本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した事件である。信長は寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり自害した。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照)天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏・最上氏・蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなった。北条氏政・氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかしこの時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。西に目を転じると、中国地方では、毛利氏との争いが続き、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った(詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている。信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた。他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣・右近衛大将の官位を辞して以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという所謂「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった。そのうちに、5月17日、備中より待ちわびていた羽柴秀吉からの出馬要請が届いた。これを受けて信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き)これより前、土佐統一を目指していた長宗我部元親は、信長に砂糖などを献上して所領を安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎の烏帽子親になって信の字の偏諱を与えるなど友誼を厚くし、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書かれた朱印状を出していた。信長も当時は阿波・讃岐・河内に勢力を張る三好一党や伊予の河野氏と結ぶ毛利氏と対峙しており、敵の背後を脅かす目的で長宗我部氏の伸長を促したのである。その際に取次役となったのが明智光秀であり、明智家重臣の斎藤利三の兄頼辰は、奉公衆石谷光政(空然)の婿養子で、光政のもう1人の娘が元親の正室(信親生母)であるという関係性にあった。ところがその後三好勢は凋落し、信長の脅威ではなくなった。天正3年(1575年)、河内高屋城で籠城していた三好康長(笑岩)は、投降するとすぐに松井友閑を介して名器「三日月」を献上して信長に大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになる。同じ頃に土佐を統一した長宗我部氏は、天正8年6月には砂糖三千斤を献じるなど信長に誼を通じる意思を示していた一方で、阿波・讃岐にまで大きく勢力を伸ばして、笑岩の子康俊を降誘し、甥十河存保を攻撃していて、信長の陪臣が攻められる状態ともなっていた。笑岩は羽柴秀吉に接近して、その姉の子三好信吉を養嗣子に貰い受けて連携しており、笑岩は本領である阿波美馬・三好の2郡を奪われると、天正9年、信長に旧領回復を訴えて織田家の方針が撤回されるように働きかけた。信長は三好勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように通告したが、元親はこれを不服とした。天正10年正月、信長は光秀を介して長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容の新たな朱印状を出して従うように命じ、斎藤利三も石谷空然を通して説得を試みていたが、いずれも不調で、ついには信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになった。信長の四国政策の変更は、取次役としての明智光秀の面目を潰した。早くも前年秋の段階で阿波・淡路での軍事活動を開始していた節のある笑岩は、2月9日に信長より四国出陣を命じられ、5月には織田勢の先鋒に任命されて勝瑞城に入った。三好勢が一宮城・夷山城を落すと、岩倉城に拠る康俊は再び寝返って織田側に呼応した。変の直前、三好勢は阿波半国の奪還に成功した状態で目前に迫った信孝の出陣を待っていた。元親は利三との5月21日付けの書状で、一宮城・夷山城・畑山城からの撤退を了承するも土佐国の入口にあたる海部城・大西城については確保したいという意向を示し、阿波・讃岐から全面撤退せよと態度を硬化させた信長との間で瀬戸際外交が続けられていた。全国平定の戦略が各地で着実に実を結びつつあったこの時期に、織田家の重臣に率いられた軍団は西国・四国・北陸・関東に出払っており、畿内に残って遊撃軍のような役割を果たしていた明智光秀の立場は、特殊なものとなっていたと現代の史家は考えている。近畿地方の一円に政治的・軍事的基盤を持っていた光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣を抱え、さらに与力大名(組下大名)として、丹後宮津城の長岡藤孝・忠興親子、大和郡山城の筒井順慶、摂津有岡城の池田恒興、茨木城の中川清秀、高槻城の高山右近を従えていた。