岩崎 恭子(いわさき きょうこ、本名:斉藤 恭子、旧姓:岩崎、1978年7月21日 - )は、静岡県沼津市出身の日本の元水泳選手、指導者。専門種目は平泳ぎ。スポーツコメンテーター、日本オリンピック委員会事業・広報専門委員、日本水泳連盟競泳委員・基礎水泳指導員(水泳インストラクター)。バルセロナオリンピック金メダリスト。競泳史上最年少金メダル獲得記録保持者であり、日本人全種目の金メダリストの中でも最年少記録保持者。沼津市立第五中学校から日本大学三島高等学校を経て日本大学文理学部心理学科卒業。水泳を始めたのも、姉が水泳を習っていて、自分も水泳を習いたいと言って水泳を始める。姉が目標であり、姉の背中を追い続ける。1992年、バルセロナオリンピックでも当初は千葉すずが期待の星であり岩崎は全くの無名の選手であり全くのノーマークであった。岩崎自身もバルセロナオリンピックの前、「決勝に残れればいい方だと思います。」とテレビで語っている。当時の世界記録保持者のアニタ・ノールとタイムの差が大きく開いてあったため、岩崎本人もまさか自分が金メダルが取れるとは夢にも思わなかったという。1992年のバルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎで金メダルを獲得し、記録は2分26秒65だった(当時の五輪新記録&自己の生涯ベスト記録)。競泳女子200m平泳ぎでの金メダルは、1936年ベルリンオリンピックの前畑秀子以来、日本人として56年ぶり史上2人目の快挙達成だった(日本女子選手で競泳種目の五輪金メダリストは、1972年ミュンヘンオリンピックの100mバタフライの青木まゆみ以来20年ぶり3人目)。また、競泳では史上最年少(14歳6日)の金メダル獲得(2011年8月現在も競泳最年少記録)で、日本選手としての五輪メダル獲得の最年少記録でもあった。金メダルを獲得したレース直後にインタビューで岩崎は「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語り、一躍時の人となった。その他出場種目ではメドレーリレーでは7位入賞、100m平泳ぎでは13位だった。同年の第43回NHK紅白歌合戦では、光GENJIの『リラの咲くころバルセロナへ』の曲紹介でゲスト出演した(光GENJIの諸星和己は沼津の隣である富士市の出身)。しかしバルセロナ五輪で岩崎自身もよもやの金メダルを取ったことにより、日本全国から注目されストーカーや嫌がらせの電話もたくさん来ることにより、「金メダルなんか取らなければ良かった」、「なんで『今まで生きてきた中で…』と言ってしまったんだろう」などと酷く後悔するようになった。そのことにより、やる気も出ず練習にも身が入らなくなっていく。「練習をサボっていい結果が出なければ注目されないだろう」と考えるようになった、と岩崎もテレビで言っている。その後、姉が水泳を辞めてしまった。その事が自分が金メダルを取ってストーカーや嫌がらせの電話を目の当たりにしたから、自分のせいで姉の夢を壊してしまったと苦悩した時期もあった。それでも岩崎の姉は、「恭子のせいじゃないよ」と庇っていたという。1996年、アトランタオリンピックにも出場、200m平泳ぎは10位、100m平泳ぎは予選落ちに終わり五輪2大会連続でのメダル獲得はならなかった。1998年、伝染性膿痂疹を発症した影響から20歳で競技選手を引退。その後もテレビなどで競泳のコメンテーターとして活動中。尚2000年シドニーオリンピック400mメドレーリレー銅メダリストの田中雅美は同級生(1979年1月生まれ)で、平泳ぎ種目のライバルながら現役時代から大変仲が良く、現在テレビでもしばしば岩崎と共演するなど親交が続いている。2002年、アメリカ合衆国のミッションビエホに海外指導者研究生として留学。2004年、岩崎の出身地である沼津市の観光PR隊「燦々ぬまづ大使」(14期生)に任命される。2005年1月、自身初の写真集を発売、2月に日本赤十字社の幼児安全法支援員並びに日本水泳連盟の基礎水泳指導員の資格を取得。2009年4月、元ラグビー日本代表の斉藤祐也(豊田自動織機)と結婚した。2010年、第1回ユースオリンピック(開催地:シンガポール)競泳日本代表コーチとして担当。2010年11月1日、自身のオフィシャルブログ「ことばのしずく」にて「第一子妊娠」を報告、2011年3月28日に長女を出産した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。