北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。フランチャイズは北海道で、本拠地は札幌市豊平区にある札幌ドーム。準本拠地は2003年までの本拠地であった東京都文京区にある東京ドーム(後述)。さらに函館、旭川、帯広などの道内の球場でも毎年主催試合を開催している(後述)。千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズタウンには、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地であるファイターズスタジアムや、室内練習場、選手寮があり、関東地方におけるチームの拠点となっている。11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース( "Senators" 、企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある。9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。苅田久徳を可愛がっていた猿丸元(のち、東急球団代表)が五島慶太の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め、同年12月18日、東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。セネタースと東急との仲介の労をとったのは小西得郎と浅岡信夫、黒川渉三である。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、"Tokyu Flyers")」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、"Kyuei Flyers" )」に改称した。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ( "Kyuei Tic Flyers" )」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( "Otsuka Athletics" )のチックを絡ませた名称だった。フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区の後楽園球場とする(より、正式導入される)。シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。パ・リーグ参戦初年度のシーズンは8球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。、大下弘との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍。9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、"Toei Flyers" ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。、後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。、それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。、東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区の明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。同年年頭、大川はワシントンハイツと多摩川園のいずれかへの新球場建設の将来構想を語ったが、結局は実現しなかった。水原監督の下で土橋正幸と尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手 (MVP)は土橋正幸と種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。、国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男、白仁天、毒島章一、大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。に水原は監督を解任されたは、大下弘が監督就任したものの、シーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わる。、チームは4位に終わる。、「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し、4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打・最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。には、名物オーナーだった大川が急逝。岡田茂が社長に就任。岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く年間3億円の赤字が出ていて不採算だった球団を手放すこととなる(五島は野球が嫌いだった)。当初売却先としてはパイオニアが候補となっていたが、10月21日にパイオニア側が買収を断念する。1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝の経営する不動産会社・日拓ホームへ球団を売却。売却額は3億円だった。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、"Nittaku Home Flyers" )に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。なお、チームは前期5位・後期3位の総合5位に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。なお夕刊フジの報道によると、日拓を含む複数の若手起業家のグループが中心となって、フライヤーズの球団経営を1年ごとに代えていく方針があったとされる計画も模索されていた。1973年11月19日に日本ハムへ売却。「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という思いから球団経営に乗り出す。法人名は「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、"Nippon Ham Fighters" )」となる。日本ハム最初のシーズンとなったは、前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史が広島にそれぞれ移籍した。