高柳光寿は著書『明智光秀』の中で「光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである。近畿管領などという言葉はないが、上野厩橋へ入った滝川一益を関東管領というのを認めれば、この光秀を近畿管領といっても少しも差支えないであろう」と述べて、初めてそれを「近畿管領」と表現した。桑田忠親も(同時期の光秀を)「近畿管領とも称すべき地位に就くことになった」として同意している。津本陽は光秀の立場を「織田軍団の近畿軍管区司令官兼近衛師団長であり、CIA長官を兼務していた」と書いている。光秀は、領国である北近江・丹波、さらには与力として丹後、若狭、大和、摂津衆を従えて出陣するだけでなく、甲州征伐では信長の身辺警護を行い、すでに京都奉行の地位からは離れていたとしても公家を介して依然として朝廷とも交流を持っており、(諜報機関を兼ねる)京都所司代の村井春長軒(貞勝)と共に都の行政に関わり、二条御新造の建築でも奉行をするなど、多岐に渡る仕事をこなしていた。天正9年の馬揃えで光秀が総括責任者を務めたのはこうした職務から必然であり、(この時、羽柴秀吉は不在であったが)織田軍団の中で信長に次ぐ「ナンバーツーのポスト」に就いたという自負も目覚めていたと、野望説論者の永井路子は考えている。しかも、特定の管轄を持たなかった重臣、滝川一益と丹羽長秀が、相次いで関東に派遣されたり、四国征伐の準備や家康の接待に忙殺されている状況においては、機動的に活動が可能だったのは「近畿管領」たる光秀ただ1人であった。後述するように動機については諸説あって判然とはしないが、僅かな供廻りで京に滞在する信長と信忠を襲う手段と機会が、光秀だけにあったのである。本能寺の変が起こる直前までの織田家諸将および徳川家康の動向を以下にまとめる。天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく、光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆・出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。19日、信長は総見寺で幸若太夫に舞をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜、長雲、松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う。20日、家康の饗応役を新たに、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の4名に命じた。信長は家康に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日、家康と梅雪は京に出立し長谷川秀一が案内役として同行した。長秀と津田信澄は大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた。同日、信長の嫡男信忠も上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入った。信忠がこの時期に上洛した理由はよくわかっていないが、家康が大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いをする予定で信長と一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても、信忠はこの日から変の日まで妙覚寺に長逗留した。26日、坂本城を発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移った。27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度、三度とおみくじを引いたそうである。28日(異説では24日)、光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城した。(『川角太閤記』によると)山崎長門守と林亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させていたと云う。29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った。信長の上洛の理由もよくわかっていないが、勧修寺晴豊の『日々記』や信孝朱印状によると、実現はしなかったものの6月4日に堺から淡路へ訪れる予定であったと云い、このことから毛利攻めの中国出陣は早くとも5日以降であったと推測され、安土より38点の名器をわざわざ京に運ばせていたことから道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる。博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝が目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われるが、別の説によればそれはついでで、作暦大権(尾張暦採用問題)など朝廷と交渉するための上洛だったとも云う。6月1日、信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開いた。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わした。