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タマモクロス

タマモクロス()とは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。天皇賞(春・秋)、宝塚記念のGI競走などに優勝した。同じ芦毛馬であるオグリキャップとの芦毛頂上対決に多くの競馬ファンが沸いた。引退後は種牡馬となった。現役時の主戦騎手は南井克巳。半妹にエリザベス女王杯を優勝したミヤマポピーがいる。父・シービークロスが「白い稲妻」というニックネームで親しまれていたため、「稲妻2世」や「白い稲妻」とも呼ばれた。※馬齢は当時の表記(数え年)にて記載タマモクロスの生産者であった錦野昌章は同馬を高く評価していたが、父シービークロスに対する世間の評価は低く、タマモクロス自身の線の細い外見もあいまって、下された評価額は500万円という安値であった。錦野はその低評価額で売ることを拒んだが、当時経営が逼迫していた同牧場の窮状をさらに強めることとなる。その後、タマモクロスの大成を見ずして、牧場は倒産した。錦野はその後もあちこちを転々としながらも、タマモクロスを応援していた。しかし決して表に出ることはなかったという。そのためタマモクロス優勝時、表彰台の「生産者」の上には常に誰もいなかった。3月1日に阪神競馬場での新馬戦で南井克巳騎乗でデビューするも7着といいところがなかった。「ダートのレースのほうがゆったりとした流れが多いからよいのでは」と判断されたため、3戦目のダート戦で初勝利を挙げるも、その次に出走したレースで落馬事故に巻き込まれた。その後は休養をはさみ札幌競馬場でダート戦に出走するも礼文特別の2着が最高で勝てず、中央場所に戻っても2戦連続3着という成績だった。陣営は「やはり芝の方が良いのではないか」と考え、「ここで結果が出なかったら少し考えよう」という半ば諦めムードで10月18日の京都競馬場での400万下戦(芝2200メートル)に出走させた。すると、今までの不振が嘘のように7馬身差で勝利した。勝ちタイムは同日、同競馬場の同距離で行われた菊花賞トライアル京都新聞杯のそれより速かった。次に出走した藤森特別(芝2000メートル)では松永幹夫が騎乗したが、2着馬に8馬身差を付け勝利。この2走の勝ちっぷりから、一部マスコミから「菊花賞での関西の秘密兵器」と呼ばれたが、調教師の小原伊佐美は先を考えて「ここで無理をしたら絶対にダメになる」と菊花賞には出走させなかった。続く年末のGII鳴尾記念では格上挑戦ながら単勝3番人気に支持され、レースでは前半最後方を進むも直線だけでメイショウエイカンに6馬身差、やや重馬場ながらレコードタイムで勝利し、翌年の中央競馬の主役と目されるようになった。なお、この日は中山競馬が雪のため途中で中止となり、競馬場に残っていたファンがターフビジョンでこの鳴尾記念を見て度肝を抜かれたという話もある。大橋巨泉は東京スポーツ紙上にて発表していたフリーハンデでクラシック馬を上回る評価を与え、4歳馬の1位にランクした。1988年は、前年の4歳クラシック組が精彩を欠く一方で、同期でクラシック不出走のタマモクロスは株を上げた。小原は天皇賞(春)を見据え、日経新春杯から阪神大賞典というローテーションを描いていたが、馬主サイドの「金杯は縁起のいいレースなので、ここを勝てれば活躍が約束される」という縁起担ぎを理由とした強い要望で、年明け初戦は1月5日、京都競馬場のGIII・金杯(現・京都金杯)になった。この金杯では一時行き場を失くしかけたものの、馬ごみを縫うように内埒から抜け出して際どく勝利。直線だけで15頭をごぼう抜きという内容であった。続くGII阪神大賞典でも最後の直線で内をつき、前がふさがりかけるも逃げ込みを図るダイナカーペンターとの叩き合いで12年ぶりの重賞での同着勝利となった。この2つが、連勝街道時代では最も苦戦したレースであった。そして、父・シービークロスが勝てなかったGI天皇賞(春)では1番人気に支持され、やはり後方から内側をついて抜け出し、ランニングフリーに3馬身差をつけ、初のGI勝利。この勝利は鞍上の南井にとっても初のGI制覇だった。続くGI宝塚記念は、前年の天皇賞(秋)を制したニッポーテイオーとの天皇賞優勝馬対決となった。1番人気はニッポーテイオーに譲ったものの、レースでは珍しく早めにインを前へ前へと進み、直線では外へ持ち出し、逃げ込みを図るニッポーテイオーを差し切り優勝した。秋シーズンは、「カイ食いが細いタマモクロスなら、調教だけでも仕上がるだろう」という小原の考えによりぶっつけで臨んだ天皇賞(秋)で、地方競馬出身の雄・オグリキャップとの初対決となった。両馬とも当年は無敗であり、また2頭とも芦毛であることから、多くの競馬マスコミが「芦毛頂上決戦」(当時)と扱い大きな話題となった。オグリキャップは毎日王冠1着からの参戦であったのに対し、タマモクロスは東京競馬場ぶっつけ初出走、かつ2000mは距離が短いのではないかという前評判もあって、1番人気はオグリキャップに譲る形となった。レースでは、タマモクロスがこれまでと異なり、マイペースで逃げるレジェンドテイオーの直後につけるという先行策に打って出て場内を驚かせた。タマモクロスは、粘り込みを図るレジェンドテイオーを直線で交わすと、中団からの待機策を採ったオグリキャップの追い込みも1馬身4分の1に押さえこみ優勝、勝ち抜け制度がなくなった天皇賞において、史上初の天皇賞春秋連覇となり、また重賞連勝記録もそのオグリキャップとメジロラモーヌが記録していた「6」に並んだ。その後、日本代表として出走したジャパンカップでは1番人気に推された。後方から早めに上がっていき、直線では先頭に一度立ったものの、競り合いを避けて馬体を離したペイザバトラーを差し返すことができず2着に敗れた。3着はオグリキャップ。引退レースの第33回有馬記念では人気投票、単勝人気とも1番人気だったが、レース前にささやかれた調子の下落のためか、最後方から残り3ハロンのスパートだけに賭けた競馬となり、オグリキャップに半馬身及ばず2着に敗れた。結局、オグリキャップとは天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念で3度対決して2勝1敗。芦毛対決として昭和時代最後の競馬界を盛り上げた。この有馬記念を最後に引退した。同年のJRA賞において、年度代表馬・最優秀5歳以上牡馬・最優秀父内国産馬(部門名は当時)のタイトルを獲得した。種牡馬として北海道静内町のアロースタッドに繋養された。現在まで中央競馬のGI馬こそいないものの、マイソールサウンド、カネツクロス、桜花賞で1番人気に推されたダンツシリウスなどの多数の重賞馬を輩出した。日経賞を勝ったウインジェネラーレはタマモクロス産駒として初の種牡馬入りを果たした。2003年4月10日、腸捻転のためアロースタッド内で死亡。当時19歳であった。北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)に、タマモクロスの墓碑がある。死亡の翌年の2004年10月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「タマモクロスメモリアル」が同年の天皇賞(秋)施行日の東京競馬場にて行われた。タマモクロスは食が細く、とくにレースに出走してストレスがたまると食欲が落ちた。そのため、調教師の小原いわく連勝を続けるなかでも体調が万全だったレースはほとんどなかった。また神経質で環境に敏感なところがあり、そのため関東でのレースが続いた1988年の秋は陣営はタマモクロスの管理にとくに気を使っていた。半妹にミヤマポピー(エリザベス女王杯、父カブラヤオー)がいる。

出典:wikipedia

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