落語立川流(らくご たてかわりゅう)は、東京における落語家の団体の1つである。落語協会分裂騒動は、落語立川流の誕生とは直接には関係しないが、間接的に大きな関わりのある重要なエピソードである。1978年5月9日、落語協会に分裂騒動が勃発した。当時協会が推し進めていた大量真打昇進制度をめぐり、協会会長5代目柳家小さんと、安易な昇進に反対する最高顧問6代目三遊亭圓生が対立、3代目古今亭志ん朝、7代目立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し脱会の動きを見せた。5月24日に設立が公表された新団体落語三遊協会には、圓生一門と志ん朝のほか、7代目橘家圓蔵、圓蔵の弟子の5代目月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)らが参加を表明した。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加することはなかった。翌5月25日、上野鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場の各寄席の席亭会議で、落語三遊協会には寄席への出演を認めないことを決めた。当初、落語協会所属の落語家の半数が三遊協会に移籍すると見られており、三遊協会に好意的な席亭もいたものの、実際に移籍を決めた人数は予想されたものよりも少なく、これでは毎日の公演をまわしていけないとの末廣亭の席亭北村銀太郎の判断がものを言った。この決定により三遊協会からは脱落者が相次ぎ、5月31日には北村の仲介で圓蔵、圓鏡、志ん朝らは協会に復帰し、翌6月1日に正式に落語協会を脱退して落語三遊協会を結成したのは圓生の一門のみであり、しかも圓生の直弟子からも脱落者を出すありさまであった。なお圓生没後、落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生の全面的敗北に終わった。三遊協会所属の落語家は5代目三遊亭圓楽一門を除きいずれも落語協会に復帰した。圓楽一門は新たに大日本落語すみれ会結成。1990年に円楽一門会に改名し現存する。落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入する。なお、この騒動は圓楽と談志が黒幕になって圓生を動かし仕掛けたという説も存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とすことであったとされている。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、表向きには「会長小さんの温情」という形で香盤が下がらなかった。1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵 (現:3代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(現:7代目蝶花楼馬楽)、林家正雀、古今亭八朝、林家らぶ平、立川談四楼、立川小談志(4代目喜久亭寿楽)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四樓と小談志)が不合格となる一方、林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子と共に脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。圓生一門脱会事件の結果、東京の常設寄席席亭は番組編成上、落語協会・落語芸術協会以外の出演は困難であるとした。そのため立川流は、一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、代わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。他方、落語協会ではこの事件により会長小さんの就任以来の懸案であった真打昇進制度改革は事実上の頓挫に追い込まれた。その結果、真打昇進試験は撤廃され、旧来の師匠・会長・席亭の三者合意の制度に戻った。以降、真打昇進制度は一部の抜擢を例外とすれば事実上の年功序列で機械的に運用されている。2011年11月21日の談志の死去に伴い2012年1月には一門で話し合いが持たれ、その結果家元制度を廃止し総領弟子の土橋亭里う馬が新代表となり再スタートした。トップの談志を初め志の輔、談春、志らく、談笑といった売れっ子たちは、自分の独演会を積極的に開くことを主要な活動としている。他の者が出演する場は、立川流の一門会である。いわば彼らの定席である。元顧問立川流設立時、権威付けの意味合いで、談志と親しい、格上ないし惚れ込んだ著名人に名を貸してくれるよう頼んだのが始まり。その名残から名義だけ(森繁久彌ほか)のものもいれば、昇進試験の際の審査も行うもの(野末陳平、吉川潮ほか)まで多様であった。特に元顧問の吉川潮は、談志が全面的に信頼を寄せていたため、談志に対する発言力が大きく(2代目快楽亭ブラックの除名を決めたのは吉川)、事実上の筆頭顧問として立川流の運営に関わっていたが、多くの弟子たちからは疎んじられていたようである。立川流にはA・B・Cの3コースがあったが、現在は廃止。Aコースは落語家、Bコースはビートたけし他の芸能人を中心とする有名人、Cコースは一般人で構成され、それぞれ昇進基準が異なっていた。Aコースの職業落語家には噺のほか、舞踊などの修得が必修とされ、家元の面前での試験により昇進の可否が決定される。B・Cコースの基準はそれに比して緩やかである。Bコース初の真打は、1988年11月昇進の立川藤志楼こと高田文夫であった。Aコースの弟子は、の修得が求められる。2012年6月の新体制発足以後は、前座修行が最低3年必要になった(入門からわずか1年半で、新体制発足直前に二つ目に昇進した談笑門下の立川吉笑のような例が今後なくなる)。家元である談志は昇進の条件として「持ちネタが2席でも、客を爆笑させることができればよい」ともしていたが、その基準をクリアできる弟子はいないのが現状である。2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、一門の前座6名が破門を言い渡された。これにより前座が1名になってしまったため、翌月に立川談吉(現:立川小談志)が立川談一の名で復帰。2003年5月、復帰試験が行われ、立川談修のみが合格。不合格となった立川志加吾と立川談号は2003年8月に雷門小福門下に移籍し、それぞれ雷門獅篭、雷門幸福となった。2004年1月、立川キウイと立川談大(2010年死去)は、一門の新年会席上で再度復帰試験を受ける。判断に窮した談志は立川流真打達に判断を一任。厳しい意見が相次いだが、二つ目ではなくあくまでも前座としての復帰という条件を談志が提示、談志の意を汲んだ談四楼、志の輔らの音頭によって、ようやく一門復帰を許された。香盤順Bコースメンバー整理の際に除名された主な人物。(立川平林はCコースからの入門)かつて入門者には、家元への上納金の納付が義務付けられていた。家元が亡くなり理事会制度となったため、現在は廃止されている。※2001年6月より2000年8月、滞納者が多数いる事が発覚した。談志は滞納者に破門を申し付けたが、滞納分の同額から3倍の支払いを条件に復帰を承認する。支払い不能であった立川談々・國志館・志っ平は、そのまま破門。國志館は圓楽門下に移り三遊亭安楽、後に全楽を名乗り、志っ平は10代目桂文治門下に移籍し前助、文治没後柳家蝠丸門下となって二つ目に昇進、柳家小蝠となった。
出典:wikipedia
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