深夜になって信忠が帰った後も、信長は本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝した。本能寺は現在とは場所が異なり、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた4町分の区画にあって、東西約140メートル南北約270メートルというかなり広大な敷地に、周囲と隔てられて存在した。本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施された。幅約2〜4メートル深さ約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居が周囲にあって、防御面にも配慮されたちょっとした城塞のような城構えを持っていたことが、平成19年(2007年)の本能寺跡の発掘調査でも確認されている。当時、敷地の東には(後年は暗渠となる)西洞院川がまだあり、西洞院大路の路地とは接せずに土居が川まで迫り出していて、西洞院川は堀川のような役割を果たしていたようである。調査では本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦、土器、護岸の石垣を施した堀の遺構などが見つかっている。河内将芳は「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べているが、同じ京都二条には明智屋敷もあり、動静は把握されていたと考えられる。6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時頃(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時頃(酉の刻)のことであった。光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである。亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛で休息を許し、夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。沓掛は京への道と西国への道の分岐点であったが(『川角太閤記』によれば)信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある。6月2日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本づつ火先を下にして掲げるように指示した。これは戦闘準備を意味した。明智軍に従軍した武士による『本城惣右衛門覚書』によれば、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。一方で『川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」と狙いが信長であることを婉曲的に告げたとし、兵は「出世は手柄次第」と聞いて喜んだとしている。他方、光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは『明智軍記』にあるもので俗説である。桂川を越えた辺りで夜が明けた。先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。6月2日曙(午前4時頃)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている。『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむおえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う。通説では、この言葉は、光秀の謀叛であると聞いた信長が、彼の性格や能力から脱出は不可能であろうと悟ったものと解釈されている。また異説であるが、『三河物語』では信長が「城之介がべつしんか」と尋ねてまず息子である信忠(秋田城介)の謀叛(別心)を疑ったということになって、蘭丸によって「あけちがべつしんと見へ申」と訂正されたことになっている。明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂に詰めていた御番衆も御殿の小姓衆と合流して一団となって応戦した。矢代勝介(屋代勝助)ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。湯浅直宗と小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。信長は初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷を受けて内に退いた。信長はそれまで付き従っていた女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるよう指示した。『当代記』によれば三度警告し、避難を促したと云う。すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹した。『信長公記』ではこの討ち入りが終わったのが午前8時(辰の刻)前とする。一方、本能寺南側から僅か1街(約254メートル)離れた場所に南蛮寺(教会)があったので、イエズス会宣教師達がこれの一部始終を遠巻きに見ていた。彼らの証言を書き記したものが、天正11年の『イエズス会日本年報』にある。この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた。