尼崎城(あまがさきじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城である。江戸時代初期に築城された平城。安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれるが、現在の尼崎城趾とは位置が異なる。元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わった。戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。最後の藩主は松平忠興である。歴代城主については尼崎藩の歴代藩主の一覧に記載がある。明治6年(1873年)の廃城令により建物は一部を除き取り壊されたが、明治7年(1874年)、本丸御殿の一部が菩提寺・深正院(市内大物町)の本堂として移築された。この本堂は戦前まで残っていたが、戦災に遭い焼失した。城跡の一部に尼崎城址公園が整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。公園内には尼崎市立中央図書館がある。本丸跡は尼崎市立明城小学校の敷地として利用されている。尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれた城で、尼崎城に直接船が横付けできたことから、海に浮かんだような城であったと言われている。水堀は2重、3重に巡らされ、縄張りはほぼ正方形で4重の天守・3棟の三重櫓・城門・本丸御殿を建て並べた本丸を中心に、・西部と北部を囲むように二之丸、東に松之丸、二の丸・松の丸を囲むように西部に西三之丸、東部に東三之丸、さらに南に南浜を配置した。本丸は東西、南北とも約115メートルのほぼ正方形で、尼崎城の中心に位置し、政務をつかさどる場所であった。本丸の北東隅に天守、天守の付櫓として寅卯二重渡櫓と二重渡櫓、他の3隅に三重櫓が1棟ずつ建てられ、大手方面は多聞櫓を廻らせていた。その中心に御殿があり、大書院を中心として台所や居間、式台、金之間など複数の建物を繋げた構成であった。虎口は東に虎之門、南に太鼓門、西に搦手門の3つが開かれていた。尼崎市史(昭和40年代発行)によると、大物城を取り壊しその上に規模を拡大して近世尼崎城築城と判断していた。これが同一の城という根拠になり、他の尼崎城の文献にもそのような記載が見かけられる。しかし、その後に尼崎市立地域研究史料館が編集している地域史研究に掲載されている小野寺逸也の論文「江戸時代前期の尼崎城下絵図について(2)」では、戦国期大物城はむしろ近世尼崎城の北東、大物の西側付近にあったものとの考えが示されている。『尼崎城下絵図』によると、池のような場所の南に「古城」という場所が記載されており、これが大物城のことではないかと推察されている。現在の阪神電車車庫東端からその東側辺りで、近世尼崎城でいうと城下町にあたる。これらよりただちに「同一の城ではなかった」とは言えないが、現在では「別の城であった」という説が有力である。現在、尼崎城の地上の遺構としては、確認できるものは少ないが、尼崎市教育委員会は20回以上の発掘調査を実施しており、本丸御殿跡等建物遺構や、外堀として利用されていた庄下川の堤防下より石垣の一部の遺構や、その他多数の遺物が出土している。発掘調査に関しては、尼崎市立地域研究史料館で調査報告書を見ることができ、出土した遺物に関しては尼崎市立文化財収蔵庫にて閲覧することができる。旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保詮が私財を出して天守を再建し尼崎市に寄贈するとして市有地の利用などについて市と協定を結んだ。ただし天守再建場所は本来の場所ではなく北西の位置になる予定。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。