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ウォーレン委員会

ウォーレン委員会(ウォーレンいいんかい、)は、1963年11月22日にテキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件を検証するため、1963年11月29日にリンドン・ジョンソン第36代アメリカ合衆国大統領により設置された調査委員会である。なお、委員会の正式名称は「ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」で、委員長を務めた連邦最高裁長官のアール・ウォーレン(Earl Warren)に由来する通称である。1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説で訪れたケネディ大統領夫妻を乗せて、ダラス市内をパレード中に狙撃されて、ケネディ大統領が死亡し、同じ車に乗っていたジョン・コナリーテキサス州知事が重傷を負った。これは全米を震撼させて世界中に大きな衝撃を与えた。暗殺後に昇格したジョンソン大統領は、事件発生から3日後の11月25日に当時のFBI長官エドガー・フーバーにケネディ暗殺事件の詳細な報告を求めて、FBIからのオズワルドの単独犯行という結論を得て捜査を終わらせることを考えていた。しかし容疑者であったリー・ハーヴェイ・オズワルドがジャック・ルビーによって警察署管内で殺されてしまったことによって、ダラス市警察本部のずさんな捜査と背後関係に大きな疑惑が浮かび、テキサス州の司法長官が州としての暗殺調査を行うことを明らかにした。また上下両院が個々に事件の調査委員会を設置する動きをみせ、もはやFBIからの最終報告だけで調査が終了することは困難で、また単なる暗殺事件で処理できる問題ではないと判断して、大統領直属の特別調査委員会を設置して、当面は特別調査委員会で全ての調査を行うことで、テキサス州や上下両院議会の動きを牽制する狙いもあった。しかし一番大きな目的は、当時の東西冷戦下で、前年のキューバ危機でソ連との緊張関係が続いていた時代の中で、ソ連へ亡命してまた米国に戻り、親カストロ派の活動を行うオズワルドが犯人と目されるがため、米ソ関係にも波及して外交問題にもなりかねない懸念が生じ、また陰謀説も囁かれるなかで国内の政治状況にも影響が心配されることで、国民の不安や疑惑を払拭することに重きを置き、次の年の大統領選挙の前にも暗殺事件の調査を終えて国内の安定を図ることが緊急の課題となっていた。そこで、上下両院の与野党議員と前CIA長官、そして民間から1人を入れて、最終的に委員長には最高裁長官のアール・ウォーレンを指名し、彼は当初司法は行政に介入したくないという理由で固辞したが、ソ連の核攻撃の危険性を訴えるジョンソンに説得され委員長就任を受諾した。11月29日に委員会の設置をジョンソン大統領が決定を下してからわずか6日後の1963年12月5日に、あわただしく最初の委員会が開かれた。冒頭ウォーレン委員長から委員会の任務について、調査の範囲を限定して、FBIや他の機関が収集した暗殺の証拠を単純に再検討し十分であったかを確かめるのが責務と説明があった。そして公聴会も開かず召喚状の権利を行使するつもりはない、と述べると他の委員から猛反発が出て、マックロイ委員がまず「各部局の報告書のたんなる評価」を超えた責務があり、証人の宣誓証言も証拠の強制的提出義務も召喚状の行使も無ければ委員会は無力に見られると反駁し、ボッグス委員とフォード委員が賛成し、ラッセル委員から調査官のスタッフが必要でないとの委員長の発言に異議を唱えた。そして委員会専属の法律顧問としてスタッフを指揮する人材を置くことを求めた。翌日の12月6日に再び委員会を開き、前日の会議で委員長が出したウォーレン・オルニーの法律顧問への任命案を蹴って、同じドワイト・D・アイゼンハワー政権で司法次官を勤め、当時はニューヨークで弁護士を開業していたJ・リー・ランキンを任命することに決定した。そしてこのランキン法律顧問を中心に16名の法律家が加わり、実際の調査はこのうちの若手6名が中心に行われた。ランキンとウイレンズは委員会が設置されて、すぐにスタッフの確保に追われたが、それと並行して調査に関してウォーレンの承認を受けて以下の6分野(エリア)に分けて、スタッフもそれぞれ2人1組で担当を置くこととなった。