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古在由秀

古在 由秀(こざい よしひで、1928年4月1日 - )は、日本の天文学者。専門は、天体力学。最後の東京天文台長・初代国立天文台長である。2016年現在、群馬県立ぐんま天文台名誉台長、東京大学・総合研究大学院大学・国立天文台の各名誉教授でもある。古在由正・澄江夫妻の長男として東京府北豊島郡巣鴨町駒込(現・東京都豊島区駒込)に生まれた。1940年、東京府立第十四中学校(後の東京都立石神井中学校、現・東京都立石神井高等学校)に入学。1945年、旧制第一高等学校理科に入学。1948年、東京大学理学部天文学科に入学。東大理学部時代は萩原雄祐の下で天体力学を学んだ。また旧制一高・東大理学部を通じての級友にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊がいる。1951年、東京大学理学部天文学科を卒業。東大大学院に進み、大学院で学びながら東京天文台に勤務する。1952年、東京大学附属東京天文台助手に就任。1958年、学位論文「土星の衛星系にかんする研究」で理学博士号を取得。渡米してスミソニアン天体物理観測所及びハーバード大学天文台の客員研究員となった。1961年から『理科年表』編集に携わる。1963年、東京大学附属東京天文台助教授に就任。同年朝日賞を受賞。1965年、東京天文台附属人工衛星国内計算施設長に就任。1966年、東京大学附属東京天文台教授に就任。1973年、東京天文台附属堂平観測所長に就任。1979年6月11日、土星衛星、人工衛星及び小惑星の運動の研究により日本学士院賞及び恩賜賞を受賞。1980年、日本学士院会員となる。1981年、東京大学附属東京天文台長に就任。1988年7月東京天文台は緯度観測所・名古屋大学空電研究所第三部門と統合され国立天文台となったため、古在はそのまま初代国立天文台長に就任した。1988年8月、日本人で初めて国際天文学連合 (IAU) 会長に就任。1991年、国際天文学連合会長を辞任し、1994年、国立天文台長も辞任した。1997年、群馬県立ぐんま天文台の台長に就任。2002年、秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章。2009年、文化功労者に選ばれた。2010年、三鷹市名誉市民に選ばれた。2012年、群馬県立ぐんま天文台名誉台長となった。古在の天文学者としての業績としてはまず「コザイの式」が挙げられる。これは人工衛星の軌道を割り出す公式で、コザイの式の発見により古在は天体力学の世界的権威として脚光を浴びた。次に小惑星の運動の力学的研究において著しい業績をあげたことも古在の業績として挙げられる。特に小惑星の軌道に関する「古在共鳴」の発見でも注目を浴びた。また天体力学が太陽系の起源の問題にかかわりを持つとの新しい考え方を示し、地球の形が西洋梨型であることを発見した。東京天文台長及び国立天文台長としての業績は欧文研究報告 (PASJ) において、ジャッジ制を取り入れるなどの改革を行った。また研究所の所長職について任期制を取る事を提唱し、古在は実際に任期期間で辞任した。東京天文台長時代及び国立天文台長時代の古在は国立天文台ハワイ観測所すばる望遠鏡の実現のため尽力し、国立天文台長辞任後の1999年にすばる望遠鏡は観測を開始した。その他の業績として天文雑誌『星の手帖』の編集委員及び「星のチロ賞」の選考委員を務めたことが挙げられる。大マゼラン雲内に出現した超新星・SN 1987Aからのニュートリノがカミオカンデにより検出された時、カミオカンデによるニュートリノ観測の中心となった小柴昌俊が古在と大学時代からの友人であったため、古在が編集委員を務めた『星の手帖』編集長の阿部昭と『星の手帖』編集委員で天体写真家の藤井旭が古在と小柴の対談を企画した。この対談はニュートリノ検出の翌年に実現したが、ニュートリノ検出の話よりも古在と小柴の学生時代の思い出話で盛り上がった。父・由正は古在由直(農芸化学者)・豊子(清水紫琴及び古在紫琴の筆名で作家として活動した)夫妻の長男で、母・澄江は東洋史学者・幣原坦の次女。従ってマルクス主義哲学者の古在由重は父方の叔父にあたり(由重は由直の次男)、外交官出身の政治家で第44代内閣総理大臣・第40代衆議院議長の幣原喜重郎は母方の大叔父にあたる(喜重郎は坦の弟)。また、父方の従弟に千葉大学学長の古在豊樹(豊樹は由重の息子)が、母方の従弟に弁護士の幣原廣(廣の父・幣原顕は幣原坦の長男で由秀の母・澄江の弟)がおり、古在家と幣原家という2つの名門家系の血を引いている。

出典:wikipedia

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