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穴山信君

穴山 信君(あなやま のぶただ は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で、御一門衆のひとり。幼名は勝千代。母・南松院殿は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたり、妻は信玄の娘である見性院で、武田左衛門とも称した。壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。穴山氏は武田姓を免許される御一門衆に属し、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かったと考えられている。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。『高白斎記』に拠れば、天文22年(1553年)1月15日には甲府館に移っており、これは武田宗家への人質であると考えられている。永禄元年(1558年)11月には河内領支配に関する文書が見られ、父の信友は同年6月から11月頃には出家しており、このころには家督交代がなされたと考えられている。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいては信玄本陣を守ったという。川中島の戦いの後、武田家中では信玄嫡男の武田義信による謀反が発生する(義信事件)。『甲陽軍鑑』では事件を永禄7年(1564年)7月の出来事としているが、永禄8年(1565年)6月に義信とその側近である長坂・曽根氏が二宮・美和神社へ太刀を奉納していることから、実際には永禄8年7月の出来事であったと考えられている。義信事件は三国同盟維持派の義信と今川氏との同盟を破棄する信玄派の間の対立構図が考えられているが、『甲斐国志』に拠れば、身延過去帳を根拠に永禄9年(1566年)に信君の弟である穴山信嘉(信邦、彦八郎)が自害したことを記しており、義信事件と関係があるとも考えられている。当主である信君の立場は不明であるが、穴山家中においても内訌が存在していたとも言われる。武田氏は信玄後期に駿河・遠江への侵攻を行い織田・徳川勢力と対峙するが、この駿河・遠江侵攻において信君の活動が見られる。武田氏は永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始するが、信君は侵攻に際して内通を試みた今川家臣や徳川氏との取次を務めている。翌永禄12年(1569年)には、富士氏が籠城する大宮城を葛山氏元と共に攻めている。その後駿府を占領した武田氏に対し相模国の北条氏・三河国の徳川氏が今川救援のために出兵すると、同年4月に武田方は一時甲斐へ撤兵する。この際に信君は興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行を与え在地支配を試みている。駿河国は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという。天正3年(1575年)5月21日に行われた織田・徳川連合軍との長篠の戦いでは武田信豊・小幡信貞とともに中央に布陣する。長篠の戦いでは多くの武田重臣が奮戦して戦死しているが、信君・穴山衆に関しては諸記録に戦闘の様子を記したものが見られず、穴山衆の多くも戦後に無事帰還している。『甲陽軍鑑』『甲陽軍鑑末書』では、信君は長篠合戦において積極的攻勢に出なかったと記しており、信君は決戦に反対したとする記録も見られる。長篠合戦に敗退した武田勝頼は信濃国へ逃れると戦後処理を行い、同年6月2日に甲府へ帰還した。『甲陽軍鑑』において、信濃北部つの海津城に在城していた武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は敗戦の報を知ると信濃国駒場において勝頼を迎え、五箇条の献策を行ったという。虎綱は五箇条の献策において相模国の後北条氏との婚姻による甲相同盟の強化や、戦死した重臣子弟の奥近習衆取り立てなどを進言し、第五に武田信豊と穴山信君の切腹を進言したという。『甲陽軍鑑』では虎綱が信君・信豊に切腹を求めた詳細は記していないが、勝頼は北条との同盟を除いて、虎綱の献策を退けたという。天正9年(1581年)12月、勝頼の寵臣長坂長閑、跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し始め、翌年2月、勝頼が娘を信君の嫡男に娶らせる約束を反故として武田信豊の子に娶らせることにしたのに激怒して、家康に降ったという話が、飯田忠彦の『野史』に見られる。天正10年(1582年)2月25日、織田信忠の甲斐侵攻に際しては、2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件に、2月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した。その結果、信君は織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられた。同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)において信長に謁見する。堺(大阪府堺市)を遊覧した翌日の6月2日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死(本能寺の変)を知り、家康と共に畿内を脱しようとするが、その途上で一揆の襲撃を受け死亡した。『家忠日記』では自害、『信長公記』では、切腹したと伝える。他方、『フロイス日本史』では、信君は家康一行から遅れて移動していたところを一揆の執拗な襲撃に遭い殺害されたとする他、『東照宮御実紀』では、信君が家康を疑い別行動を取ったところを、光秀から家康追討の命を受けた一揆勢によって家康と誤認されて、家臣の帯金美作守らとともに宇治田原で殺害されたと記述するなど、自害ではなく一揆によって殺害されたとする資料も見受けられる。一方、別行動を取ったとされる家康はかろうじて三河国に帰国した(伊賀越え)。信君の没後には、信君の嫡男である穴山勝千代(武田信治)が武田氏当主となる。天正10年6月に発生した信濃・甲斐を巡る天正壬午の乱では穴山衆は徳川家康に臣従した。天正15年(1587年)には勝千代が死去したため、武田氏は断絶する。信君は武田家臣・秋山氏の娘である於都摩の方(下山殿)を自らの養女として家康に差し出しており、家康の側室となった於都摩の方の出来である五男・万千代(武田信吉)が武田氏を継承し、天正18年(1590年)に甲斐河内領から下総国小金城3万石分封の際、松平姓に復している。信君は武田滅亡に際して武田家再興を名目に主家から離反しているが、同じく信玄の娘婿でありながら織田家に寝返った木曾義昌や郡内領主の小山田信茂らと共に主家から離反した行動に関して、これを謀反とする否定的評価がある。また、戦後の実証的武田研究においては戦国領主としての穴山氏や小山田氏の位置づけに関して様々な見解が示されているが、矢田俊文は穴山・小山田氏と武田氏の関係を連合政権であったとする見解を示し、信君や小山田信茂の離反は主家滅亡に際して個別領主の立場から離反に至ったとしている。また、秋山敬は穴山氏歴代当主の武田親族意識の観点から信君の親族意識は特に強いものと指摘しつつ、信君の離反は武田家再興ではなく穴山氏自体の発展を意図したものであるとしている。

出典:wikipedia

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