にしゃんた(1969年7月18日 - )は、社会学者、タレント、羽衣国際大学現代社会学部教授。学位は博士(経済学)。専門は、スリランカ全般。アジア、多様性の活用による人づくり・組織づくり・社会づくり。講演家、落語家としても活動、京都府名誉友好大使、特定非営利活動法人多民族共生人権教育センター理事も務めている。セイロン(現スリランカ)キャンディで生まれる。本名はジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ(Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha)。夜に生まれたこととの関連で、「にしゃんた」とは自身の母語のシンハラ語で「静夜(英語で言うSilent night)」を意味する。親日家で、2005年に日本国籍を取得した。平仮名で「にしゃんた」と自称する。もっとも大切にしている言葉が、セレンディピティ(英語:serendipity)である。「予期せぬ素敵な発見・出会い」の意味で使われる。「多様性を語る人」を意味する「ダイバーシティー・スピーカー」を名乗り、あらゆる違いや変化を楽しみ、学び、力にする利点や喜び、また多様性の包括•社会参画 (Inclusion & social participation of Diversity) の必要性についてを語る。「民際」、「全員力」、「包み込む社会」や「共笑」などの言葉を用いる。あわせて外国出身者としての視点から見た多くの日本の魅力を紹介している。多様性(多文化共生、ダイバーシティー)を自身の生涯のテーマとして位置づけ、訴えることになった最も大きな理由は、多様性を軽視された結果として引き起こされた母国のスリランカ内戦である。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若人を死なせた辛い経験を有する。多才である。読売新聞にて「七つの顔の男」として紹介された。七つの顔とはスリランカ人, タレント,大学教授,落語家,空手家,子育て父と新聞奨学生である。バラエティーをこなす顔も持ち合せている。2008年に、近未来(2050年代)の日本(京都)の国際化を題材にした映画『地球のヘソ』で主演俳優デビューし、同年にワッハ上方の「落とし頃なお年頃 芸能界落語部」で高座デビューした。翌年(2009年)には社会人落語初代日本一決定戦で全国362名の中から準優勝を果たす。大会審査委員長であった、桂三枝(現・桂文枝)に「あのマクラにはかてまへんな」と言わしめた。また、三枝が、自身のブログ上でも「社会人落語日本一は、あやうくスリランカ人が日本一になりそうでした。残念ながらよく受けたのですが持ち時間をオーバーして、減点となりました。なかなかよくやるスリランカ人で落語も外国人に脅かされてきました。」と紹介している。この大会は本人が全国ネットのテレビに露出する大きなきっかけにもなった。また、上方落語にとどまらず、三遊亭好楽にも認められ、教えを受けている。母国を離れて世界で活躍している人物をドキュメントするNHKの国際放送NHKワールドの番組『A is AsiA』の第1回目の放送(2009年)で落語家としての活躍を紹介される。社会人落語初代日本一決定戦をきっかけに自身の志を表現する手段としても落語に力を入れはじめ、社会人落語家として本格的に全国行脚する。それまで行っていた講演活動に落語を組み合わせたり、「スタンドアップ落語」という新スタイルにも挑戦している。講演会の講師として人気があり、年間(2009年の時点で)100超える講演を行っている。学問的な背景に支えられた見聞を解りやすく、身近な事例を取り上げて楽しく語りかける。口調は落語調で、数分に一回笑わせる巧みな話術と愛嬌でみなさんのこころを掴み、最後に全員をファンになると評される。茶目っ気たっぷりの明るいキャラクター。関西を中心に人気に火がつき、全国へ広がった。ボーイスカウトの一員として、高校時代の1987年に初来日(その時に大津市坂本にホームステイ)。それがきっかけで、父親が家を担保にして作った7万円と片道切符を手に日本へ留学。「日本へ行って幸せになろう」と思って、再来日。当初は、坂本から京阪京津線で三条のYMCAに通った。当時は、雄琴で布団敷きのアルバイトをしていた。