その後、銃声がして、火の手が上がった。また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。本能寺では謀叛を予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入した。信長は起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀という鎌のような武器を振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り、戸を閉じた。或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」としめている。戦後、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。後世、光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある。後の中国大返しの際に羽柴秀吉は多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」との虚報を伝え広めたが、数日間は近江近在でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆のごとき小身の与力武将にすら協力を拒まれたところを見ると、それが明智勢に不利に働いたことは否めない。日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中からは、当時の調査能力では特定の人物の遺骸は見つけられなかったであろうと、未発見の原因を説明する指摘もある。『祖父物語』によれば、蘭丸は信長の遺骸の上に畳を5、6帖を覆いかぶせたと云い、前述の宣教師の話のように遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。また異説として、信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売通大宮)の縁起がある。変が起きた時、大事を聞きつけた玉誉清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬にして隠してその後切腹しようとしているところだと答えた。上人はこれを聞いて生前の恩顧に報いる幸運である、火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束すると言うと、武士は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いたと云う。また二条で亡くなった信忠についても、遺骨(と思しき骨)を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったと云う。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとしている。秀吉が天下人になった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、上人はこれを度々拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったという。この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、この縁で阿弥陀寺には「織田信長公本廟」が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。また別の異説として、作家安部龍太郎と歴史家山口稔によれば、西山本門寺(静岡県富士宮市)寺伝に本能寺の変の時に信長の供をしていた原宗安(志摩守)が本因坊算砂の指示で信長の首を寺に運んで供養したという記載があるという。『崇福寺文書』によると、信長の側室の1人である小倉氏(お鍋の方)が、6月6日、美濃の崇福寺に信長・信忠の霊牌(霊代を祭る木札)を持ち込んだとあり、同寺にも織田信長公父子廟があるが(前述の非公認を除けば)最初の墓であった。北北東に1.2キロ離れた場所にあった妙覚寺(旧地・上妙覚寺町)の信忠は、光秀謀反の報を受けて本能寺に救援に向かおうと出たが、村井貞勝(春長軒)ら父子3名が駆け付けて制止した。村井邸(三条京極・旧春長寺)は現在の本能寺門前にあったが、当時の本能寺は場所が異なる為、東に約1キロ離れた所にあった。前述のように本能寺は全周を水堀で囲まれて、特に西洞院川に遮られる東側からの接近は困難であり、四門を明智勢に囲まれた後では容易に入る事はできなかった。そこで彼らは二条通の方に向かって、妙覚寺に馳せ参じたのである。(『信長公記』によれば)春長軒が「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の御新造は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう(本能寺は早落去仕、御殿も焼落候、定而是へ取懸申すべく候間、二條新御所者、御構よく候、御楯籠然るべし)」と言うので、信忠はこれに従って隣の二条御新造(二条城)に移った。信忠は、二条御新造の主である東宮誠仁親王と、若宮和仁王(後の後陽成天皇)に、戦場となるからと言ってすぐに内裏へ脱出するように促した。春長軒が交渉して一時停戦し、明智勢は輿を使うのを禁止したが、徒歩での脱出を許可した。脱出したものの街頭で途方に暮れていた親王一家を心配し、町衆である連歌師里村紹巴が粗末な荷輿を持ってきて内裏へ運んだ。