延べ552人の証人喚問(ワシントンで委員会に公式に宣誓証言を行ったのは93名)を行い、この中にはジャクリーン・ケネディ、大統領の車に同乗していたコナリー知事夫妻、同じくシークレットサービスのロイ・ケラーマン、ウイリアム・グリア、銃撃直後に車に飛び乗ったクリント・ヒル、オズワルドの母マーガリート、オズワルドの妻マリーナなどが含まれる。また各行政執行機関の責任者も喚問を受け、その中にはラスク国務長官、ディロン財務長官、マコーンCIA長官、フーバーFBI長官、シークレットサービスのロウリー長官なども受けており、ロウリー長官には、大統領警護のメンバーで前夜遅くに酒を飲んでいたことをウォーレンから厳しく指摘されている。またウォーレンはFBIに対しては事前にオズワルドがダラスにいることをシークレットサービスに伝えなかったことも厳しく指摘している。その一方でテキサス州検事総長が、オズワルドはFBIへの情報提供者としての経歴を持っているというダラス周辺に流布する風説があるとウォーレン委員会に報告したこともあったが、フーバーFBI長官の猛烈な反論にその後の進展はなかった。調査スタッフを悩ませたのが、司法解剖時に撮影されたケネディの検死写真が全くスタッフに公開されなかったことである。当日の行動を調査するエリア1担当のスペクターや暗殺を確証する証拠を集めるエリア2担当のベリンは調査期間中に何度もランキンを通じてウォーレンに要請していたが、実現されることなく終わった。写真はベセスダ海軍病院のヒュームズ病理医から大統領主治医のバークリーを通じてケネディ家に送られて、ロバート・ケネディが一切公開を拒んだためであった。ただ一部シークレットサービスの監察官が非公認で持っていて、ゴールドバーグはそれを少し見て、ウォーレンが拒む理由が分かったと後に語っている。暗殺のショックからまだ数ヶ月後で見ればゾッとするだけでしかなかったという。もう一つ調査スタッフを悩ませたのが、ディーリープラザの暗殺現場についての理解であった。エリア2担当のベリンはオズワルドの単独犯行については疑問があった。教科書倉庫6階にもう一人いた可能性は?あるいは他の場所に配置されていたとしたら?そして一番重要な暗殺の瞬間についての記録が少ないことが調査の壁であった。しかしながら、ディリープラザでの暗殺の瞬間はアマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮影して後にザプルーダー・フィルムと呼ばれるようになったサイレントの 8ミリフィルムに 26.6 秒間記録されていた。486 コマのこのフィルムが暗殺の直接の資料であった。1964年2月にザプルーダーからフィルムの所有権をすでに買い取っていた「ライフ」社からウォーレン委員会はオリジナルのフィルムの提供を受けた。それまでは、FBIがそれのコピーしていたものを受けて調査していたが、オリジナルの方が当然鮮明度が高く、また「ライフ」社はそのフィルムの各コマを35ミリのスライドにしていて、その提供も受けた。またFBIはザプルーダーが使っていた8ミリカメラであるベル&ハウエルのホームムービーカメラが毎秒18.3コマのスピードで動いていたことを確定した。そこから暗殺時の大統領のリムジンの速度は11.2マイル(18キロ)の時速であったと推測し、オズワルドのライフル銃、マンリッヒャー・カルカーノ・ライフルでどれだけすばやく発射できるかテストした。結果は1発目を撃ってから次の2発目の弾を撃つまでに要する時間は最速で2.3秒を要し、ザプルーダーフィルムでは42コマに相当する間隔であることが分かった。ここからベリン、アイゼンバーグ、スペクターら数名のスタッフで1コマ1コマずつフィルムの分析作業に入った。それは気分が悪くなる作業でもあった。やがて同じ作業をしていたFBIの主席写真分析官リンダル・シャニーフェルトが全486コマに番号を付けて、大統領が頭部に致命傷となった弾を被弾したコマをコマ番号313と指定した。そして大統領が1発目の銃弾を受けたのがコマ番号210から224の間と確定した。1発目は道路標識に遮られて、被弾した瞬間の大統領の様子は写っていない。大統領の顔が再び写っていたのはコマ番号225で明らかに撃たれている様子であったため、それ以前に撃たれたと見られている。