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展覧会の絵

組曲『展覧会の絵』(てんらんかいのえ、; )は、1874年にロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーによって作曲されたピアノ組曲である。後世に編曲された管弦楽版によっても知られる。『展覧会の絵』はムソルグスキーが、友人であったヴィクトル・ハルトマン(ガルトマンとも)の遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものである。ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれている。また、これらの10枚の絵がただ無秩序に並ぶのではなく、「プロムナード」という短い前奏曲あるいは間奏曲が5回繰り返して挿入されるのが特徴的で、この「プロムナード」は展覧会の巡回者、すなわちムソルグスキー自身の歩く姿を表現している(使われるごとに曲想が変わるので、次の曲の雰囲気と調性とを的確に感じて弾くことが大切である)といわれる。「プロムナード」、「古城」、「卵の殻をつけた雛の踊り」、「ビドロ」、「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー」、「キエフの大門」など覚えやすいメロディーと緩急自在の構成(ユーモラスな曲、優雅な曲、おどろおどろしい曲、重々しい曲など)から、ムソルグスキーの作品の中でももっとも知られた作品の一つである。また、古今東西の多くの音楽家によりさまざまな編曲がなされているのも特徴である。などが有名である。また、この音楽を主題にした次のような作品なども知られている。絵の印象を描いた10曲と、「プロムナード」5曲(自筆譜では第2プロムナード、第3プロムナード、第4プロムナードは調号を用いずに臨時記号で書かれている)、「死せる言葉による死者への呼びかけ」の16曲からなる。ただし、ラヴェル版は第6曲と第7曲の間の第5プロムナードが削除された15曲で、これにならった版も多い。「死せる言葉による死者への呼びかけ」は「プロムナード」の変奏であり、6番目の「プロムナード」と位置づけることもできる。なおムソルグスキーは各プロムナードと直後の曲、「リモージュの市場」から「死せる言葉による死者への呼びかけ」、「バーバ・ヤガー」と「キエフの大門」をアタッカで繋ぐ指示をしている。ムソルグスキーは音楽史などでは「ロシア5人組」と呼ばれる音楽家集団の1人として良く知られているが、ムソルグスキー1人に限って見ると、後年になるほどウラディーミル・スターソフの影響がきわめて大きい。スターソフはロシアの芸術史研究家であり評論家であったが、指導者的な面もあり、多くの若い芸術家の慈父のような役割を果たした。そして彼のサロンには、音楽、絵画、建築、彫刻家などが集まり、ロシア固有の芸術を探求する空気が醸成されていた。1870年ころ、ムソルグスキーはヴィクトル・ハルトマンという建築家であり画家でもある男と出会い、交友を結ぶ。しかし1873年8月4日、ハルトマンは動脈瘤が原因で急死してしまう。ムソルグスキーの落胆ぶりは大きく、残された手紙などによると、ハルトマンの体の異常に気づきながら友人としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責の念にかられている様子がわかる。一方、スターソフはハルトマンの遺作展を開くことにした。ハルトマンの作品を整理することと、ハルトマン未亡人のための資金援助が目的であったと思われる。遺作展は、1874年の2月から3月にかけて、母校であったペテルブルク美術アカデミーにおいて400点の遺作を集めて大々的に開催された。その展覧会から半年後の1874年7月4日、ムソルグスキーは『展覧会の絵』を完成させた。同年6月24日付のスターソフへの手紙には、この曲について興奮気味に「アイディアが煮えたぎっていて紙に書く暇がない」「今間奏(プロムナード)とそれ以外に(曲集前半の)4曲を書いた」などと書かれており、その前に作曲していた歌曲の完成よりまだ10日程度しかたっていないことから、作業の遅いムソルグスキーにしては珍しく2 - 3週間足らずで一挙に作曲されたものと推測されている。