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姉小路氏

姉小路氏(あねこうじし/あねがこうじし)は飛騨の戦国大名となった氏族。元は宇多源氏系の三木氏(みきし/みつきし)である。三木氏は宇多源氏の佐々木氏の庶流である多賀則綱を祖とするといわれ彼は同族である飛騨守護・京極氏の家臣として飛騨に移り、益田郡の竹原(現在の下呂市)に定着した。室町時代には益田郡の桜洞城(現在の下呂市)を拠点として飛騨南部を支配するようになる。戦国時代に入って京極氏の支配が緩むと、三木氏は次第に力を付け始めて三木直頼のときに飛騨を支配する戦国大名にまで成長した。そして直頼の子・三木良頼のときに飛騨国司だった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取り、その名跡を継承した。朝廷では三木氏の姉小路家継承を認めるか否かで紛糾したが、良頼の政治工作が実を結んで認められることになり、永禄元年(1558年)に飛騨守に叙任している。そして翌永禄2年には姉小路姓を正式に称した。飛騨は領域を接する信濃国北部の川中島四郡において甲斐国の武田信玄と越後国の上杉謙信が川中島の戦いを繰り広げており、また飛騨の南部には尾張国の織田信長が美濃へ本拠を移し、領域を接していた。姉小路氏をはじめ飛騨国衆は特に武田氏・上杉氏の争いと相関し、三木嗣頼・自綱は江馬輝盛とともに上杉方に属するが、永禄7年(1564年)には三木氏・江馬輝盛と敵対する江馬時盛が武田方に属し、同年6月には武田氏の出兵を受け三木氏・江馬輝盛は降伏する。元亀4年/天正元年4月に武田信玄が死後、姉小路氏は信長に従ったため、国内は親上杉派と親織田派の抗争となり、これが姉小路氏の勢力を削ぐ結果となった。天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡する。同年6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、姉小路頼綱は織田家臣・佐々成政に協力して羽柴秀吉と敵対したため、天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた金森長近に攻められて降伏、ここに国衆としての姉小路氏は滅亡することになったのである。子孫は三木姓に復し、旗本として徳川氏に仕えている。一門姉小路家(飛騨国司家)塩屋氏江馬氏内ヶ島氏広瀬氏木曾氏

出典:wikipedia

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