そしてコナリー知事が被弾したのはコマ番号240であることが分かった。これは事件直後にFBIが三発撃ち込まれて、1発目が大統領へ、2発目が知事へ、3発目が再び大統領へ当たったという報告と矛盾することとなり、当初考えられた単独の狙撃犯ではなく、別に狙撃犯がいたのではとベリンらは考えた。しかし3月26日の証人喚問でベセスダ海軍病院のヒュームズ病理医が一発の銃弾がケネディとコナリーの両者を傷つけることが可能であることを明らかにしてから、別々の狙撃という考え方は多数派にはならなかった。スタッフのスターンはこのホランドの証言をずっと後になってからも気になっていた。しかし誰も深刻に受け止めるスタッフがいなかったという。ベリンは逆にホランドは正直だが間違っているとして、前方にある≪草の生えた塚≫には結局、空薬莢も何も発見されず、また事件当時そこには数人が立っており、犯人がライフル銃をそこで発射できたとは想像できないとしている。フーバー長官は暗殺事件の4日後にFBIの危険リストにオズワルドが載っていなかったことを知って「我々は仕事を最後までやり遂げなかった。これは我々全員の教訓としなければならない」と述べた。そして以後に上院司法委員会委員長ジェームズ・イーストランド上院議員から「オズワルドはFBIへの秘密情報提供者だった」と非難される立場に立たされることになった。「CIAは国家安全保障の上からジョンソン大統領とウォーレン委員会にその多くを隠していた」、と言われる。1963年11月22日の暗殺事件直後に、CIA内部で世界中のCIA支局に打電してどんな些細な情報も含めて情報収集に取りかかった。すぐにメキシコからの情報ファイルに前月の10月1日午前10:45にオズワルドと名乗る男がメキシコシティのソ連大使館に電話して申請した旅行ビザはどうなっているのか、と尋ねたことを記録したファイルが見つかった。オズワルドが逮捕されたという報道が流れてわずか2分後のことであった。メキシコと中米の秘密工作の責任者は、後に「その衝撃は言葉では言い表せない」と述べていた。そしてCIA内部の事件調査は混乱と猜疑のために挫折して、未だに消えない疑念の影を残すことになった。この11月22日当日深夜に興奮状態の中で会議が延々6時間続き、「オズワルドがメキシコのソ連大使館を訪ねていたことをCIAは前もって知っていた」ことを聞かされたマコーン長官は激怒した。ウォーレン委員会は、独自調査として延べ552人の証人喚問を行い、やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻(20000ページ以上)、委員会文書1553の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた。そして1964年9月24日に調査の結果を報告書(Warren Commission report)としてジョンソン大統領へ提出され、その3日後に一般公開された。報告書の最終的な結論として、ケネディ大統領暗殺事件はリー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行と断定した。しかし一般には理解し難い点が多数存在しているために、ウォーレン委員会報告書で真実は語られていないとする議論が世界中で根強く残っており、「真犯人は別にいる」とする様々な陰謀説が後を絶たない。委員会報告書の骨子は、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。そしてケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である、そのオズワルドはダラス市警チピット巡査をも殺害した、そしてジャック・ルビーに殺害された、この暗殺事件に絡む陰謀は国内外を問わず一切なかった、大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射され、大統領に向かって発射された銃弾は合計3発で、1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。残り1発は命中しなかったとした。オズワルドの単独犯行説は、委員会内部でもラッセル議員から単独犯行についての疑義が出されている。