斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。長女は百合子、次女は晶子。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。1882年(明治15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の上山市金瓶)に生まれた。守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは15歳のときで、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、「こんなうまいものがあるのか」と思い、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという。医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の婿養子となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。守谷家は隣接する時宗(のち浄土宗)宝泉寺の檀家であり、茂吉も40世住職・佐原窿応の薫陶を受けた。第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。また時宗大本山(のち浄土宗本山)蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。生前自ら作っていた戒名は、一向派の法式になっている。中学時代、佐佐木信綱の『歌の栞』を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『ドナウ源流行』『念珠集』『童馬山房夜話』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二、芥川龍之介に高く評価された。芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際に、即座に茂吉の名を出したという。太平洋戦争中の創作活動は積極的に戦争協力していた。生涯に全17冊の歌集を発表し、全17,907首の歌を詠んだ。ただし、あくまでも精神科医を本来の生業とする姿勢は崩さず、「歌は業余のすさび」と称していた。しかし、息子の北杜夫は「心の九割は歌に、文学に打ち込んでいたと思う。」とし、茂吉の性格上、臨床医は合わず口説療法を主とする診察は苦手であったと評している。1914年(大正3年)4月、養父・斎藤紀一の長女で13歳年下で当時19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の婿養子となった。結婚2年後の1916年(大正5年)には、長男茂太が誕生している。養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった。輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。欧州留学中の1924年(大正13年)7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行(「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。帰国後の1925年(大正14年)2月には長女百子、1929年(昭和4年)10月には次女昌子が誕生した。次男宗吉は年譜の通り。1933年(昭和8年)、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが大新聞をはじめとするメディアに報じられ、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある秩父や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。その後、大東亜戦争中に輝子が茂吉の故郷・山形に疎開することになったのを機に1945年(昭和20年)から同居を再開、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。輝子自身は、80歳を超えても世界中を旅行し、エベレスト登山にまで挑むような活発な女性であった。以下は歌の制作年順に配列したもの。上梓年とは順序が違うことに注意。
出典:wikipedia
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