は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三・富田勝との交換で巨人に移籍。中西は解任され、大沢啓二が監督に就任した。・、2年連続の総合5位に終わる。、ボビー・ミッチェルが本塁打王、南海から移籍の柏原純一も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになってから初のAクラスとなる。、高橋直樹が20勝を挙げ、島田誠が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。、新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、トニー・ソレイタ、トミー・クルーズのクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦(10.7決戦)では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。、前期は4位に終わるも後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。日本シリーズでは、同じ本拠地を使用する巨人と対戦となったため史上初めて全試合が同一球場で行われた。井上弘昭が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退となった。打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、間柴茂有が15勝無敗、岡部憲章が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王となった。、後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。、パ・リーグの1シーズン制が再開、結果は優勝した西武に大差をつけられたもののAクラスの3位。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。オフに、江夏が西武に移籍。、植村義信が監督に就任するも最下位に低迷し6月27日に解任。終盤は大沢が代行を務めるも10年ぶりの最下位に終わった。オフには中日から三沢淳を獲得。、高田繁が監督就任。しかし、成績は85年・翌と2年連続の5位。、新人の西崎幸広が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。オフに大宮龍男・田中富生が大島康徳・曽田康二との交換トレードで中日に移籍。1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。、東京ドーム元年となった88年は投手陣は西崎、松浦宏明が最多勝、河野博文が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかし、打撃陣はチームの大砲であったトニー・ブリューワが腰痛により1年を棒に振り、前年度ベストナインの白井一幸も試合中に骨折など怪我人が続出、トレードで移籍してきた大島康徳、急遽獲得したマイク・イースラーの奮闘があったもののチーム打率、得点数、盗塁数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位は確保したものの勝率は5割を切り、観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。オフに高代延博と広島鍋屋道夫・滝口光則とのトレードを行い、大洋から若菜嘉晴を無償トレードで獲得。高田監督が辞任、後任は近藤貞雄監督が就任した。、前年腰痛で1年を棒に振ったブリューワが復活し、西崎が16勝をあげるも前年とはうって変わって、投手陣の不調で5位に終わった。シーズン途中に巨人角盈男を無償トレードで獲得。オフに田中幸雄・早川和夫と中日藤王康晴・小松崎善久とのトレード。、柴田保光が対西武戦でノーヒットノーランを達成し、新外国人のマット・ウインタースやドラフト1位酒井光次郎とベテラン若菜とのバッテリーが活躍するもののチームは4位だった。しかし勝率は5割を確保。、白井が最高出塁率、武田一浩が最優秀救援投手を獲得。しかし、貧打線で4位に終わる(閉幕した時点で、ダイエーが残り5試合で1勝すればダイエー4位、日本ハム5位という状況にあったが、ダイエーがロッテ5連戦を1分け4連敗して閉幕〈ロッテ戦前からだと1引き分けを挟む6連敗〉したために4位に浮上した)。この年のオフに近藤監督は辞任、後任は土橋正幸が1973年後期以来の監督復帰を果たした。オフに津野浩と広島の金石昭人との交換トレードを行った。、広島から移籍した金石昭人がチームトップの14勝、片岡篤史が新人ながらレギュラーで活躍したがエース西崎が不振。主砲として期待していた田中幸雄が開幕戦でリタイアした。ベストメンバーが組めず5位に終わり(最下位のロッテが先に閉幕した時点で、残り2試合で1分け1敗以下なら最下位という状況にまで追い込まれたが、西武戦に辛勝し〈最終戦の近鉄戦はサヨナラ負け〉、最下位は免れた)、土橋監督は契約一年残して解任された。後任はフロント入りし監督招聘を行っていた大沢啓二がその間チームの結果が出なかった責任を取る形で3度目の監督就任。、投手陣では西崎が復活、武田・前年リリーフエースだった白井康勝が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された広瀬哲朗、ウィンタース・新外国人リック・シュー等の活躍により優勝した西武にわずかの差でリーグ優勝を逃した(最終成績は、西武と1ゲーム差の2位)。金石と田村藤夫が最優秀バッテリー賞を受賞している。、46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わった。5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。大島が現役を引退し、オフに木村拓也プラス金銭で広島長冨浩志とのトレードを行った。大沢監督は辞任し、後任として元阪急監督の上田利治が就任した。、若手の岩本勉・今関勝・島崎毅・田口昌徳・上田佳範・井出竜也らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成、2年目のキップ・グロスが最多勝を獲得した。田中幸雄が打点王獲得。新外国人のティム・マッキントッシュの不振・解雇により、急遽獲得したバーナード・ブリトーがわずか56試合の出場ながら21本塁打・50打点という驚異のペースで本塁打と打点を量産。白井一が開幕3戦目に故障で離脱すると、それまで一軍と二軍の往復生活をしていたプロ14年目の渡辺浩司が二塁のレギュラーに抜擢されて話題となった。