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伊東勤

伊東 勤(いとう つとむ、1962年8月29日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(捕手)・監督、野球解説者。現役時代は捕手として歴代3位となる2327試合に出場。西武ライオンズ黄金時代の司令塔として活躍した。引退後は2004年から2007年まで西武監督を務め、2011年まではNHK野球解説者、サンケイスポーツ評論家。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表総合コーチ。2012年は斗山ベアーズコーチ。2013年より千葉ロッテマリーンズ監督に就任。熊本工業高校定時制課程に在籍。当初は外野手だったが、同学年の藤村寿成(九州学院)の足を封じるために捕手に転向した。この藤村寿成の次男藤村大介は熊本工の後輩にあたる。1980年、全国高等学校野球選手権熊本大会決勝で秋山幸二をエースに擁した八代高校を破り第62回全国高等学校野球選手権大会に出場。当時西武の監督を務めていた根本陸夫にその才能を見出され、1981年に熊本工から埼玉県の埼玉県立所沢高等学校(定時制)へ転校。同時に西武球団職員として採用された。昼間は職員としての社務の傍ら練習生として活動し、夜は高校通学という生活を送った。これは根本が他球団に伊東を奪われまいとするための「囲い込み」であったと伝えられる。1982年、ドラフト1位で正式に西武に入団。監督の広岡達朗とヘッドコーチの森祇晶の厳しい教育を受けて1年目の1982年は33試合、2年目の1983年には56試合出場と経験を積み、1985年より正捕手となる。当初は一部の主力投手がバックネット裏のスコアラーと投球のサインのやりとりをし、伊東の出すサイン通りに投げてもらえない状態であったが、抜群の守備力で信頼を掴み、以後長きにわたり西武のホームベースを死守し続けた。1992年の日本シリーズでは、野村克也の教え子古田敦也と、森祇晶の教え子伊東の対決となったが、。20年近くに渡り正捕手の座に君臨し、他球団で正捕手を務めた大宮龍男、中尾孝義、植田幸弘、中嶋聡らや、アマチュア野球で活躍した仲田秀司、垣内哲也、高木大成、和田一浩、貝塚政秀らに競り勝った。打撃に関しては低打率のシーズンが多いながらも勝負強いバッティングをみせる打者であり、通算1738安打、156本塁打を記録している。通算犠打305はパ・リーグ歴代1位、また捕手にしては珍しく俊足で、捕手としての日本記録である通算134盗塁をマークしている(1984年に記録した年間20盗塁はパ・リーグの捕手としては最多記録である)1994年の対近鉄開幕戦で、3点のビハインドからの逆転サヨナラ満塁本塁打で1000本安打を達成。当時プロ野球を代表するストッパーだった赤堀元之から放った劇的な一打である。この試合をテレビ朝日が中継していたが、ちょうど伊東がこの一打を放った瞬間に放送時間終了で打ち切られてしまい、視聴者からは抗議の電話が殺到したという。2001年オフ、フロントより監督要請を受けるも「(選手兼任監督だと)両方中途半端になる」として固辞する。しかしコーチ兼任は受諾し、2002年は総合コーチ兼捕手として現役を続行。2003年限りで現役を引退した。実働22年のうち14度のリーグ優勝、8度の日本一を経験。選手として日本シリーズでセ・リーグ全6球団と対戦した(現時点ではまだ伊東しかいない)。そのうち、阪神(1985年)と横浜(1998年)を除く4球団から日本一を勝ち取っている。捕手としての通算出場試合数2327は、歴代3位。ベストナイン受賞は10回、ゴールデングラブ賞受賞は11回。1996年9月7日から1998年5月27日にかけては、捕手としてプロ野球記録となる1263守備機会連続無失策を記録している。2004年より西武監督に就任。伊東本人の引退、松井稼頭央のメジャー移籍、アレックス・カブレラの死球による長期離脱などで苦戦が予想されたが、伊東の穴を細川亨が、松井の穴を中島裕之が、カブレラの穴をロッテから移籍したホセ・フェルナンデスが埋めたことにより、チームはレギュラーシーズン2位からプレーオフ、日本シリーズを勝ち進み、2年ぶりのリーグ優勝、12年ぶりの日本一を達成。現役引退後即監督となったのは6人(藤田宗一、稲尾和久、長嶋茂雄、広瀬叔功、有藤道世、高橋由伸)いるが、いずれも成績は5位(藤田、有藤)か最下位(稲尾、長嶋、広瀬)しかなく、このジンクスを破っての快挙だった。この年の中日との日本シリーズは「レオ流」対落合の「オレ流」決戦と言われた。