能登呂(のとろ)は、日本海軍の運送艦(給油艦)、後に水上機母艦に改造された。艦名は宗谷岬に相対している樺太(現在のサハリン)南端の西能登呂岬による。能登呂は八八艦隊計画の給油艦の1艦として1920年(大正9年)に竣工した。「若宮」の老朽化によりその代艦として1924年(大正13年)に佐世保工廠にて水上機母艦への改装工事を実施、改装内容は若宮とほぼ準じた形であるが艦形が大きいため搭載機数は倍増している。また給油艦としての機能もそのまま残されていた。1934年(昭和9年)、特務艦(運送艦)から水上機母艦へ類別変更。日中戦争(日華事変)などに参加。1941年(昭和16年)、搭載機を降ろす。大戦中は航空機輸送、重油輸送に従事したが3度の雷撃で損傷。終戦時はシンガポールにあり、未修理のままオイルタンクとして使用されていた。戦後海没処分。知床型給油艦の1隻として建造された。詳細は知床型給油艦を参照。水上機母艦への改造はワシントン軍縮条約直後の1923年(大正12年)に計画され、翌1924年(大正13年)に佐世保海軍工廠で工事が行われた。艦橋前後の上甲板に艙口を覆う木甲板フラットを設けて水上機の搭載位置とし、その上方には鉄骨木板張りの天蓋を設けた。天蓋は右舷側が開放されており、そこから水上機を収容した。水上機揚収用のデリックは前後のデリック・ポストを補強、延長してそれぞれに1基ずつ設けた。射出機は当時の軍縮条約の制限で装備されなかった。後甲板には発動機調製所が設けられ、最前部のサンマータンクを改正して第2甲板に軽質油庫を設けた他、兵員室や飛行機用の諸工場も設置した。船首楼直後には飛行機への遮風のために隔壁が設けられ、空気抵抗が増したため速力がいくらか低下した。また天蓋を設置したために艦橋からの前方視界が悪くなり、改造完成直後に前部マスト部分にパイロット・ハウスが設置されている。上述のように給油艦としての装備はそのままで、給油艦兼水上機母艦として使用された。1937年(昭和12年)に改装が行われ、天蓋は撤去された。要目上では12cm単装砲2門、8cm単装高角砲2門であるが、実際には艦前後に砲台のみが設置されていた。1938年(昭和13年)頃の写真には前後の砲台に8cm高角砲の装備が確認される。あ号作戦後の状況は8cm高角砲2門、25mm機銃連装4基、13mm機銃連装2基とされる。内令兵制定の昭和10年までの機数は以下の通り。(機数は常用+補用機)1937年(昭和12年)の修理完成後は九四式水上偵察機4機、九五式水上偵察機4機とされる。1941年(昭和16年)7月に搭載機を富士川丸に移し、固有の搭載機は無くなった。
出典:wikipedia
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