佐伯 千仭(さえき ちひろ、男性、1907年12月11日 - 2006年9月1日)は、熊本県出身の日本の刑法・刑事訴訟法学者。法学博士(京都大学、学位論文「刑法に於ける期待可能性の思想」)。弁護士。元京都帝国大学教授、立命館大学名誉教授。近代派であり主観的違法論を採用する宮本英脩京都帝国大学教授に師事したが、師と異なり古典派のうち、客観的違法論を支持し前期旧派の立場に立つ。佐伯による客観的違法論の展開により、我が国の刑法学において現在通説となっている客観的違法論が確立されたと評価されている。刑法学における業績で著名であるが刑事訴訟法に関する著述・論文も極めて多く、特に大学教授と弁護士を兼任して以降では証拠法や秘密交通権に関する論文が有名であり、佐伯の還暦記念論文集『犯罪と刑罰 下巻』は刑事訴訟法に関する論文が主たるものになっている。日本における陪審制度の研究のほか、熱心な死刑廃止論者としても知られている。死刑廃止の思想的背景として師の宮本の強い影響がある。滝川事件の復帰組教授の一人であった。また「極東国際軍事裁判」をはじめ、松川事件、東京中郵郵便法違反事件、東京都教組地公法違反事件など戦後史に残る事件に関わる一方で、日本学術会議会員、法制審議会委員など学会・法案立案の要職を歴任した。昭和38年から46年まで務めた法制審議会では常に少数派として意見を提出する重要な役割であった、と当時日弁連副会長であった中坊公平は述懐している。。特に改正刑法草案はその国家主義的性格から平野龍一東京大学教授を筆頭に学会・日弁連などから強く批判されたが、当時の学生運動によって研究者は法制審議会に参加することが困難になり佐伯以外の全ての学者が法制審議会から去る状況の中、佐伯はただ一人改正刑法草案の要綱案に反対する立場にあった。学生時代は宮本の近代派に立脚する刑法理論を疑うことは知らなかったが、助手として宮本に指導されている時に、宮本の指示でヴィルヘルム・ヴィンデルバントの「規範と自然法則」という論文を読み、主観主義違法論に疑問を感じるようになった。そしてメツガーの「評価は命令に先行する」という命題のもと、ドイツの違法論を民法に応用した末川博の『権利侵害論』を読み客観的違法論を支持することを決意した。佐伯以前の客観的違法論は自然発生的なものであり、自覚的に展開されたものではなかったが、佐伯は前述の末川の違法論の影響のもと、法規範には評価規範と命令規範との2つの機能があり、前者が違法に、後者が責任と結びつき、違法と責任の区別を論証し、自覚的に客観的違法論を展開した。佐伯の考えでは、違法は評価規範違反であるから、違法の内容となる結果、すなわち法益侵害が違法の構成要素となる。そして佐伯は違法の実質を法益の侵害または脅威であると位置づけ、義務違反や人的不法を違法の実質と見る行為無価値論は結果無価値論の先取りでしかないと批判した。この佐伯の批判を受け、平野龍一は法益の保護こそが刑法の任務とする立場に立ち、現在の結果無価値論の多くに影響を与えている師である宮本は被害が軽微な場合にはその行為の可違性が問題になることに着目した。宮本は違法性と可罰性を分離して論じていたのに対し、佐伯はこれらを違法性の中に融合し、可罰的違法性論の概念を提唱した。その上で、構成要件は単なる記述的な行為類型ではなく、可罰的な違法行為の類型であると主張した。このような佐伯の構成要件の捉え方は現在も山口厚や松宮孝明などに支持され、有力な地位を保っている。行為者に適法行為が期待できないときには、行為者は刑事責任を問わないという期待可能性の理論を日本において通説化したことでも有名である。佐伯は、従来有力に唱えられていた違法行為を意思により行ったことが責任批判の対象となる心理的責任論に対し、責任とは単なる心理的な事実ではなく、それを基礎として行為者に適法行為を期待できるかどうかという規範的判断に責任の基礎を置く規範的責任論の立場に立ち、期待可能性の理論を展開した。規範的責任論は、佐伯の他に木村亀二の紹介により我が国では展開され、現在では規範的責任論が通説となっている。