藪 恵壹(やぶ けいいち、本名:藪 恵一(読み同じ)、1968年9月28日 - )は、元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。三重県南牟婁郡御浜町出身。1994年の登録名は藪 恵市(読み同じ)。愛称は「恵ちゃん」。小学校時代、野球の試合中に右腕を故障したが、病院にも行かずプレーした。治癒したが、その影響で雨が降ると痛みが出るのか、雨の日の登板では実力を出せないことが目立った。高校時代は、同じ県内に杉浦正則がいたこともあり、注目されなかった。一年間の浪人生活を経て、一般入試で東京経済大学に進学、首都大学リーグでプレーした。卒業後は朝日生命硬式野球部でプレー。在職時は営業としても勤務し、成績は全社の中でトップクラスだったという。のドラフト1位で阪神タイガースに入団。背番号はエースナンバー「18」を与えられる。このとき姓名判断で登録名を「恵市」とした。初の東京経済大学出身のプロ野球選手である。に9勝9敗で、新人王を獲得。ファン投票でオールスターゲームにも出場した。、7勝13敗に終わり、リーグ最多敗戦を記録。、初の開幕投手を務め先発登板はリーグ最多の30試合。初の2桁勝利も記録したが、被安打がリーグ最多を記録し敗戦数も同僚の湯舟敏郎と共に2年連続で最多敗戦投手となった。、2年連続2桁勝利を記録。、2年ぶりに開幕投手にとなり、チームは最下位に終わったが自身はシーズン自己最多タイ、3年連続2桁勝利の11勝を挙げこの年プロ入り初めて自身の勝敗で勝利数が上回った。、6勝に終わり、自身ワースト記録の16敗となり3度目のリーグ最多敗戦を記録。、入団1年目から7年連続で規定投球回に到達したが、6年連続2桁敗戦を記録し2年連続6勝に終わる。、右肩のケガシーズンの大半を棒に振り未勝利に終わる。、背番号4に変更、規定投球回はわずかに届かなかったもののシーズン10勝及びプロ入りして初めて1つ以上の貯金を挙げた。、8勝3敗を記録したが、同年の日本シリーズでは未登板。は6勝9敗の成績で規定投球回には届かなかったが2年ぶりに100投球回をクリアした。同年FA資格を取得。オフ、メジャー挑戦を理由にFA宣言。1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。アスレチックスでの背番号は、自身が野球を始めて最初に貰った「13」。メジャー1年目で4勝を挙げたが、同年オフにチームがオプションを行使しなかったため自由契約となる。はコロラド・ロッキーズと契約したが、同年3月31日付で退団しフリーエージェントとなった。同年6月29日にマイナーリーグAAA級に相当するメキシカンリーグのティファナ・ポトロスと契約した。は、どこの球団にも所属せず、トレーニングに費やした。この年は練習相手もいないのでネットや壁にボールを投げて投球練習をすることもあったという。アマチュア時代はあまり設備など野球環境が恵まれていなかったが、さすがに練習相手がいないのは堪えたという。そのため2008年は、もしメジャーに上がれなくても喜んでマイナーでプレーすることを決めていた。、メジャー昇格を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングトレーニングから、トレーニングに励みオープン戦に登板していた。キャンプ・オープン戦での背番号は「72」。同年3月30日に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は「22」。4月14日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した(ジャイアンツで日本人が勝ち投手となるのは9月30日の村上雅則以来)。39歳と199日での白星は、当時の日本人メジャーリーガーの最年長記録となった(後に塗り替えられた。2014年現在の記録は、斎藤隆の41歳183日)。また同年の5月30日の対サンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った。はメジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。そしてメジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受けるも、翌21日に傘下のAAA級フレズノと再契約を結んだ。しかし、7月11日に解雇された。7月26日に千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けたが、獲得は見送られた。7月29日・30日に東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、7月31日に楽天が獲得を発表した。背番号は「64」。8月10日の西武戦の7回に日本復帰後初登板を果たしたが、4失点と打ち込まれてしまい1アウトを取っただけで降板した。その後も中継ぎ投手として11試合に登板したが、防御率4.91と振るわず、シーズン終了後戦力外通告を受けた。楽天からの戦力外通告後に、古巣である阪神から、投手コーチへの就任を打診された。現役続行を希望していた藪は、しばらく回答を保留したが、2010年12月17日にコーチ契約を正式に締結。この契約を機に現役を引退するとともに、岡田彰布の一軍監督退任(2008年)以降空いていた背番号80を、コーチとして着用するようになった。には一軍投手コーチを務めたが、一軍はシーズン5位に低迷した。には二軍投手コーチへ復帰したが、球団からの契約解除通告(10月5日)を機に退団した。退団直後からは、神戸市東灘区のスポーツクラブ「Japan Athlete Club STAY COOL」の講師に就任。会員の小・中学生に対して、褒めて伸ばすことをテーマに野球を指導している。からは毎日放送(MBSラジオ)・GAORAの野球解説者に転身。からは、読売テレビの阪神戦中継にゲスト解説者として出演するほか、J SPORTSのメジャーリーグ中継の解説も務めている。野球解説者としてのレギュラー番組のみ記載。上記の番組以外にも、『朝生ワイド す・またん!』(読売テレビ)などへ不定期で登場している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。