阿茶局や二宮、御付きの公卿衆や女官衆もすべて脱出したのを見届けた上で、信忠は軍議を始めた。「退去なさいませ」と脱出して安土へ向かうことを進言する者もあったが、信忠は「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃しはしまい。雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、無念である。ここで腹を切ろう(か様之謀叛によものがし候はじ、雑兵之手にかゝり候ては、後難無念也。ここに而腹を切るべし)」と神妙に言った。(『当代記』によれば)信忠が毛利良勝、福富秀勝、菅屋長頼と議論している間に、明智勢は御新造の包囲も終えて、脱出は不可能となった。正午頃(午の刻)、明智勢1万が御新造に攻め寄せてきた。信忠の手勢は500名余で、さらにこれに在京の信長の馬廻衆が馳せ参じて1,000から1,500名ほどになっていた。信忠の手勢には、腕に覚えのある母衣衆が何名もおり、獅子奮迅の戦いを見せた。1時間以上戦い続け(『蓮成院記録』によると)信忠勢は門を開けて打って出て、三度まで寄手を撃退したほど奮戦した。小澤六郎三郎は町屋に寄宿していたが、信長がすでに自害したと聞き、周囲が止めるのも聞かずに急いで信忠の御座所に駆けつけて、明智勢を装って包囲網を潜り抜けると、信忠に挨拶をしてから門の防戦に加わった。梶原景久の子松千代は町屋で病で伏せていたが、急を聞きつけて家人の又右衛門と共に御新造に駆けつけた。信忠は感激して長刀を授け、両名とも奮戦して討死した。明智勢は近衛前久邸の屋根に登って弓鉄砲で狙い打ったので、信忠側の死傷者が多くなり、戦う者が少なくなった。明智勢はついに屋内に突入して、建物に火を放った。信忠は、切腹するから縁の板を外して遺骸は床下に隠せと指示し、鎌田新介に介錯を命じた。一門衆や近習、郎党は尽く枕を並べて討死しており、死体が散乱する状況で、火がさらに迫ってきたので、信忠は自刃し、鎌田は是非もなく首を打ち落して、指示に従って遺体を隠した。(『当代記』によれば)鎌田は自分は追腹をするべきだと思ったが、どうした事かついに切らずじまいだった。(御新造が焼け落ちたことで)信忠の遺体も「無常の煙」となった。妙覚寺には、一門衆が多数滞在していた。その中に信長の弟織田長益(源五)もいて、信忠と共に二条御新造に移ったが、斎藤利治(新五)らが火を放ちよく防いでいる間に信忠は自刃した。長益は無事に安土城を経て岐阜へと逃れた。『武家事紀』によると、長益も下人に薪を積ませて自決の準備をさせていたが、周囲に敵兵がいないのに気付いて、ここで死ぬのは犬死と思い脱出したと云う。『三河物語』によれば、長益と山内康豊(一豊の弟)は狭間をくぐって脱出したと云う。『義残後覚』では、長益が信忠にとにかく早く自害するようにと勧めたとされており、200余の郎党の多くも討死したのに対して、当の長益は自害せずに逃げ出したことを「哀れ」とする。さらに京童が嘲笑って、「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げるゝ源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と不名誉を皮肉った落首を載せている。一方で、家人は忠義を尽くした。安藤守就の家臣に松野平介と云うものがあり、安藤が追放された時に松野だけは信長によって召し抱えられたために大恩があったが、変の起こったときに遠方にいて妙顕寺に着いたときにはすべてが終わっていた。松野は斎藤利三の知り合いで明智家に出仕するように誘われたが、主人の危機に際して遅参した上に敵に降参するのは無念であると言って、信長の後を追って自害した。土方次郎兵衛というものも、同じく変に間に合わなかったことを無念に思って、追腹をして果てた。また、二条御新造の戦闘では、黒人の家臣・弥助も戦ったと云う。弥助はもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷であるが、弥助は捕虜となった後も殺されずに生き延びた。しかしその後の消息は不明である。古典史料・古典作品には下記の本能寺の変に関係したよく知られた逸話が登場する。これらは後節で述べる諸説の根拠とされるが、史料の大半が江戸時代以降に書かれているために、全てについて信憑性に問題があり、幾つかは完全なフィクションと判断されている。以下、内容と共に信憑性についても説明する。『祖父物語(朝日物語)』『川角太閤記』に見られる逸話で、甲州征伐を終えた後に諏訪で「我らが苦労した甲斐があった」と祝賀を述べた光秀に対して、「おのれは何の功があったか」と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に打ち付けて侮辱した。衆人の前で恥をかかされた光秀は血相を変えたと云う。『祖父物語』は伝聞形式の軍記物で、比較的古い寛永年間頃に書かれた。所謂、巷説を集めたもので信憑性は玉石混合であって、登場する逸話の信憑性の判断は難しい。『信長公記』には3月19日に諏訪法花寺を本陣としたという記録があって符号する点もあり、後述のルイス・フロイスの書簡などにも信長が光秀を殴打したという話があるため、荒唐無稽の作り話と否定できないが、元和年間(元和7年から9年頃)の『川角太閤記』の記述を『祖父物語』が加筆して膨らませたという説もあり、内容には疑問が残る。いずれにしても二次、三次的な史料である。ただしこの逸話は怨恨説の根拠の1つとしてよく引用されてきた。明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う。