来日(日本語勉学開始)1年で、非漢字圏出身者としては異例の日本語能力試験一級に合格。経済学や経営学を学びたいという思いと、武道にも強く興味を持ち、文武両道の学生生活を送る。立命館大学には4年間、嵐山で新聞奨学生をしながら通い、同学年に800人以上いた経営学部を学部総代で卒業した。外国人での初めての読売新聞奨学生だった。卒業式では、和服姿で臨み、壇上で宙返りのパフォーマンスを演じ、大南正瑛総長が大きな拍手する等会場を沸かせ、そのタレントぶりを発揮している。また、大学在学中は、外国人弁論大会ですべて優勝したため「スピコン荒らし」のあだ名がつく。在学中に荒賀道場に通い全国空手道連盟公認四段と指導員の資格を取得。出世払いで月謝は払っていない。大学時代に出来た貯金は300万円。大学卒業後は大学院に進み名城大学で修士(商学)、龍谷大学で修士(経済学)、2003年に博士(経済学)を取得。龍谷大学の中村尚司(地域自立経済学)、鶴見良行(民際学)、田中宏(在日外国人論)やスリランカ・コロンボ大学学長のW.D.ラクシュマン(スリランカ経済)に師事した。南アジア研究の第一人者の中村尚司を指導教授として頼った理由は、にしゃんたが17歳でスリランカを離れているため母国のことがあまりにも解らないことに気づいたためである。大学院在学中(2001年)に、在日少数言語を対象に多言語で情報を発信する携帯電話ポータルサイト「@nippon」運営を目的に株式会社グローバルコンテンツを立ち上げ、初代の代表取締役になる。博士(経済学)を取得した後、大学教員として、「国際経済論」「アジア経済」などをの科目を担当し、日本で学んでスリランカに持って帰るはずの経済学を日本の次世代に教える。7年間の山口県立大学准教授を経て、2010年より羽衣国際大学で准教授、後に教授となる。大学教員に至った背景には、大学時代の二つの経験が関係している。一つは、ラグビーの試合で怪我をし、医師の誤診により治療が数年遅れ、足に障害が残ったこと。走るなどの運動が不自由となり、身体を活かした仕事は選択肢から消えていること。そして、もう一つは、卒業時に日本の国際機関での就職を希望するも、国籍条項を理由に断られたこと。よって、大学卒業後は大学院に進むが、好きになった日本に残るための、消去法による決意だった。「経済学博士になり、大学教員になった自分を羨む人はいるが、途中の過程を考えたらむしろ哀れな人です。私は、日本にはまだ多様性の受容に対し閉鎖的な部分も残っており、改善の余地もあるということを露呈している皮肉な素材でもあると同時に、日本は外国出身者でも夢を実現できる素晴らしい国であることを証明している材料でもあります」。また「長い日本滞在は入国管理局の制度は窮屈だったが、今になって思うと入管は日本での特に学生時代の親代わりをしてくれてたような気もします。理不尽なところもある、頑固で厳しい親でしたが、今のような人間に自分を育てくれたかと思うと感謝したいと思う」と講演で語っている。39歳で日本人と結婚しているが、当初妻の両親からは3つの理由で反対された。1.肌色が褐色の孫は(日本の社会で虐められるから)困る、2.母国を捨てた人間は(結婚以前に日本国籍を取得していたため)妻や子をも捨てる可能性があるから信用できない、3.仏教徒かつ長男であるのに実家の墓を守っていないことがだらしがない。後に結婚が許される際に妻の母から手渡された手紙をお守りにしている。仏前で結婚式を挙げており、かかった費用は3000円。大学教員の傍ら、テレビ・ラジオ出演、執筆活動を行う。また、ダイバーシティ(多文化共生)、生涯学習、町づくり、男女共同参画社会、子育てや人権などのあらゆる分野において講演活動を精力的に行なう。難しいこともいかに楽しく笑いを通して伝えられるかをモットーにしている。専門的内容も、人生の前半は親日国のスリランカで、後半が日本の都会と地方の両方で生活して肌で感じたことなどをもユーモアたっぷりに京言葉・関西弁交じりの日本語で語る。社会活動として、京都府赤十字血液センターの一日所長を務めたことがあり、献血ルームにて「にしゃんた献血落語会」を開催している。ライフワークとして「民際交流」、「共生社会づくり」や「日本再発見」などをキーワードとした活動を行っている。ほか
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