レスリー・チャン(張 國榮 、1956年9月12日 - 2003年4月1日)は、一時代を築いた香港出身でカナダ国籍の映画俳優・歌手。愛称は「哥哥(お兄さん)」。身長175cm。香港の裕福な家庭に生まれ、10人兄弟の10番目なので幼名は“十仔”(姉1人と兄2名は夭折しているため、実質は7人兄弟)。父はハリウッドスターなどを顧客に持つ有名テーラーで紡績工場の経営者。母は事業に忙しく、レスリーは祖母の家に預けられ、“六姐”と呼ばれる乳母に育てられる。1969年、13歳になると数学で単位を落とし、英国東部のノーフォークに留学。その後リーズ大学に入学しテキスタイルを専攻するが、父が病に倒れ学業半ばで香港に帰国。中国語の学力を心配した母の勧めで中学5年クラスに編入。その後しばらく父のコネで入った弁護士事務所や、自分で見つけた販売員の職などを転々とし、家族とは離れて暮らす。1976年、友人と共にテレビ局主催の歌謡コンテストに出場し『American Pie』を歌い準優勝。翌1977年から歌手として芸能活動を開始するが、しばらくは下積み生活に甘んじる。また、このころ親しくしていた女性の裏切りにより生活は荒み、金銭的精神的に苦難の日々が続く。1983年に『風継続吹』(山口百恵『さよならの向う側』のカバー)がヒット。1985年には『Monica』(吉川晃司『モニカ』のカバー)が大ヒット。レスリーは一躍トップアイドルに踊り出て、以前からトップアイドルだったアラン・タムとライバル関係に。ファン同士の仲の悪さも有名で、レスリーはアランのファンから執拗な嫌がらせを受けた。その影響もあり、1989年に歌手引退宣言。カナダへ移住する。しかし半年後に帰国、芸能界に俳優として復帰。俳優としては、1982年にパトリック・タム監督の『レスリー・チャン 嵐の青春』に出演し、後のウォン・カーウァイらニューウェーブに影響を与える。その後はいわゆる「アイドル映画」に出演。そして、1986年に『男たちの挽歌』、1987年には『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』など、数々の大ヒット作に出演。香港映画界の金字塔を打ち立てる。1990年、ウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』で香港電影金像奨主演男優賞受賞。1993年には中国のチェン・カイコー監督の『さらば、わが愛/覇王別姫』に出演、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。1997年のウォン・カーウァイ監督『ブエノスアイレス』は、日本の単館上映記録を塗り替える大ヒットとなる。また、1994年、ピーター・チャン監督の『君さえいれば/金枝玉葉』出演を切っ掛けに楽壇復帰。2000年に開催されたコンサート『PASSION』は、衣装設計をジャン=ポール・ゴルチエに依頼。そのファッション性や斬新で圧倒的なパフォーマンスで大成功する。日本でも大宮・横浜・東京・大阪・名古屋・福岡で開催され、成功を収めた。この年の音楽賞レースでは若手アイドル歌手を蹴散らし6曲同時に新曲がノミネートされるなど、レスリーは歌手として第2の頂点を極める。そして念願だった映画監督になるべく、多くのミュージッククリップやTVドラマ、短編フィルムなどを撮影している。監督デビューは1996年『夢翔る人/色情男女』での劇中ポルノ映画『色情男女』。2003年4月1日、香港の最高級ホテル「マンダリン・オリエンタル香港」より飛び降り自殺、死去。46歳。自殺の原因については、一年ほど前から鬱病を患っていたとされている。遺書が残されており、長年姉と慕った沈殿霞(リディア・サム)への感謝とお詫びが記されていた。自殺の現場になった「マンダリン・オリエンタル香港」の門前には、ファンによって多数の花束と死を悼むメッセージカードがささげられ、同ホテルの門前は黒山の人だかりになった。葬儀には香港の芸能関係者のほとんどとファンが参列、香港のみならず華人社会が悲嘆にくれたという。2007年12月に東京都立の公園に熱心なファン120人の賛同により「レスリー・チャンの思い出ベンチ」が設置された。ベンチのメッセージには、賛同者120人からのレスリー・チャンへ今も続く思いが込められている。『Leslie Cheung 1956,9,12私達を魅了し続ける 愛すべき張國榮の音楽と映画、人生のすべてに感謝を込めて Leslie Cheung Fans 有志120人』
出典:wikipedia
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