『常山紀談』にも「東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗禮の設しけるに、信長鷹野の時立寄り見て、肉の臭しけるを、草鞋にて踏み散らされけり。光秀又新に用意しける處に、備中へ出陣せよと、下知せられしかば、光秀忍び兼ねて叛きしと云へり」とある。『川角太閤記』は太閤秀吉の伝記ではあるが、史料としても一定の価値があると見なされた時期があり、この話は江戸・明治時代には史実と捉えられていて、怨恨説の根拠の1つとされた。同記では光秀が決起の理由を、信長に大身に取り立ててもらった恩はあるが、3月3日の節句に大名高家の前で岐阜で恥をかかされ、諏訪で折檻され、饗応役を解任されて面目を失ったという3つの遺恨が我慢ならないので、(家臣賛同が得られなくても)本能寺に1人でも乱入して討入り、腹切る覚悟だと述べている。これに対して、明智秀満が進み出て、もはや秘密に出来ず「一旦口にした以上、決行するしかない」という趣旨の意見を表明し、続いて斎藤利三、溝尾勝兵衛が打ち明けられた信頼に感謝して「明日より上様と呼ばれるようになるでしょう」と賛同したという話となっているのである。しかし上記の文章内でも言及されている『信長公記(信長紀)』には、そもそも家康の宿舎は光秀邸でも秀政邸でもなく大宝坊という別の屋敷で、光秀は饗応役を3日間務めたと違う話が書かれており、解任の話は見られない。これは『川角太閤記』における光秀が謀反をした理由の核心部分であり、こういった事実がないということになれば信憑性を失う。むしろ怨恨説を説明する逸話として後世創作され、付け足された物語ではないかと考えられ、小和田哲男は、解任された可能性がないわけではないとしつつも、光秀の不手際による解任ではなく最初から3日間の任務であり、ここから光秀が信長に恨みを抱くという必然性は見いだせないとする。また江戸中期の元文年間に書かれた『常山紀談』に関しては、出典の異なる多数の逸話を雑然と(しかもやや改変して)一つにまとめて載せたという二次、三次史料であり、信憑性はそもそも期待できない。『明智軍記』に、信長の出陣命令を受けて居城に戻る際に光秀のもとに上使として青山輿三が訪れ、「(まだ敵の所領である)出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」と伝えたという話があり、それを聞いた光秀主従が怒り落胆して謀反を決断したと云う。この話は怨恨説の有力な根拠と江戸時代はされていたが、『明智軍記』は軍記物であってもともと信憑性が薄く、徳富蘇峰は「之は立派な小説である」と断じ、小和田も「事実だったとは思えない」と言っている。国替えについては史料的根拠も残っていないわけであるが、現代の歴史学者は例えそれが事実であったと仮定しても、所領の宛行(あてがい)はよくあったことで、この場合は形式的にも栄転・加増であって、家を追われるような類のものではなく、恨みを抱くような主旨のものではなかったと考えており、小和田は山陰という場所が「近畿管領」からの左遷にあたると思った可能性があるのではないかと秀吉ライバル視説に通じると推測するものの、「理不尽な行為とうけとるのは間違っている」とも指摘する。『信長公記』にも、亀山城出陣を前にして愛宕権現に参籠した光秀が翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したとある。この連歌は「愛宕百韻」あるいは「明智光秀張行百韻」として有名であるが、光秀の発句「ときは今 天が下知る 五月哉」の意味は、通説では、「とき(時)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」という大望を示したものと解釈される。光秀の心情を吐露したものとして、野望説の根拠の1つとされる。『改正三河後風土記』では、光秀は連歌会の卒爾に本能寺の堀の深さを問うと云い、もう一泊した際に同宿した里村紹巴によれば、光秀は終夜熟睡せず嘆息ばかりしていて紹巴に訝しげられて佳句を案じていると答えたと云うが、これはすでに信長が本能寺に投宿するのを予想して謀反を思案していたのではないかとした。『常山紀談』にも「天正10年5月28日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。ときは今あめが下しる五月かな 光秀。水上(みなかみ)まさる庭のなつ山 西坊。花おつる流れの末をせきとめて 紹巴。明智土岐姓なれば、時と土岐を読みを通わせてハ天下を取るの意を含めり」とある。秀吉は光秀を討取った後、連歌を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたが、紹巴は発句は「天が下なる」であり「天が下しる」は訂正されたものであると涙を流して詭弁を言ったので、秀吉は許したと云う。百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが、一方で連歌の解釈については異論が幾つかある。そもそもこれは連歌であり、上の句と下の句を別の人が詠み、さらに次の人と百句繋げていくというものであって、その一部に過ぎない句を取り出して解釈することに対する批判が早くからあった。桑田忠親は「とき=時=土岐」と解釈するのは「後世の何びとかのこじつけ」で明智氏の本姓土岐であることが有名になったのはこのこじつけ発であるとした。明智憲三郎は句は「天が下なる」の誤記であり、「今は五月雨が降りしきる五月である」という捻りの無いそのままの意味であったと主張する。他方で、津田勇は『歴史群像』誌上「愛宕百韻に隠された光秀の暗号―打倒信長の密勅はやはりあった」で、連歌がの古典の一節を踏まえて詠まれたものであると指摘。