三木 清(みき きよし、1897年1月5日 - 1945年9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)出身。旧制龍野中学校では、西田正雄(後の海軍大佐、戦艦比叡の最後の艦長)が同級生で、三木は次席で西田が首席であった。第一高等学校から京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北帝国大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。大学卒業後は第三高等学校 (旧制)、龍谷大学(第三高等学校では無く大谷大学であるという説もある )で教鞭をとる。1922年には岩波茂雄の資金的な支援を受けてドイツに留学。ハイデルベルク大学でハインリヒ・リッケルトのゼミナールに参加し、歴史哲学を研究した。1923年にはマールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事。ニコライ・ハルトマンの講義にも出席した。ハイデッガーの助手カール・レーヴィットからの影響でフリードリヒ・ニーチェやセーレン・キェルケゴールの実存哲学への興味を深めた。1924年にはパリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をした。この間パスカル研究を開始。1925年帰国し、翌年には処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。三木は母校である京都帝大への就職を望んだが、女性問題のためにアカデミズム側から締め出しを食ったことを谷沢永一が指摘している。しかし、永野基綱によると『過去の女性関係が問題視されたといわれているが、口実であろう。(中略)三木が手記の中で「所謂講壇的哲学者には頭が有っても魂が無い。」と書いている。(中略)親しい場所では講壇哲学批判を口にしてもおかしくない。そのような若い研究者を「帝国大学」に受け入れるだけの度量が田辺らにあってなお、退けることが出来なかった(中略)友人丹羽は、それ以来、「わが兄、わが師、三木清を追い払った京都に、二度と来る気がしなかった。」と語っている。』との記述も有り、女性問題と断定するのは早計な可能性もある。同年12月に創刊された岩波文庫とも深い関わりがあり、巻末の公約である「読書子に寄す」の草稿は三木によって書かれたものである。小林勇が岩波書店を追われた際、これを援助するために満鉄から依頼された講演のための旅費1500円をすべて渡した。小林は自らの元手にこの1500円を足して鉄塔書院を起こした。この名をつけたのは幸田露伴である。羽仁五郎らと雑誌『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開も企てたが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され、転向を行った。この際の有罪判決によって公式には教職に就けなくなった三木は、活動の場を文筆活動に移していった。1930年に一人娘の洋子が生まれる(後に東大文学部の初めての女性教官永積洋子(ながづみ ようこ、近世通交貿易史専攻の教授)になる。清の妻・喜美子は東畑精一の妹であるが、洋子の幼時に死亡)。その後、ジャーナリズムで活動する日々が続くが、1930年代後半には、後藤隆之助ら近衛文麿の友人たちが中心になって組織した昭和研究会に積極的に参加し、その哲学的基礎づけ作業を担当した。三木はその際、「協同主義」という一種の多文化主義的な立場を掲げた。これは軍部、特に陸軍の独走によって硬直する日中関係に対する日本の側からの新政策につながるものとして、海軍から期待を集めたものの、中国の側からの知的応答もなく、現実的な力は持たないうちに、短期間に色あせた。総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によって、マルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていた。そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明を可能にする最後の可能性と見えていた。しかし、昭和研究会は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散をよぎなくされたため、やがてその流れは、大政翼賛会のなかに取り込まれていく。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、なんらかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、たんなる戦争協力へといっそう変質していくことになる。1930年代末から1940年代にかけては、語学力を生かしてヨーロッパの最先端の知的成果を取り入れながら、マルクス主義をより大きな理論的枠組みのなかで理解しなおす「構想力の論理」を企てていたが、未完で終わる。さらに最後には親鸞の思想にふたたび惹かれている。1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルを仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、同6月に豊多摩刑務所に移された。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、それに起因する腎臓病の悪化により、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された。終戦から一ヶ月余が経過していた。