オフに武田・松田慎司とダイエー下柳剛・安田秀之のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍した。、岩本・今関・芝草宇宙の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも後半チーム全体で極度の打撃不振に陥り失速。さらに上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。グロスが二年連続で最多勝、島崎が最多ホールド、4年目の金子誠が新人王を獲得。二軍は本拠地を神奈川県川崎市の日本ハム球団多摩川グランドから千葉県鎌ケ谷市のファイターズスタジアムに移転している。、前年オフに巨人を自由契約になった落合博満をヤクルトとの競合の末獲得。しかし、落合は不振で期待ハズレの結果に終わる。前年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み怪我や不調で合計20勝に終わった。新外国人のナイジェル・ウィルソンが本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にしてファーム日本選手権を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎が西武石井丈裕と奈良原浩との交換トレードで移籍。金石が成績不振で解雇された。、開幕投手候補だったグロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントに合うも、グロスに代わり開幕投手を務めた岩本が球団史上初の開幕戦完封勝利を挙げ、関根裕之・金村暁・黒木純司が台頭した。今関、芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦克拓を擁してビッグバン打線と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の野口寿浩が正捕手として活躍。前半戦は首位独走で一時は最大貯金23まであったが、後半戦に9連敗を喫するなど大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率を獲得、落合が現役を引退した。初代ホールド王を受賞した島崎が中日へ金銭トレードで移籍した。、前年まで主に代打の切り札だった小笠原道大が捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。岩本が稲尾和久に並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。しかし、4月の月間MVPを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。ウィルソンも怪我で離脱。石本努や途中加入したシャーマン・オバンドーの奮闘があったものの、前年ブレイクした西浦の不調。岩本、関根、ルーキーの建山義紀以外の先発投手陣の不調もありリーグ5位に終わる。上田監督は辞任し、後任の監督に大島康徳が就任した。、小笠原が最多安打、野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。前年、怪我でほとんど出場できなかったウィルソンが37本塁打と復活。投手陣では下柳剛が先発に転向し、2年目の立石尚行も先発ローテーションに定着しチーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数が全てリーグ1位という破壊力抜群の打線で優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等がありダイエーと西武に敗れて3位に終わった。、小笠原が最多安打を獲得。ルーキー中村隼人が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し7年ぶりのリーグ最下位に終わり観客動員数が137万6000人まで落ち込んだ。なおこの年、片岡がFAで阪神へ移籍した。、観客の増加を図るためそれまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になった。同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。大島監督が3月31日のダイエー戦で暴力行為となったため退場で2試合出場停止、小笠原が初の首位打者を獲得、3年目の正田樹が球団では金子以来、投手としては1980年木田勇以来の新人王を獲得した。チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し5位に終わった。大島監督は解任され、後任に球団初の外国人監督のトレイ・ヒルマンが就任した。、東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、8月20日の対近鉄戦で3対1で初勝利する。シーズンでは前年オフに野口とのトレードで阪神から移籍してきた坪井智哉が復活し高打率を記録、小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得した。投手陣でも先発転向二年目のカルロス・ミラバルがリーグ2位の16勝を挙げ金村も二年連続二桁勝利の10勝を挙げたが、前年新人王を獲得した正田がリーグ最多の15敗を記録し、またそれまでチームを支えてた岩本・関根が怪我や不振もありチームは二年連続の5位に終わってしまった。8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる株式会社北海道日本ハムファイターズを設立、本拠地を札幌ドームに移転(事務所も東京都港区六本木六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、特別清算手続きをとった。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。オフに新庄剛志(登録名「SHINJO」)の獲得に成功した。、同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場を千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0.5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併による球界再編問題が取りざたされ、選手会はこの問題で9月18日・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でストライキを行い試合中止となり、代替試合は行われなかったことも影響した。プレーオフ第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退した。