発句と脇句は『延慶本平家物語』の一文を、次の紹巴は『源氏物語花散里』の一文を、その他にも『太平記』『増鏡』など多く読み込まれている作意は、朝敵や平氏を討ち源氏を台頭させるという寓意が込められているとし、(発句の通説解釈は間違いかもしれないが)百韻は連衆の一致した意見として織田信長を討つという趣旨で、通説の構図は間違っていないと主張する。これらは全体としては朝廷守護説や源平交代説などに通じるものである。また立花京子は、「まつ山」ではなく「夏山」である場合であるが、脇句が細川幽斎が以前に詠んだ句との類似を指摘している。『総見記』『絵本太閤記』『常山紀談』などに在る話。天正7年(1569年)6月、光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城主波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城(神尾山城か)での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。この話は有名であるが、戦いの経過も結果も『信長公記』など他の史料と全く異なり、信憑性はかなり薄い。文禄年間に書かれた雑話集『義残後覚』に、庚申待の際に小用で黙って退出しようとした光秀が、酔った信長から槍を首筋に突きつけられ「如何にきんか頭何とて立破るぞ」と凄まれる話がある。光秀は平謝りして許され、頭髪を乱して全身から冷や汗をかいた。これを発展させた話が『常山紀談』にあり、「又信長ある時、酒宴して七盃入り盃をもて光秀に強ひらるゝ。光秀思ひも寄らずと辞し申せば、信長脇差を抽き、此白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか、と怒られしかば酒飲みてけり」と、これでは無理矢理飲まされたように加筆されている。似たような話が江戸後期の随筆『翁草』にも収録されているが、これらは共に信憑性は薄い。フロイスの『日本史』には信長自身が酒を飲まなかったとあり、信長が酒を嗜まなかったという話は同時代の医師ルイス・デ・アルメイダの書簡にも見られるので事実と考えられており、信長が酔って絡むといった話はそもそもあり得ないことだった。『川角太閤記』などのある話。斎藤利三はもともと稲葉一鉄の被官(家来)であったが、故あって離れ、光秀のもとに身を寄せて家臣として高禄で召し仕えられたので、一鉄が信長に訴え、信長は利三を一鉄の元へ返すよう命じた。光秀はこれを拒否して「畢竟は君公の恩に奉ぜんが為」といったが、信長は激怒して光秀の髷を掴んで引き摺りまわし、脇差に手までかけた。光秀は涙を流して憤怒に堪えたとする。『常山紀談』では「其後稲葉伊予守家人を、明智多くの禄を与へ呼び出せしを、稲葉求むれ共戻さず。信長戻せと下知せられしをも肯はず。信長怒って明智が髪を捽み引き伏せて責めらるゝ。光秀國を賜り候へども、身の為に致すことなく、士を養ふを、第一とする由答へければ、信長怒りながらさて止みけり」とある。その他、『明智軍記』『柏崎物語』などにも同種の話があり、怨恨説の根拠の1つとされる。『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説もあり、(光秀が制止したというフィクションは除いて)諸説の補強説明に利用されることがある。「なぜ光秀は信長を討ったのか」という変の要因について、特に動機に関する定説は存在しない。江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代頃までの「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為であったとするこの頃の認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して考証的検証が不十分だったことに起因する。2説以外には、頼山陽が主張した自衛のために謀反を起こしたとする説など、受動的な動機を主張するものの総称である不安説(焦慮説/窮鼠説)もあったが、怨恨が恐怖に復讐が自衛に置き換わっただけで論拠に本質的な違いはなかった。戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開したので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説(光秀主犯説)であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(所謂、陰謀論の一種)の口火を切った。八切は「濃姫が斎藤利三と共謀して本能寺に兵を向けさせた。その際、四国侵攻準備中の織田軍をマカオ侵略と誤認した宣教師が、爆薬を投げ込んで信長を殺害したもの」で「光秀自身はまったく関与していない」と書き、光秀無罪という奇想天外な主張をしたので、歴史家には無視されたものの、史料の取捨選択と独自解釈について一石を投じるものとなった。また、昭和43年(1968年)に岩沢愿彦が「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を歴史地理誌に発表して勧修寺晴豊の『日々記』を活字で復刻したことをきっかけにして公家衆の日記の研究が進み、平成3年(1991年)に立花京子が歴史評論誌上で『晴豊公記』新解釈に基づく論文『信長への三職推任について』を、平成4年(1992年)には今谷明が著書『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』を発表して注目を集めた。