部承水路、西部承水路の総称である。2007年12月、この範囲が「八郎湖」として湖沼水質保全特別措置法の指定湖沼となった。秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置し、干拓地の中央付近に北緯40度線と東経140度線の交会点がある。10度単位での交会点はここが日本唯一のものである。狭義の八郎潟である八郎潟調整池は、男鹿市、潟上市、南秋田郡八郎潟町、井川町、五城目町、大潟村にまたがっている。東部承水路と西部承水路は干拓前の湖の外周にあたる部分で、大潟村を囲むようにして存在しており、八郎潟調整池とあわせた広義の八郎潟の湛水面積は48.3km²に達する。南西部の船越水道(馬場目川)が唯一の流出河川である。海との高低差が最大でも1.26mと極めて小さいことから海水が逆流してくるため、もともとは汽水湖であった。しかし大潟村の農業用水として利用するには淡水化の必要があったため、1961年(昭和36年)に完成した八郎潟防潮水門によって船越水道は締め切られ、以降は淡水湖になっている。また、防潮水門完成後の1962年(昭和37年)10月から1964年(昭和39年)3月にかけて、船越水道の排水能力を増すため、直線化工事が行われた。かつての船越水道は天王砂丘に沿って東へ蛇行しており、現在も河跡湖が存在して江川漁港として利用されている。潟上市と男鹿市の市境は現在の船越水道ではなく河跡湖に沿っている。主な流入河川は以下の通り。北側の米代川と南側の雄物川からそれぞれ土砂堆積により砂州が延び、離島であった寒風山に達して複式陸繋島の男鹿半島が形成された。両砂州の間に残った海跡湖が八郎潟である。面積は琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった。戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われ、干拓の先進国であるオランダの技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。工事は1957年(昭和32年)に着工して、1967年(昭和42年)から入植を開始した。全体の事業は1977年(昭和52年)に竣工した。干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年(昭和39年)9月15日に「干拓式」と題する式典を吉武恵市自治大臣、赤城宗徳農林大臣、秋田県知事らを招いて開催したのち、10月1日に秋田県で73番目(当時)の自治体として大潟村が発足した。最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。1983年(昭和58年)5月26日に発生した日本海中部地震で、干拓堤防や防潮水門の破損が生じた。いずれもすぐに修復されたが、防潮水門は機能低下し大きな災害を引き起こすことが予想されたため、旧水門を破棄して新造することになった。2001年度(平成13年度)に着工し、2007年度(平成19年度)に完成した。新水門は旧水門より20m上流に設置されている。干拓前は漁業が盛んに行われていた。また、当時は汽水湖だったため、シジミが多く採れていた。干拓後の漁業は八郎潟調整池での限定的なものとなり、淡水化によってシジミの収量も減少している。冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。八郎潟の名称の由来としては、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説が語り伝えられている。ただし伝説においても、八郎太郎は後に田沢湖へ移り住み、今や八郎潟には滅多に戻らないとされている。また、斎藤隆介が八郎潟の由来について独自の解釈にて描いた児童文学作品『八郎』を執筆し、小学校の国語科の教科書に採用されたことがある。
出典:wikipedia
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