松永 長頼/内藤 宗勝(まつなが ながより/ないとう そうしょう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。丹波国船井郡八木城主。父母は不明で松永久秀の弟。通称は甚介、官位は備前守。後に内藤宗勝と改名。蓬雲軒とも号した。妻は内藤国貞の娘。子に忠俊(如安)、ジュリア。兄の久秀と共に三好氏の家臣となり、兄を補佐した。謀略を駆使して活躍した兄に対して、武勇に優れて誠実で、主君の三好長慶から信頼された。三好家中での出世は兄より早く、久秀は弟の七光りで三好家中の地位を高めたともいわれる。天文18年(1549年)に長慶が上洛すると、当時「甚助」と名乗っていた長頼は細川晴元・13代将軍足利義輝など幕府側からの京都防衛を任され、公家衆の所領を知行として受け取る一方で、山城国山科七郷などを十河一存とともに横領している(言継卿記)。天文19年(1550年)11月と翌20年(1551年)2月に義輝の後ろ盾である近江の六角定頼を攻撃して義輝が籠もる中尾城を脅かし(中尾城の戦い)、7月14日に晴元の家臣香西元成・三好政勝らが丹波衆を率いて京都相国寺に陣取ると、兄と共にその丹波衆を撃破した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)9月にも兄と共同で丹波国へ遠征して晴元方の波多野晴通の八上城(多紀郡)を包囲したが、香西元成・三好政勝が内藤氏の八木城を攻め、長慶方の丹波守護代内藤国貞を討ち取ったため、急遽引き返して八木城を奪還した(両細川記)。この時、湯浅宗貞が千勝(内藤貞勝)を園部城に匿い長頼が来るまで持ちこたえている。長頼は長慶から丹波方面を任され、国貞の娘を娶ったが内藤家の跡目は千勝に継承され、長頼はその後見人であったと考えられる(湯浅文書)。しかし、弘治2年(1556年)頃に「内藤蓬雲軒宗勝」(備前守)と号しており、内藤氏を掌握したと考えられる。弘治3年(1557年)には長慶が丹波に出陣、波多野晴通を降伏させたため氷上郡を除く丹波を平定し、永禄2年(1559年)までには単独で裁決を下すようになっており、丹波は長頼の半独立した領国とまで言われるほどまでになっていた。さらに隣国の若狭にも出兵し、守護の武田義統に反抗する逸見昌経の後ろ盾にもなっている。以後も長慶の下で軍事行動を続け、永禄元年(1558年)5月、義輝・晴元らが近江から上洛を企てると兄と共に将軍山城・如意ヶ嶽で幕府軍と交戦(北白川の戦い)、永禄2年(1559年)と翌3年(1560年)の河内遠征にも従軍、永禄5年(1562年)の畠山高政との戦い(教興寺の戦い)にも丹波国衆を率いて出陣しており、三好政権下の有力な軍団長であったといえる。しかし丹波国人の反抗は止まず、永禄4年(1561年)6月の若狭出兵で、越前国の朝倉義景の援軍を得た武田義統との戦いに敗れ、波多野氏や赤井氏などの国人衆の蜂起を招き、永禄8年(1565年)、足利義輝が殺された永禄の変の2か月後の8月2日、丹波国人荻野直正の居城である黒井城(氷上郡)を攻撃中に戦死した。宗勝死後の丹波では波多野秀治・荻野直正らが台頭し、同地における三好氏の勢力は大きく後退した。内藤家の家督は子の内藤如安が継いだ。儒学者の清原宣賢と交流があり、彼から与えられた貞永式目が陽明文庫に保存されている。
出典:wikipedia
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