彼は「大統領暗殺の共謀者や共謀集団と結びつける明白で決定的な証拠は一切存在しないとする答申には完全な確信を持って判断できないいくつかの側面がある」「共謀者がいたとする微かな可能性すら存在しない」と示唆するのは間違いだと主張した。ラッセル議員は銃撃犯はオズワルドであったことには同意するが、背後に陰謀の可能性まで排除することには反対であった。そこでフォード議員からの案で「陰謀は存在しなかった」ではなく「陰謀の証拠は発見できなかった」に書き換えられた。これで、ウォーレンは「全員一致の報告書」になったと安堵したが、スタッフはいつか明らかになる可能性を未解決のままにしたと感じた。後に大統領となったジェラルド・フォードは、政界引退後の回顧録で「スタッフたちは国際的にも国内的にも陰謀は一切なかったと主張したが、ラッセル、ボッグス、そして私はそういう表現は強すぎると考えて、他のメンバーを説き伏せて、僅かだが非常に重要な意味を持たせるように表現を変えて、「陰謀の証拠は見つからなかった」という表現に落ち着いた」と述べている。ウォーレン委員会はケネディ暗殺をオズワルドの単独犯行と結論を下したが、13年後の1976年に下院で暗殺調査委員会が設置され、この下院暗殺調査委員会は2年後に調査結果を発表して、オズワルドには少なくとも一人の協力者がいたとする結論を下している。委員会は暗殺時に三つの銃弾が発射され、二発の銃弾がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫ビルから発射した物として結論を下した。委員会の判断は最初の1発目でケネディ大統領の上背部に命中した銃弾は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。一発は車列から外れたと考えられ、最後の銃弾は大統領の頭部に命中しこれが致命傷となった。当初FBIが三発の銃弾がそれぞれケネディ~コナリー~ケネディに当たったという報告であり、コナリー知事も証言で同じ見解を述べていた。しかしザプルーダーフィルムの解析から、1発目と2発目の間隔が短くて、他の狙撃犯の存在も考えられたが、委員会はテキサス教科書倉庫ビルの6階で3つの薬莢が発見されたこととライフル銃が近くに隠されていたことで、ケネディとコナリーは別々の銃弾で傷つけられたのではなく、一発の同じ銃弾で両者とも傷ついたとするのが妥当だと判断した。これはスタッフのスペクターが主張してウォーレンも同意した見解であった。しかし、ラッセル議員はこの説にも異論があった。コナリー知事が証言で三発がそれぞれに当たったという説明をしている以上、一発の銃弾で二人が傷ついたとする報告を鵜呑みには出来ないとして、他にもクーパー議員とボッグズ議員も同じ意見であった。ウォーレンは一発の銃弾説を強く信じていたので引き下がらず、しかし妥協で報告の文面を変えて「……いくらかの意見の相違を生じさせている。……しかし委員会のメンバーは……教科書倉庫の6階の窓から発射されたことに疑いを抱いていない」に変更された。これは委員会のスタッフからは全く筋が通らないという思いであった。ジョンソン大統領に提出する6日前の9月18日にウォーレン委員会の最後の幹部会が開かれた。ここで委員が大統領に提出する報告書の承認をする最後の手続きであったが、ラッセル上院議員の異論で時間がかかった。実際の報告の内容はスタッフが作成したもので、委員長はスタッフと連携して内容の方向性はウォーレンの考え方に沿ったものと言えるが、委員からすれば単独犯行説とオズワルドただ一人が撃ったとする「一発の銃弾説」に対して、陰謀説と複数狙撃犯説への言質がないままについての不満は他の委員にもあった。結局委員側から最後に巻き返しがあって、報告に曖昧さが残ったことをスタッフの面々は苦々しく思っていた。ウォーレンは最後に「全員一致の報告書」にこだわったとも言えるし、また最高裁判事ではあるが彼もまた政治家である一面を見せていた。それは彼が陰謀説には全く関心を寄せていないことにも表れている。暗殺時に着ていた衣類について、調査終了後にジャクリーン・ケネディより返還の要請が来て、委員会で討議の上、後日の調査で再提供することを条件に引き渡すことで各委員から承認された。しかし結局ウォーレンはジャクリーンに引き渡すことはしなかった。