2006年7月19日、ソフトバンク戦(ヤフードーム)でクロスプレーの判定を巡り審判に暴力を振るったとして、選手時代・監督時代通じて初の退場処分を受けた。同年は日本ハムと1ゲーム差の2位。プレーオフでは、3位ソフトバンクの前に1勝2敗と敗れた。2007年は怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫するなど低迷。西武は26年ぶりのBクラスに陥落し、結局5位でシーズンを終えた。このため成績不振の責任を取り監督を辞任した。本人曰く実際は「解任」だったとのことで、西武の監督として最後の試合となった同年10月5日のソフトバンク戦では(敵地での試合ということもあるが)球団から花束一つ用意されていなかったため、結局自分で花束を買い、ソフトバンクの王貞治監督(当時)に頼み込んで花束を渡してもらうセレモニーを自作自演したという。監督としては、当時不動のレギュラーといえる選手が少なかったこともあり、捕手と投手の相性やプラトーン・システムにこだわった。例としては、涌井 - 銀仁朗の10代バッテリーや、松坂 - 細川のバッテリー等。右投手時のスタメンは石井義人、福地寿樹、栗山巧、ジェフリー・リーファー。左投手時のスタメンは中村剛也、佐藤友亮、平尾博嗣、江藤智等。2007年オフ、2007年の日本シリーズでNHK衛星第1テレビジョンのゲスト解説として解説者デビュー。2008年からはNHKなどでプロ野球・メジャーリーグの野球解説者。また同年から4年間週刊ベースボールで公式戦中に「プロフェッショナル配球考」を連載していた。2009年からはサンケイスポーツの評論家も務める。2008年11月15日、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表総合コーチに就任した。2010年から2年間「ジョージア魂」賞の選考委員を務めた。2011年、春季キャンプで韓国プロ野球・LGツインズの臨時コーチを務め、翌2012年、斗山ベアーズヘッドコーチに就任した。5月22日よりヘッドコーチと1軍打撃コーチの兼任となったが、6月に打撃コーチの職は解かれた。同年10月中旬、シーズン終了をもって退任した。なお、2012年1月から10月までの約9か月間に及ぶ斗山での指導者生活は、2012年12月2日、NHK衛星放送にて「伊東勤 韓国プロ野球に挑む」というタイトルのスポーツドキュメンタリー番組として放送された。2012年10月17日、千葉ロッテマリーンズ新監督就任が基本合意に達した。10月18日午前に就任記者会見を行い、「日本一を勝ち取れるチームを作る。派手さは不要、守り勝つ野球をやりたい」と意気込みを語った。背番号は西武監督、斗山コーチ在任時と同じ83。2014年、7月26日の対西武13回戦の試合で、西武が攻撃中の六回一死三塁で、打者・秋山翔吾が1-2からの4球目を空振りしたように見えたが、球審・原信一朗の判定はファウル。この判定に猛抗議し、原へ暴言を吐いたとして自身通算2度目の退場処分を受けた。監督代行は打撃コーチの立花義家が務めた。既婚で妻との間には1993年2月生まれの男児と女児の双子がいることを公表している。西武の監督時代には、文化放送ライオンズナイターのジングルに双子ともに声の出演していた。なお、2月はキャンプ中であるが故に、子供の誕生日を家族で祝うことができなかったという。大の競輪好きで、監督として日本一を果たした2004年には中野浩一のラジオ番組「中野浩一のフリートーク」にもゲスト出演しており、ライオンズの選手にも競輪好きの輪が広がっているというエピソードを話した。KEIRINグランプリは毎年欠かさず現地観戦しているという。西武監督を辞任して野球評論家として活動していた時には関東地区をはじめとする各地の競輪場でトークショーや予想会、テレビ中継のゲストとして招かれたり、競輪関係のイベントのゲストとして参加したりすることも多かった。そうしたこともあり、野球評論家時代には経済産業省主管の産業構造審議会車両競技分科会委員を委嘱されて車両競技(競輪及びオートレース)活性化小委員会委員を務めていたこともあった。酒は一滴も飲まない。※1 対戦相手にアドバンテージ1勝含む※練習生時代は76番だったが、公式サイトのメンバー表や当時の選手名鑑などには記載されず、練習風景などを収めた当時の報道写真や、『まんがスポーツ』(芳文社)に掲載された『伊東勤物語』の作画などで確認できるのみである。

出典:wikipedia

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