この自筆譜は、現在はレニングラード国立公共M. J. サルティコフ・シェッシュドリン図書館に保存されている(手稿本部門、M. P. ムソルグスキー基礎資料502番、文書番号129)。いわゆる自筆譜とかファクシミリ版と呼ばれているものである。なお原典版・原曲といった場合、本来はムソルグスキーの自筆譜(またはファクシミリ版)を指すが、ファクシミリ版が1975年まで公開されなかったため、1931年に出版されたモスクワ音楽院教授のパヴェル・ラム()による校訂版が今でも原典版として広く受け入れられている。しかしこの『展覧会の絵』はムソルグスキーの生前は、一度も演奏されず、出版もされないままであった。そもそも作曲者本人が、1880年にフーゴー・リーマンが編纂中であった音楽事典への依頼に応えて書いた原稿の中で「オペラ作曲中の気晴らしに絵画のような作品集を書いた」と、タイトルすら書かないで述べるほど関心を失っていたようである。そして1881年3月28日、ムソルグスキーはアルコール依存症と生活苦から衰弱してこの世を去る。今日よく知られる彼の肖像画は、死の3週間ほど前、スターソフの元でやはり懇意であったイリヤ・レーピンの筆によるものである(レーピンは『ヴォルガの舟曳き』で有名なロシア・リアリズムの画家)。幸いにもリムスキー=コルサコフがムソルグスキーの遺稿の整理に当たった。そして、『展覧会の絵』のピアノ譜が1886年に出版され、ついに陽の目を見る。ただしリムスキー=コルサコフの改訂が目立つため、現在は「リムスキー=コルサコフ版」として、原典版とは区別されている。改訂は、現在では独創的で斬新とも評価されるムソルグスキーの原典版が、当時の感覚ではあまりに荒削りで、非常識と捉えられる部分もあったためと言われており、時にはリムスキー=コルサコフがムソルグスキーの音楽を理解していなかったからだとも言われている。しかし、ムソルグスキーの様々な作品の楽譜を世に出した意味は大きく、5人組の中で、リムスキー=コルサコフが最もその音楽の素晴らしさを認識していた証左といってよい。特に明確な原典版との相違点は、「ビドロ」が弱音で始まって次第に音量が大きくなる点(原典版ではフォルティッシモで始まる)、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の最後がC-D♭-C-B♭となる点(原典版はC-D♭-B♭-B♭)。これらは下記のラヴェル版でも踏襲されている。ムソルグスキーの残した音楽の多くが未完成のものであったが、後にさまざまな音楽家がこれを補筆もしくは改訂や編曲をして世に出した。リムスキー=コルサコフ校訂のピアノ譜の出版の5年後の1891年、リムスキー=コルサコフの弟子であったミハイル・トゥシュマロフがこの曲の最初のオーケストラ編曲を行った。トゥシュマロフ版は5番目以外の「プロムナード」、「小人」、「ビドロ」、「テュイルリーの庭」を省略した短縮版であった。トゥシュマロフ版は通常「トゥシュマロフおよびリムスキー=コルサコフ編」と表記されているが、リムスキー=コルサコフが編曲にどこまで関与したかは明らかではない。ただし、トゥシュマロフ版は、発表の年にリムスキー=コルサコフの指揮によって初演されている。1922年、フランスのラヴェルが、指揮者クーセヴィツキーの依頼で『展覧会の絵』を管弦楽へと編曲した。この編曲版はクーセヴィツキーの率いるオーケストラによって、同年10月19日(初演)と10月26日にパリのオペラ座で演奏され、これをきっかけに一挙にムソルグスキーの『展覧会の絵』は世界的に有名になった。ラヴェルがこの仕事を引き受けた理由としては、報酬もさることながら当時フランスの音楽家(サン=サーンスやドビュッシー、ラヴェルなど)にムソルグスキーの和音を多用する様式が評価されつつあったこと、ムソルグスキーのピアノ曲は管弦楽曲を作るための習作のような作りであったことなどが挙げられている。ラヴェルは編曲に当たり、友人のカルヴォコレッシに譜面の手配を依頼した。その手紙(1922年2月3日付)には「ムソルグスキーの自筆譜(の入手)を期待している。