フェルナンド・セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横浜から移籍の横山道哉が28セーブで最多セーブ。オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトの稲葉篤紀をFAで獲得。球団初のFA選手獲得となる。ドラフト会議では1位指名した東北高校のダルビッシュ有の交渉権を獲得した。、元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャー(GM)に就任、4月27日、この年に日本ハム球団の初代オーナーであった大社義規氏が死去した。背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番になった。この年から始まったセ・パ交流戦でも11連敗を喫し、5位に終わった。、4月18日、新庄が同年限りでの引退を発表、セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップであった。西武には7勝13敗と負け越したものの福岡ソフトバンクホークスにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと東北楽天ゴールデンイーグルスにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。プレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との日本シリーズを4勝1敗で制し、10月26日に44年ぶりの日本一に輝いた。日本プロ野球史上初めての「北海道を本拠地とする球団」の優勝・日本一でもあった。11月12日、アジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となった。打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王を獲得。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録し、八木智哉が12勝を挙げて新人王に輝いた。この年のリリーフは武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけてHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)と呼ばれた。岡島秀樹が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。オフには宣言通り新庄が引退、小笠原が巨人へ、岡島が大リーグ・ボストン・レッドソックスへそれぞれFA移籍した。ドラフトで日本大学の長野久義をドラフト指名するも入団を拒否された。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。、シーズン当初から敗戦が続き、4月25日の6連敗時点で早くも負け越し数は8、首位からは6.5ゲーム差をつけられた。しかし5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、6月8日の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。ライアン・グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。9月19日、クライマックスシリーズ進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。2015年現在のところ借金8以上を背負いつつもリーグ優勝を決めた唯一のチームである。ロッテとのクライマックスシリーズ第2ステージは3勝2敗で制した。日本シリーズは前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦では山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。10月3日、高校生ドラフトで中田翔の交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。オフには田中幸雄が引退し、ヒルマン監督と高田GMが退団した。後任監督に梨田昌孝が就任。、開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日、10月12日、クライマックスシリーズでは第1ステージではオリックスに2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。、4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成、8月18日、福良淳一ヘッドコーチ、ターメル・スレッジ、宮西尚生が新型インフルエンザに感染し球界初の新型インフルエンザ感染者となった。10月6日の札幌ドームで対西武戦に勝利するが、試合途中に楽天がロッテに敗れたためその時点で2年ぶり5度目のリーグ優勝が決まった。年間主催試合観客数が199万2000人と、札幌移転後では過去最高を記録した。投手陣ではダルビッシュと武田勝以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、巨人から移籍した林昌範、江尻慎太郎、宮西、菊地和正らリリーフ陣が成長し、ストッパーに転向した武田久は無敗のまま最多セーブ投手に輝いた。野手陣では大野奨太、巨人から二岡智宏らが加入し、更に投手から野手に転向した糸井嘉男の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率はリーグトップだった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。クライマックスシリーズ第2ステージで、楽天を4勝1敗で下し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは巨人と対戦するも、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパ・リーグ優勝記念パレードが行われ約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。球団史上最多となる7人の選手がゴールデングラブ賞を受賞した。藤井秀悟が巨人へFA移籍。、1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した小林繁が心不全のため57歳で急逝した。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの島崎毅が一軍投手コーチに就任。