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大江町

大江町(おおえまち)は、山形県の中央部にある人口約9千人の町。町域は、山形盆地の南西端から朝日連峰西端の小朝日岳まで東西に長く広がる。町域東端の左沢地区で最上川に合流する月布川の流域に沿って、町域西部に細長く展開する集落群が大江町を形成している。行政上、町域は、東から左沢地区・本郷地区・七軒地区に区分され、月布川に並行する主要地方道・山形県道27号大江西川線が主要な集落を繋いでいる。また、東に接する寒河江市内に、複数の飛び地を抱えている。左沢地区にJR左沢線の終点左沢駅がある。町の中心地は左沢地区であり、最上川が長井盆地と山形盆地との境界となる峡谷部を抜けた谷口から、最上川と月布川の合流点附近の河岸段丘上にかけて形成されている。段丘面の標高は約105~110m程度、最上川の川面の標高が約100m程度である。左沢は難読地名であるが、語源については、寒河江城から見て最上川の対岸「あちら」の転訛であるという説やアイヌ語起源説などがある。本郷地区・七軒地区は、東から、月布川下流の谷底平野に開けた農村、月布川の河谷段丘上に展開する農村、月布川の支流に散在する山村の大きく3つに分類することができる。江戸時代、本郷地区は左沢領の一部、七軒地区は天領であった。遺跡により、少なくとも後期旧石器時代から定住が確認されている。後期旧石器時代の重要な遺跡として、東に隣接する寒河江市内にある飛地に存在する金谷原遺跡がある。この遺跡から当地にかなり大規模な石器製作所があったと推察されている。縄文時代の遺跡は、その多くが町内左沢地区小見から七軒地区柳川までの月布川沿いの河岸段丘上に立地する。なかでも町内本郷地区橋上にある橋上遺跡からは、当地が石器の産地であったことを示す出土品が確認されている。当地の石器製作は、山形県中央部の出羽山地に沿って南北に走る草薙層からもたらされた珪質頁岩を背景としたもので、同様の石器製作遺跡は、月布川流域に色濃く分布している。これらの石器製作遺跡で作られた石器は奥羽山脈を越えて宮城県の縄文時代の遺跡からも出土している。前述の橋上遺跡からは平安時代の竪穴式住居跡も検出されている。また、寒河江市内にある飛地及び町内左沢地区藤田などのいくつかの遺跡において平安時代の須恵器窯が検出されている。鎌倉時代から室町時代にかけて、寒河江大江氏(寒河江氏)が周辺を治め、左沢楯山城を築き、一族の左沢氏が拠った。1584年(天正12年)、最上義光が大江氏を滅ぼし、左沢楯山城は最上氏の支配下に入る。1600年(慶長5年)慶長出羽合戦が起こると上杉氏の別動隊により攻撃を受け城は陥落する。最上氏の下では長尾右衛門が治めた。1622年(元和8年)年、最上氏の改易により、左沢藩1万2000石が成立し、酒井直次が封じられた。直次は、当初、左沢楯山城を左沢陣屋として藩庁としていたが、ほどなく小漆川城(現町内左沢地区・本郷地区上/下小漆川)を築城し、城下町の整備を行った。1630年(寛永7年)、直次は嗣子なくして没したために絶家。左沢は収公され天領となり、庄内藩の預地を経て、1632年(寛永9年)年に庄内藩丸岡領との交換が成立し、庄内藩領に組み込まれた。これは、肥後藩の改易に伴い藩主加藤忠広が庄内藩預かり処分となった後、庄内藩丸岡領に出羽丸岡藩1万石として封じられた処置に因るものである。1648年(慶安元年)、庄内藩より松山藩が分知の折、左沢は松山藩領となり、明治に至る。

出典:wikipedia

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