遺体を収めた棺は2日後、布川角左衛門が借りた荷車を用い、東畑精一宅に引き取られた。中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬に罹患したという。三木の通夜の席で、三木や尾崎秀実、戸坂潤と親交のあった松本慎一が「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」と提案したが、その提案が唐突過ぎ、また場所柄もふさわしくなかったために、用意した嘆願書の草案を取り出すことができなかった。たまたまこの三木の死を知ったフランス人ジャーナリストジャーナリスト ロベール・ギランの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中にとらわれていたことを親しい友人たちですら知らされないでいたことも、当時の拘禁制度の実態を表している。1945年は、西田幾多郎が生前家人に漏らして最も心配していた人は、「三木清」、そして「戸坂潤」の二人の事であったが、これが西田幾多郎の死の直後獄死という形で現実となった。法名は、真実院釋清心。なお蔵書は法政大学に所蔵されている。1997年、龍野市から名誉市民の称号が与えられた。第一高等学校の在学中、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観に接近し歎異抄の講義を聴きに通う。また、二年生のとき。倉石武四郎らと塩谷温の資治通鑑の読書会に参加した。三年の時、西田幾多郎の善の研究を読んで感激し、哲学専攻の決意を固めた。三木は1917年の京都帝国大学入学から、ドイツ留学に出発する1922年までの間に『哲学研究』誌上に四本の論文を執筆している。(「個性の理解」、「批判哲学と歴史哲学」、「歴史的因果律の問題」、「個性の問題」)これらの論文はいずれも新カント派哲学の立場から「個と歴史」の関係、「個と普遍」の関係について考察した論文である。高校時代から岩波書店哲学叢書で新カント派哲学に親しんできた三木は、波多野精一から西洋哲学を学ぶためにはキリスト教理解と歴史研究が重要である、という示唆を受け歴史哲学を自身の中心的な研究テーマにした波多野の紹介で、岩波茂雄から出資を受けた三木は、6月24日高校時代から親しんできた新カント派哲学の大御所リッケルトのいるハイデルベルクに留学を果たした。当時のドイツは、第一次大戦後の混乱がまだ続いており、ヴェルサイユ体制の下での戦後秩序の回復を目指していた時期であった。ドイツは、敗戦国として1320億金マルクの賠償金の支払いを命じられ経済が逼迫していた。そこにフランスによるルール占領が拍車をかけ、急激なインフレが進行していた。このインフレのため日本から送られてくる留学資金が潤沢になり、三木のみならず多くの日本人がドイツに滞在していた(歴史の羽仁五郎、経済の大内兵衛、哲学ではカント研究の天野貞祐、後にハイデッガーについて学ぶ九鬼周造などがいた)。ハイデルベルクでは古参の大御所から少壮の新進学者まで多くの人々と交わる機会を得た。ゲオルグ・ジンメル(George Simmel 1858-1918)の下で学び1919年のに参加したが敗れてドイツに亡命していたカール・マンハイム(Karl Mannheim 1893-1947)、後にヘーゲル全集の編纂・刊行で著名になる、ギリシア哲学の、ヴィルヘルム・ヴィンデルバントとリッケルトに師事したエミール・ラスク(Emil Lask 1875-1915)の弟子で後に東北帝国大学教授も務め、『日本の弓術』の著者でもあるオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel 1884-1955)らである。三木の当初の留学の目的は、新カント派の研究を進めるためであり、特に「リッケルト教授に就いて更に勉強するため」であった。しかし、日本にいる時からリッケルトの著作の殆どを原典で読んでいた三木は、リッケルトから新たな哲学上の発見が得られないと見ると、1923年には新進の学者で、リッケルトが「非常に天分の豊な人物」と評したハイデッガーのいるマールブルクへと研究の拠点を移した。三木は、古典の解釈を中心として進められるハイデッガーの演習に参加しながら新カント派的な「認識の対象としての歴史」に加えて「生の存在論としての歴史」、「生の批評としての歴史」という新たな歴史哲学研究の方法を学んだ。また、この頃ハイデガーの助手を務めていたカール・レーヴィットと親しく交わった。マールブルクを離れてパリに移ってからも手紙で読書の指南を受け、ヴィルヘルム・ディルタイ、フリードリヒ・シュレーゲル、フンボルトや当時の流行思想であった不安の哲学や不安の文学に対する興味を喚起された。ニーチェやキェルケゴールなどの実存哲学、ドストエフスキーの小説などを耽読したのもレーヴィットの影響である。1924年8月パリを訪れた三木はパスカル研究をある時期から開始し、1925年2月に、その第一論文「パスカルと生の存在論的解釋」を完成した。これは日本に送られ、同年5月、雑誌『思想』の第43号に掲載される。第二論文「愛の情念に関する説ーパスカル覚書ー」は同年8月の第46号、第三論文「パスカルの方法」は同年11月の第49号、第四論文「三つの秩序」はパリから送付はされたが、なぜか掲載されず、第五論文「パスカルの『賭』」は同年12月の第50号に載った。はじめは第七論文まで計画していたと思われるがそれは成らず、1925年10月に帰国後、第六論文「宗教における生の解釋」を書き加えて、1926年6月『パスカルに於ける人間の研究』として岩波書店から出版された。
出典:wikipedia
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