開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥った。シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから二桁勝利を挙げ、借金14到達後に限れば貯金21を積み上げる快進撃で貯金7まで盛り返じた。最終戦までロッテとCS争いをしたが、序盤の失速と交流戦でのパ・リーグ内最下位が響き10月1日に5年ぶりのBクラスとなる4位が決定した。10月28日、2010年ドラフト会議で、早稲田大学の斎藤佑樹の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた榊原諒がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには建山義紀が大リーグ・テキサス・レンジャーズへ、森本稀哲が横浜へそれぞれFA移籍した。、この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は下述を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成した。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越したことが響き最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武とのクライマックスシリーズファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりのイースタンリーグ制覇を成し遂げている。8月27日、梨田監督が今年の成績如何にかかわらず同年限りでの監督退任の報道が流れ、9月15日に正式に梨田監督の退任が発表された。梨田監督の後任は栗山英樹が就任した。1月、ダルビッシュがポスティングシステムを利用し、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズへ移籍。3月30日、開幕戦の対西武戦(札幌ドーム)に勝利、前半戦はロッテと首位を争い、5月6日に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後、ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。後半戦は西武との首位争いとなるが、西武に次ぐ2位のまま終盤に突入。すると糸井嘉男が9月7日に左脇腹挫傷から復帰後、3番打者として9月は21試合に出場。長打率(.608)、出塁率(.473)でリーグトップ、打率(.380)、打点(15)でリーグ2位の好成績を残し自身2度目の月間MVPを獲得する大活躍を見せ、さらに守護神の武田久も月間MVPを同時受賞する活躍で、チームは9月に16勝7敗2分けと大きく勝ち越し急上昇。9月15日に首位に立ち、9月28日に優勝へのマジックナンバー4を点灯させる。マジック1とした10月2日、2位の西武がロッテに3-5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズファイナルステージは3位のソフトバンクと対戦し、3連勝で通算成績を4勝0敗として日本シリーズ進出を決定。巨人との日本シリーズでは、2勝4敗で敗退している。田中賢介が海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し、サンフランシスコ・ジャイアンツに入団。ドラフト会議では、メジャー挑戦を公言していた大谷翔平を1位指名し、長期交渉の末に獲得し12月25日に入団会見を行った。、1月に糸井、八木とオリックスの木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2対3のトレードが成立、それまでチームの3番打者を担い4年連続打率3割・ゴールデングラブ賞・20盗塁と走攻守全てで突出した成績をあげ、前年オフの代表戦では日本の4番を任されたチームの顔・糸井でさえその要員となってしまう革新的な球団運営を象徴する大型トレードであった。開幕戦の西武戦には勝ったものの、そこから連敗し借金生活は6月28日まで続いた。4月13日のオリックス戦ではチーム14年ぶりの1試合5失策を記録。5月4日から15日にかけて9連敗で、借金は2010年6月16日以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率.404で最下位。7月3日に開幕日以来の貯金を実現したが、7月17日に負け越すとついに勝ち越すことはなかった。8月14日から守り続けてきた5位も9月21日には最下位に転落。9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)でも0対8で敗れたことで、クライマックスシリーズ出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。10月1日の札幌ドームでの対楽天戦に2対11で敗れたことで、この年優勝した楽天には本拠地で1勝も勝てずに終わり、最多勝の田中に対しても8連敗に終わった。10月6日の対西武戦(札幌ドーム)に4対3で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。64勝78敗2分で勝率.451はチーム8年ぶりの負け越し、チーム防御率は2006年以降1位、2位だったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。 陽岱鋼が自身そして球団史上初となる盗塁王を、ミチェル・アブレイユが本塁打王を獲得。また、新たにナイター照明がついた旭川市にある旭川スタルヒン球場で6月2日に北海道内屋外球場初ナイターとなるDeNA戦を開催し、日本最北でのナイターが開催された。、先発候補であった吉川、武田勝、木佐貫が序盤から不調に陥るも、2年目の大谷がローテーションに定着しながらも二刀流を継続し、史上初となる「同一年での10勝と10本塁打」を記録した他、大谷以外にも5年目の中村勝、3年目の上沢直之、新人の浦野博司といった若手がその穴を埋めた。優勝争いには絡めなかったが、9月29日の対西武戦(札幌ドーム)に4対1で勝利し、2年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定。シーズンを3位で終え、オリックスとのCSファーストステージでは2勝1敗で勝利し、2年ぶりファイナルステージ進出を決めた。ソフトバンクと対戦したファイナルステージでは第5戦に勝利して3勝3敗のタイに持ち込んだが通算3勝4敗でCS敗退となった。中田が自身初タイトルとなる打点王を、西川遥輝が日本人選手では球団初の盗塁王を獲得。9月に引退宣言を行っていた稲葉篤紀、金子誠が現役引退。