平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)がにわかに脚光を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった。従来より黒幕説は登場人物を自由に動かして“物語”を書きやすいことから作家に好まれたものであり、数えきれないほどの人物が黒幕として取り上げられていたが、そういった創作分野に史学が混ざったことで一層触発されて、現在も主犯存在説と黒幕存在説(共謀説)の2系統、そして複合説と呼ばれる複数の説を混ぜたものが増え続けている。平成21年(2009年)に明智憲三郎が発表した著書『本能寺の変 427年目の真実』は共謀説に分類される。こうして光秀単独犯説が定番だったものが、光秀を背後で操る黒幕がいたとか、陰謀があったとか、共謀者がいたとかいう雑説が増えていくと、黒幕説(謀略説)には何の史料的根拠もなく空中楼閣に過ぎないという当然の反論や批判が登場した。平成18年(2006年)に鈴木眞哉と藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』で黒幕など最初からいないとして、黒幕説には以下の共通する5つの問題があると指摘した。藤本は平成22年(2010年)に発表した著書『本能寺の変―信長の油断・光秀の殺意』でも朝廷黒幕説を含めた各種の黒幕説を批判している。また平成26年(2014年)の石谷(いしがい)家文書の公表によって、近年は四国征伐回避説(四国説)も着目されているが、この説の取り扱いについては後述する。本能寺の変の謎については結局は肝心の動機がわからず定説が存在しないため、さまざまな諸説・空説が登場し、歴史家・作家だけでなく歴史愛好家も自らの主張を展開して、百花繚乱という現状であるが、平成6年(1994年)に歴史アナリスト後藤敦が別冊歴史読本(『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』)誌上で、これらの諸説を整理して大きく3つに分けてさらに50に細分化して分類した。下表はそれに別資料の6つを加えて56にまとめたものである。これらには一部が重複するあるいは複合する内容や同じことを別の表現で言っているものがあるために、それぞれが異なる説であるというわけではないので注意してもらいたい。表の中身には研究と創作とが混ざっており、中には何ら史料的裏付けがなく、全くの憶測で説が提唱されている場合もあるので、すべてを同等に扱うのは元より適切ではないが、全体像を明らかにするために一覧として示した。明智光秀が自らの意思で決起して本能寺の変を起したという説の総称。単独犯行説や光秀主犯説、光秀単独謀反説など幾つか同義の言い方がある。光秀が自らの意思で能動的に決起したという説の総称。謀反は光秀の本意ではなく、何らかの理由があって止むを得ずに決起したという説の総称。光秀が謀反を起こした理由を、野望や怨恨、恐怖といった感情面に求めるのではなく、信長を討つにはそれだけの大義名分があったとする説の総称。光秀が自ら決起したことを前提にして私的制裁(狭義の私憤説)を否定し、時には個人的な野心すらも否定する。大義名分が何であったか、大義(もしくは正義)の内容によって諸説が派生した。史料的論拠が不十分でも大義という論理に基づいた行動は説得力があるように見えるので歴史学者が好んで用いて、近年多くの説が発表されている。義憤説、理想相違説など様々な呼び方がある。幾つかの説を組み合わせて、内容を取捨選択、補完して説を形成しているものの総称。無限にでもバリエーションを作れるが、説として史料的に論証されたものは存在しない。そもそも根拠が示されていないものも多く、論証することは余り考慮されていない。幾つかの状況証拠の点と線を結び付けて説を構成するのに便利なために作家・歴史愛好家が良く用いる。主犯存在説(主犯別在説)は、主犯となるべき人物が光秀以外の他の別人であるという説の総称。無罪説とも言う。従犯存在説は、光秀を主犯にあるいは主犯を特定せずに、謀反を幇助した従犯の存在に着目して、本能寺の変の全像の一部を解説しようという説の総称。黒幕説を補完するだけのものもあるが、必ずしも黒幕説や陰謀論に組するものだけではなく、変の要因の背景に着目するものも含まれる。信長を討ったのは光秀自身の意思ではなく、何らかの黒幕の存在を想定してその者の意向が背景にあったとする説の総称。黒幕を複数と想定するものは黒幕複数説に分類され、共謀説と云う。複合説も参照。信長の朝廷政策については、従来より研究者の間で見解が分かれており、結論はでていない。本能寺の変と朝廷との関係についていろいろと憶測する説があるが、この結論がでないことには、前提が成り立つのかどうかすらはっきりしないということを意味する。信長自らの行為が本能寺の変を直接招いたという説の総称。平成17年(2005年)に作家円堂晃が著書に書いた説もこれに当たる。毛利氏との決戦を控えていたが毛利方はよくまとまり、亡命した足利義昭を擁して大義名分を持っていたので、状況打破のため征夷大将軍に任官および足利将軍解任を朝廷に求めていたが、朝廷はなかなか認めようとしなかった。そこで信長自身が、光秀の軍勢を二条御新造に差し向けて、朝廷を威嚇して要求を強引に認めさせようとしたが、それを光秀に利用されて謀反を起こされたという説を唱えた。『本城惣右衛門覚書』やフロイスの『日本史』、『老人雑話』などに信長が家康を暗殺するという風説があったという記述がある。信憑性については定かではないが、この説を利用するフィクション・陰謀論がかなりある。
出典:wikipedia
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