何とかして入手する方法はないだろうか。または入手可能な人物を知らないか」と書き、ラヴェルが当時の出版譜にはリムスキー=コルサコフの改変があることを知っており、自身はムソルグスキーのオリジナルから編曲をする意図であったことが判っているが、カルヴォコレッシは自筆譜を入手できなかったようで、最終的にはリムスキー=コルサコフ版に基づき、1922年の3月からまず「キエフの大門」に着手して5月1日に完成、続けて残りを初秋頃までかけて編曲を行った。その編曲は特に冒頭のトランペットのファンファーレ的な「プロムナード」に象徴されるように、ラヴェルの異名である「オーケストラの魔術師」どおりの華麗で色彩的なもので、原曲のロシア的な要素を重視するよりもオーケストラ作品としての華やかな色彩を与えることを企図し、そして成功している。ラヴェルの編曲は粗野な趣の『展覧会の絵』に新しい生命を与えることに成功したと言ってよい。なお楽譜は1929年にロシア音楽出版から出版され、現在は同社の業務を引き継いだブージー・アンド・ホークスなどで刊行されている。ラヴェル版が世界的な人気を得たが、同版の演奏権はクーセヴィツキーが5年間独占する契約だったことや、著作権の問題で他の音楽家によるオーケストラ編曲も多数試みられた。その中で特に有名なものは、指揮者ストコフスキーによる編曲版である。冒頭の「プロムナード」の旋律が第一ヴァイオリンのみのユニゾンで演奏される。ラヴェル版のフランス風に洗練された編曲に対し、原曲のロシア的な響きを生かすという意図のもとに編曲されている。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが録音するなど本場ロシア(ソビエト)でも受け入れられていた。ラヴェル編曲のオーケストラ版の人気に伴い原曲(ピアノ曲)の方も、少しずつ演奏されるようになってきた。しかし難曲であったため、これを弾けるのは「ヴィルトゥオーゾの証明」のような扱いになりかけていたし、むしろ管弦楽版が原曲であるかのような扱いでもあった。また1931年にラムの校訂版が出版されてからも、演奏されることはあってもリムスキー=コルサコフ版だった。そうした中、ロシアのピアニスト、リヒテルのレコードが新しい扉を開く。1958年のことである。当時はアメリカとソ連(現在のロシア)の対立が激化し、東西冷戦の真っ最中である。ロシアのピアニストたちは高い評価を得ていたが、そのレコードや演奏が西側諸国で聞ける機会はなかなかなく、リヒテルも幻のピアニストと言われていた。そのリヒテルのソフィア(ブルガリアの首都)でのコンサート録音がレコードとして発売された。曲目の中に『展覧会の絵』があった。西側諸国ではまだ殆ど聴くことができなかった原典版に忠実な演奏であった。リヒテルのすさまじいばかりの演奏技術も衝撃的で、これが原典版がメジャーになるきっかけと言って良い。現在、入手可能なCDやレコードを整理すると、この1958年を境にして、『展覧会の絵』のピアノ曲の録音が、リムスキー=コルサコフ版から原典版へとがらりと切り替わるのがよくわかる。原典版は、ラヴェル編曲版とは違いロシア臭が強く、強烈な個性がある。無論、演奏するには難曲であることに替わりはないが、ラヴェル版のピアノ編曲のようになりがちであったピアノ原曲が、ラヴェル版にはない魅力を持ったものになった。そして、ラヴェル版に負けず劣らぬ人気の曲になった。なお、リヒテル当人はラヴェル編に関しては「ムソルグスキーの音楽を理解していない」と評しており、たいへんに批判的であった。一方、ムソルグスキー自身は一流のピアニストではなかったため、原曲ではラヴェル編曲の管弦楽版のような色彩感に乏しいことは否めない。1940年代に入るころ、ロシア出身で当時アメリカに亡命していたウラディミール・ホロヴィッツが独自の編曲を手掛け、1947年からコンサートでしばしば演奏するようになった。1947年のスタジオ録音と1951年のライヴ録音がレコードとして発売され大きな話題になった。これらの録音は、編曲とはいえ、ピアノ版の「展覧会の絵」の録音としては最も古い部類に属する。原典を重視する向きには敬遠されることがあるものの、ムソルグスキーによるピアノ原曲を世界に知らしめる上で、ホロヴィッツの演奏が果たした役割は極めて大きい。