彼女がそれを破棄するのではと考えたからである。また同乗していたコナリー知事の場合は、ズタズタになった衣服をネリー夫人がクリーニングに出してプレスされていた。血を見るのが耐えられなかったと夫人は語っているが、委員会スタッフはそれを聞いて驚愕し、「証拠としての価値を台無しにされた」と怒っていた。オズワルドの場合は、妻マリーナが衣類のほかライフル銃や拳銃など夫の所有物全ての返還を要求してきた。要求は却下されたが理由は彼女が売ろうとしていたことによる。一方母マーガリートはオズワルドの手紙16通を雑誌に4000ドルで売っていた。ウォーレン委員会は、いくつかの点でオズワルドの不可解な行動について調査はしたがその後は特に注目することはなかった。これらの話は委員会スタッフも結局はそれ以上の詳しい調査に入らずに終わっている。後に明らかになったことは暗殺事件前年の1962年初めの時点で、移民帰化局以外にCIA、FBI、国防総省、国務省にオズワルドに関するファイルが存在していたという事実である。「CIA秘録」「FBI秘録」の著者ティム・ワーナーは、フーバーFBI長官もアレン・ダレス前CIA長官(ウォーレン委員会委員)も、1961年のピッグズ湾事件(第1次キューバ危機)以後に密かに進められたカストロ暗殺計画(マングース作戦)を誰一人としておくびに出さないように駄目を押していた、もしその報復として共産主義者の大統領暗殺の陰謀があったとしたら、そしてもしソ連及びキューバが暗殺を命じていたら、そしてアメリカがそれを立証する証拠を一片でも入手したとしたら、新しい世界大戦開戦の合図となっていただろうと述べている。しかし逆に当時キューバの諜報部にいたファビアン・エスカレンテ将軍は2005年1月のインタビューで「オズワルドは元陸軍情報部員であり、CIAの諜報部員である。」として「ケネディは反カストロ派に殺されたのだと思う。」と語り、「オズワルドはケネディ暗殺によってキューバとカストロを糾弾する企てに関与していた。」「反カストロの亡命キューバ人らの足跡は確かに見える。彼らはオズワルドのそばに、ダラスに、そしてメキシコにいた。」「我々が一番恐れたのはアメリカ国内の極右派がカストロがケネディを殺したとしてキューバを攻撃してくることだった」と述べている。そして暗殺事件直後にアメリカ国内の反カストロのキューバへの攻撃が急に抑えられたことは我々には説明ができないこと、ジョンソンがなぜウォーレン委員会を設置して1年も過ぎずに解散したこと、またウォーレン委員会の調査では膨大な量の情報を集めながらその殆どが分析されることがなかったことも付け加えている。今日、ウォーレン委員会は上下両院とテキサス州の暗殺調査の機先を制するために急遽設置されて、オズワルドの単独犯行を確定させるための委員会であったとする意見は根強い。ジョンソン大統領にとってオズワルドの単独犯行が最も都合が良く、もしソ連やキューバなどの外国勢力が関わっていたことが明らかになると国家安全保障上極めて困難な状況になると考えられたからである。委員会は報告書と同時に膨大な26巻に及ぶ別巻の資料を刊行し、多くの聴聞会記録、物的資料の写真、現場検証の実験結果などが順不同で索引なしで掲載されている。だが詳細な調査資料はいずれもオズワルドに関するものだけであり、彼以外に関するものは「間違い」「勘違い」「証拠不十分」として実に簡単に処理されている。1963~1964年の時点では全貌を明らかにすることは不可能で、全ての真実が見えてくることももはや遠い彼方のことであるかもしれない。2039年に全てのウォーレン委員会の資料が公開されるが、驚くべき真実が出てくる可能性は低いとされている。1964年11月23日、公文書(National Archives)として保管され、当初一般公開されなかった部分については、政府により「この事件と関連する無実の人々が被害を受けないよう保護するため 」として、2039年までの75年間封印されることとなった。この75年ルールは、その後情報公開法()によって改められ、1992年、ウォーレン委員会による記録の98%は一般公開された 。残る部分については従来通り、2039年の解除が予定されている。

出典:wikipedia

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