教唆・幇助という協議の共犯を、正犯に当たらない者にも処罰範囲を拡張したものと捉える立場(拡張的正犯論)と、それらは本来的に正犯の一種であり、法律が特別にその処罰範囲を縮小したものと捉える立場(減縮的正犯論)があるが、佐伯は前者は極端従属性説を採っていた当時のドイツにあって、共犯が成立しない不都合を救済するために間接正犯の成立範囲を広くするために唱えられたものであり、現在では体系的に採用することができない考えであると評価し、後者の説を採る。佐伯は、要素従属性を緩和することにより、間接正犯とされる犯罪を教唆犯に解消していくべきとする。佐伯の展開した客観的違法論は現在の結果無価値論の基礎と位置づけられる。また佐伯の可罰的違法性の理論や期待可能性の理論は藤木英雄に高く評価された。藤木は、佐伯の可罰的違法性の理論はドイツ刑法学に範をとったものではなく、我が国の実務にながく行われてきた直感的な事件処理の慣行を理論化したものと評価する。そして藤木は佐伯の還暦記念論文集に『可罰的違法性の理論の訴訟法的課題』という論文を献呈し、佐伯説の深化・批判的発展を試みた。他にも宮沢浩一は「私の刑法への関心は佐伯教授の「刑法における期待可能性の理論」によって喚起され、決定づけられた」と述べる)。佐伯の拡張的共犯論は関西の刑法学者を中心に支持を集めるが、通説となるには至っていない。ただし、反対説の立場からも、佐伯の考えは、通説は間接正犯を広く認め、かつ利用行為を実行の着手とすると未遂犯の処罰時期が早くなりすぎることになり、実質的に共犯独立性説を採るのと同じことになることを考慮したものと評価される。滝川事件当時京大法学部助教授だった佐伯は、文部省による瀧川幸辰の休職処分に抗議して辞職、立命館大学法学部の教授に転じた。しかし、残留した法学部教官の説得に応じ、翌1934年、京大に復帰して助教授に再任されている。佐伯ら「復帰組」教官は世論の厳しい批判を受け、佐伯もまた「立命に対しては本当に申し訳ないことになってしまった」と後日述懐している。彼らの復帰は「滝川ら辞任組が復帰できる状況になった時にくさびになるような人間がいなければ困る」という「残留組」教官の言い分に抗し得なかったからだとされる。また当時この件について久野収(滝川の免官処分に反対し学問の自由と大学自治を擁護する運動を進めていた)から非難された佐伯は、「敗北して帰るのだからどんな批判も甘受する」と答えている。その後1941年教授に昇任した佐伯は、第二次世界大戦終結とともに黒田覚(法学部長)ら他の復帰組教官とともに滝川の復帰工作を開始し実現させた。この際、佐伯は鳥養利三郎京大総長とともに、「大学自治を滝川事件以前の状態に復帰する」旨の総長・文部省の合意文書草案を作成している。しかし京大法学部再建のため全権を委任されて復帰した滝川を委員とする法学部の教員適格審査委員会は、戦争中の佐伯の著作の国家主義的内容を問題にして佐伯を教職不適格とした(これと前後して他の復帰組教官も京大を去っている)。これら一連の事態の背景には復帰組に対する滝川の個人的感情があったという見方もある。特に滝川の教え子である平場安治は「追放を行ったのは、実質上瀧川幸辰法学部長その人によってであった」と明言している。不適格処分に対して、佐伯は京都大学新聞社発行の「学園新聞」1946年11月11日号に「刑法に於ける私の立場-追放の判定を駁す-」と題する反駁文を発表している。このような京大との軋轢から二度と京大には足を踏み入れるものかと決めていたが、京大での同僚であった中田淳一に「東大に学位請求されたら京大は格好がつかない」と説得され、京都大学から博士号を受けた。京都大学追放の20年後の1967年から、佐伯はかつての教え子の一人である宮内裕の留学及び客死により京都大学大学院法学研究科の刑法講座講師を担当した。国家主義的な著述を問題視されて京大を去った佐伯であったが、戦前・戦中は大半の学者が、主観主義と親和性の高いナチス刑法学への共感、そして社会的圧力によって批判を控えるなか、佐伯はその批判を止めることがなかった。『刑法におけるキール学派』ではナチスに親和的なキール学派を批判したが、これに対して他の学者からナチスに理解をもてと批判された、と述懐している。編著共編著
出典:wikipedia
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