同時に、ホロヴィッツがこの編曲の楽譜を公開しなかったことと、彼自身の録音が越え難い決定盤と評価され続けたことが、上記のリヒテルによるレコードまで他のピアニストがピアノ版に取り組むことを避けた最も大きな要因とも言える。勿論原曲より技巧的には難しくなっている個所が多いが、その後、幾人かが録音された演奏からの楽譜起しを試みた結果、聴感上の難易度に比べ非常に効率的な編曲がなされていることが分かっており、ホロヴィッツがいかにピアノ技法を熟知していたかをうかがい知ることができる。ホロヴィッツ自身、この編曲は超絶演奏技巧を披露するためではなく、ムソルグスキーの原曲の持つロシア的な性格を一層引き出しつつ、ピアノの持つ可能性を最大限に活かすことを目的とした編曲であると述べている。1971年、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(略称ELP)が『展覧会の絵』のライブレコードを出す。ロック・グループが、クラシックの曲をシンセサイザーやハモンドオルガンでアレンジして演奏した事は当時はセンセーショナルであった。ただし、エマーソン・レイク・アンド・パーマー版は『展覧会の絵』の中の一部の抜粋であり、バンドによるオリジナル曲を挿入した形式であった。このELP以降、一挙に様々なアレンジが出てくる。冨田勲のシンセサイザー版(1974年)、山下和仁のソロ・ギター版(1981年)などは世界的にも大きな影響を与えた。このほか、オルガン版や吹奏楽版、マンドリン版などの人気も高く、現在もさまざまな録音が次々と出ている。また、プログレッシブ・ロックの影響を受けたドイツのヘヴィメタル・バンドであるメコン・デルタはエマーソン・レイク・アンド・パーマー版を元にした曲、およびオーケストラとの共演版を発表している。またガルトマンの絵についても、1991年に日本のNHKが團伊玖磨の進行でスペシャル番組「革命に消えた絵画・追跡・ムソルグスキー“展覧会の絵”」を放送した。ハルトマンの絵のうち『展覧会の絵』のモチーフとなったとされる10枚の絵をすべて明らかにする、という『展覧会の絵』の謎解きの核心にせまった番組であった。こちらについては絵柄と楽想の乖離や、学問的な手続きが不十分であるという批判もあり、曲と絵との関連性がすべて明らかになったとは言えないが、それまで曲に比べてハルトマンの絵の研究はほとんどされていなかったので先駆的な仕事であったと言って良い。また「ビドロ」という言葉の意味(ポーランド語の"bydło"には「牛車」の他に「(牛のように)虐げられた人」の意味がある。ガルトマンがポーランドで描いたスケッチのタイトルは『ポーランドの反乱』)や音楽的な印象などから絵を推理していく「面白さ」は画期的であった。2015年、ドイツのプログレッシブ・ロック・バンド が "Bilder einer Ausstellung" のタイトルで『展覧会の絵』の全編をロック化した作品を発表している。最も有名な編曲はラヴェルのオーケストレーションによるものであり、オーケストラの演奏会で取り上げられる演目のほとんどはこの版だが、他にも多くの版が存在する。ラヴェル以降に作られた管弦楽版は、ラヴェル版(またはラヴェル以前に作られたリムスキー=コルサコフ版)を参考にしているものが多く、その影響はきわめて大きい。日本の冨田勲は、シンセサイザーによる編曲・録音を行った。彼の2つの編曲版のうち、管弦楽版は手塚治虫の実験アニメーションのために書き下ろした作品である。これは手塚がラヴェル版を用いようとしたところムソルグスキーの著作権は消滅していたもののラヴェルの著作権が生きていることが判明し(1998年まで)、デュラン社から膨大な使用料を要求され予算を超えてしまったためやむなく取り下げ、代わりに冨田に依頼したという経緯がある。冨田はわずか1週間でこの編曲を仕上げたという(現在DVDなどで見られる実験アニメーションの展覧会の絵は、完成当時のものではなく、宗教対立のエピソードがカットされたなどにより、曲の一部が編曲当時のものとは異なる)。

出典:wikipedia

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