正田 樹(しょうだ いつき、1981年11月3日 - )は、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに所属するプロ野球選手(投手)。群馬県太田市出身。太田市立北中学校では軟式野球部の投手兼一塁手を務めていた。桐生第一高校に進み、3年時には第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。エースとして3完封の活躍を果たし、群馬代表として初となる全国選手権優勝に貢献。高校では1学年上のエースに小林正人、1学年下に一場靖弘と大廣翔治がおり、小林と一場がエースだった年も夏の甲子園に出場しているが、ともに初戦で敗れている。1999年のドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受けて入団。ルーキーの、監督の大島康徳に一軍で起用され、同年のフレッシュオールスターゲームでは、1歳上の同僚實松一成と共にイースタン・リーグ選抜の先発バッテリーを務め、ウエスタン・リーグ選抜の先発投手で同じ1位指名の高卒新人左腕河内貴哉と投げ合った。この年は日本ハムの商品「ナポリピザ」のCMにも起用されていた。は、8月7日の大阪近鉄バファローズ戦でプロ入り初先発するが、2回0/3を3失点で降板し(勝敗つかず)、この1試合のみの登板に終わった。には課題だった制球難を克服し、5月3日の対ダイエーホークス戦では松中信彦に通算100本塁打となるソロ本塁打を浴びるも、その1失点のみに抑える完投勝利でプロ初勝利をあげた。9勝11敗、防御率3.45の成績を残し、パ・リーグの新人王を獲得。は27イニング連続無失点を記録したものの、春季キャンプで発症した左肩痛の影響もあり5勝15敗に終わった。これ以降成績は下降傾向となり、はチームは25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一、アジア一に輝いたものの、一軍登板なしに終わり、二軍(イースタン・リーグ)でも防御率5点台と結果を出せなかった。シーズン開幕直前の3月20日、金澤健人との交換トレードで阪神タイガースへ移籍したが、同年、に一軍登板はなく、2008年10月2日に戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加したが、獲得する国内球団はなかった。この時期の様子は、TBSテレビの年末番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で取り上げられた。1月14日、中華職業棒球大聯盟球団の入団テストを受けるため台湾に渡り、興農ブルズのキャンプに参加。1月23日、仮契約に至った。しかし、野球賭博の影響による球団数減少によって投手陣が充実した興農が、即戦力の先発ローテーション投手のみを採用する方針としたため、1月中に予定されていた最終テストの合否判定は延期されて、最終的に入団テストに合格したのは開幕直前の3月上旬であった。3月29日の対La Newベアーズ戦で開幕投手を務めるが、1/3回、打者8人に対し4安打3四球の7失点でノックアウトされた。しかし、次の登板の4月4日には同じLa Newを7奪三振の無四球で6回無失点に抑えた。その後はシーズンを通して先発ローテーションの一角を担い、27試合(うち先発25試合)に登板し、防御率4.44, 14勝6敗、奪三振115の成績で勝投王(最多勝利)と三振王(最多奪三振)のタイトルを獲得した。11月から12月にかけてドミニカのウィンターリーグにヒガンテスの一員として参加し、メジャーリーグ進出を図ったが、2010年も興農でプレーすることになった。は、2年連続となる興農の開幕投手を務めた。32試合に登板し、11勝5敗、防御率2.81。リリーフとしての起用が増えたため、勝ち数は減ったが登板数は増えた。前年4点台だった防御率は2点台と改善されている。成績は尻上がりに向上し9月・10月期は6試合(うち先発5試合)に登板し、34イニングを投げて3勝1敗、防御率0.794で月間MVPを獲得した。同年に興農に入団した高津臣吾と同一試合で投げることも多く、中継ぎの沈鈺傑らとともに5年ぶりの半季リーグ優勝に貢献した。しかし、11月23日、興農から翌シーズンの契約を結ばないという通告を受けたことが本人のブログにて報告された。チームが経営難であり外国人選手と契約を結ばないという方針が出されたことによるものであった。11月に複数のMLB球団が参加するトライアウトに挑戦。2月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加するが、3月29日に解雇された。2011年4月8日、新潟アルビレックスBCが正田の入団を発表。前年まで興農で共にプレーしていた高津と再び同じチームでプレーすることとなった。記者会見で「野球が出来ることが一番です」と語っている。2011年のシーズンはシーズンインの準備が遅れた影響で前期日程は0勝4敗防御率3.72の成績であったが、後期は調子をあげ最終的には年間通して23試合に登板し、3勝5敗1セーブ防御率3.00でチームの後期優勝に貢献し、更に地区チャンピオンシップでも好投し地区優勝に貢献した。11月24日に、東京ヤクルトスワローズが正田と入団で合意したことを発表した、12月1日に年俸800万円(推定年俸)で正式に契約。4年振りにNPBへ復帰した。独立リーグからNPBへ復帰したプロ野球選手としては、山田秋親に次いで2人目であった。は、一軍の春季キャンプ(沖縄県浦添市)に選ばれると、6月8日の対千葉ロッテマリーンズ戦で7年振りにNPBの一軍公式戦へ登板した。シーズン通算では、ビハインドでの場面を中心に、24試合の登板で3ホールドを記録。シーズン終了後の12月4日には、推定年俸1100万円で契約を更改した。には、救援で登板した5月17日の対ロッテ戦(神宮)において、公式戦では自身8年(2952日)ぶりの勝利を挙げた。一時はセットアッパーに起用されることもあった。最終的に15試合の登板にとどまり、10月8日に球団から戦力外通告を受けた。11月10日に第1回12球団合同トライアウトに参加すると、打者4人(大平成一、細山田武史、山本大明、工藤隆人)への投球で、被安打1、1奪三振、2内野ゴロという結果を残した。1月20日に、中華職業棒球大聯盟のLamigoモンキーズと契約。台湾球界へ4年ぶりに復帰したが、開幕から登板試合で相次いで打ち込まれたことから、5月12日に解雇された。公式戦の成績は、2勝2敗、防御率4.81、被打率.331であった。2014年5月30日に、四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツが正田の獲得を発表した。愛媛入団のきっかけは、前ヤクルトコーチでこの年から愛媛のコーチに就任した加藤博人からの誘いだったという。6月より登板し、前期最終戦の対香川オリーブガイナーズ戦でリーグ初勝利。後期は先発として定着し、通算7勝2敗、防御率1.02で最優秀防御率のタイトルを獲得した。のシーズンも愛媛マンダリンパイレーツに所属。4月に四国アイランドリーグplusの月間MVPに選ばれた。シーズン通算で7勝3敗、防御率0.74を記録し、2年連続となる最優秀防御率を獲得した。また、リーグが6月に実施した北米遠征には、選抜チームのメンバーとして参加した。シーズン終了後にリーグ年間MVPへ選出された。愛媛ではフォークボールを習得したという。シーズン終了後、自身3度目となる12球団合同トライアウト(11月10日に草薙球場で開催)に参加、3人の打者に安打を許さなかったものの、NPB復帰には至らなかった。しかし、現役を続行する意向を表明している。スライダー、スクリューボールや速球と変わらないフォームから繰り出す落差の大きいカーブが最大の武器。
出典:wikipedia
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