関脇(せきわけ、せきわき)は、大相撲において大関の下、小結の上の階級。「大関」の「脇」をつとめる者、という意味が語源とされている。ちなみに、第2位の力士を〈脇〉と呼ぶことは、平安時代の相撲節会に遡る。江戸時代には、大関の地位にいる力士が看板大関であることもしばしばあったことから、その時は関脇に位置した力士が実質的にはその場所の最強力士であることも多かった。1789年(寛政元年)11月場所7日目谷風と小野川に揃って横綱免許が与えられたが、この場所の両者の番付は関脇だった。大相撲で三役と言えば正確には大関・関脇・小結のことであるが、一般的にはこのうち関脇・小結を指す。関脇は大関を狙うにあたっては最も近い地位である。小結以下の幕内力士が関脇に昇進する場合には、横綱・大関に昇進する場合とは異なり、特別な規定は設けられておらず、通常は小結で勝ち越していれば昇進できる。ただし、小結で勝ち越した場合であっても、関脇が誰も負け越していない場合かつ大関へ昇進する関脇が存在しない場合は、そのまま小結に据え置かれてしまう場合も多い。反面、前頭上位で勝ち越しを果たし、関脇・小結の全力士が負け越している場合は小結を越えて一気に関脇に昇進する場合があり、新三役が関脇だった力士も多数存在する。原則として、関脇は1回の負け越しで小結以下の地位への陥落が決定する。関脇で7勝8敗の1点負け越しの場合、通常では翌場所は小結の地位へ下がることが多いが、関脇・小結や前頭上位に勝ち越し力士がいなければ、運良く関脇に留まることもある。逆に、幕内上位に勝ち越し力士が多数出た場合は、関脇で7勝8敗ながらも平幕まで陥落することもあり得る。ただし関脇で7勝8敗の力士が平幕に陥落したのは1992年11月場所が最後であり、これ以降は筆頭で勝ち越した力士を留め置いてまでも小結に残留している。関脇が大関に昇進する場合には、関脇(または小結)で2、3場所続けて優秀な成績(3場所通算33勝以上が目安とされている)を挙げなければならない。したがって、8勝7敗・9勝6敗・10勝5敗といった並の勝ち越しを続けている場合は、何場所も続けて関脇に留まることになる。大関が2場所続けて負け越すと関脇へと陥落するが、その場合、関脇の中では最も低い順位に据えられるのが通例である(主に西関脇。東西の関脇が勝ち越していれば、張出したところの東もしくは西の関脇となることが多い)。陥落直後の場所に10勝以上すると無条件に大関特例復帰ができる内規があるため、仮に10勝で復帰を決めた場合に、半枚上の関脇が11勝以上挙げても大関昇進出来ないと、番付・勝ち星共に下回っていた者が翌場所の番付で上になる、という「矛盾」が生じる。そのため、大関から陥落直後の関脇は第一順位(すなわち東正位関脇)に据えるべき、との意見も一部には存在する。平成以降では、下記の力士がこれに該当する。このうち、追風海と北勝力と照ノ富士は小結を経験していない。小結未経験の関脇は、戦後では他に千代ノ山、鏡里、吉葉山、佐田の山、高鐵山の5人がいる。このうち千代ノ山、鏡里、吉葉山、佐田の山の4人はのちに大関、横綱に昇進しているが、高鐵山と追風海と北勝力の3人は三役在位が新関脇の1場所のみであり、その後の三役経験は無い。1972年(昭和47年)7月場所において、大相撲史上最多の5関脇(番付順に輪島博、貴ノ花満、三重ノ海五郎、魁傑輝之、長谷川勝敏)が同時に在籍したことがある。この例はこれまでに1例しかない。
出典:wikipedia
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