オフには小谷野栄一、大引啓次がFA宣言し、それぞれオリックス、ヤクルトに移籍。12月にはテキサス・レンジャース傘下3Aを自由契約となっていた田中賢介が2年ぶりに復帰。、開幕戦を先発・大谷の活躍もあり勝利で飾った。その後大谷は、開幕6連勝の球団タイ記録をマーク。交流戦では最終戦前まで2位・ソフトバンクと0.5ゲーム差の首位に立っていたものの、最終戦の阪神戦に大敗しソフトバンクに勝率1位を逆転されてしまい、結局は総合2位で交流戦を終えた。ソフトバンク・西武との首位争いの末、前半戦を首位のソフトバンクと3.5ゲーム差の2位で終える。後半戦に入っても、首位・ソフトバンクの後塵を拝する状態が続き、9月17日にソフトバンクのリーグ優勝が決定した。しかしながら、9月19日の対西武戦に勝利しクライマックスシリーズ進出が決定した。また翌9月20日の対西武戦にも勝利し、レギュラーシーズン2位が確定。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン3位のロッテと対戦した。1戦目を落とし、2戦目に逆転勝ちを収めるも3戦目に逆転負けを喫し、対戦成績1勝2敗で敗退した。この年を持って木佐貫が現役を引退、また現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持ち、阪急ブレーブスを経験した最後の現役選手であった中嶋聡も現役を引退した。、序盤はソフトバンクの独走を許し一時は首位ソフトバンクとのゲーム差が最大11.5ゲーム差まで開いていたが、7月10日、球団タイ記録の14連勝。これが本拠地北海道移転後ホーム500勝を飾った。12日、球団新記録の15連勝を達成、これによりソフトバンクとの差をじわりじわりと縮め、8月末にはソフトバンクをかわして首位に立つ。終盤には首位争いでソフトバンクとの一騎討ちを繰り広げた。9月21日・22日の対ソフトバンク2連戦に連勝し、優勝へのマジックナンバー6が点灯。その後、マジックナンバーを1として迎えた9月28日の対西武戦に先発の大谷が西武打線を1安打・15奪三振でシャットアウト、レアードのソロホームランの一点を大谷が完封で守り切り1-0で勝利、4年ぶり7度目のリーグ優勝を達成した。なお、最大11.5ゲーム差を逆転しての優勝はパリーグ歴代2位の記録となる。中田が110打点で2年ぶり2度目の打点王。レアードが39本塁打で本塁打王に、宮西が42ホールドポイントで最優秀中継ぎを、それぞれ初受賞。クライマックスシリーズのファイナルステージでは、リーグ3位のロッテをストレートで破ったリーグ2位のソフトバンクと対戦。4勝(アドバンテージ1勝を含む)2敗で、ソフトバンクを下し、4年ぶりの日本シリーズ出場が決定。日本シリーズでは、セ・リーグ代表の広島東洋カープと対戦。ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり(近年では金村暁やマイケル中村、高橋信二、糸井嘉男など)、その根拠となっているものは「ベースボール・オペレーション・システム(BOS)」という情報システムである。これは所属選手をセイバーメトリクスを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正に育て、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持し、登録選手全員を戦力として活用することを目標としたものである。BOSは千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、読売ジャイアンツにも採用されているが、他球団ではセイバーメトリクスに未だ懐疑的で日本ハムほど重用されていない。過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。(山田正雄GM)」と大らかでこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し東京ドーム時代よりも大幅に観客が増加した。2005年以降は、1993年以来の100万人超の観客動員を続けており、200万人に迫った年もあった。これは、ソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)。トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の汎用応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには『北の国から』、得点が入った時のテーマが「I'm A 北海道MAN」の「おーいおーい北海道」の部分など地元をイメージした応援歌になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使えなかった太鼓が札幌ドームで使用可能となり、ホームゲームでも太鼓を使うようになった。なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。2011年途中から諸事情で歌唱の入っていないカラオケバージョンになるが、翌2012年より再び、速水歌唱バージョンを使用。2014年からは、上杉周大(THE TON-UP MOTORS)が歌っているバージョンが使用されている。なお、私設応援団の名前は「闘将会」である。東京ドームなど関東の球場でも応援するために、札幌移転後も東京の応援団は存続している。このため東京のファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われ、2007年から東京ドームでの試合のみ、ホーム・ビジター試合を問わず全試合で、東京ドーム本拠地時代の応援スタイルを使う(ただし、移転後にできた「北の国から」等のチャンステーマを使う時もある)。ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。2007年後半から、鳴り物が禁止されている宮城球場の試合で、宮城球場限定の鳴り物なしでの応援スタイルとチャンステーマを取り入れた。2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌、札幌ドーム限定で「ジンギスカン」、2010年は、沖縄限定で「ハイサイおじさん」、東京ドーム限定でかつての球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』と、地域別あるいは球場別でチャンステーマを取り入れている。北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。札幌ドームの試合など北海道での試合では、日本ハムの投手が3ボールになって、カウントを悪くしてしまうと、投手を応援するための拍手が自然に起こる。また、押し出しがかかる場面や連続四死球の直後には、2ボールの時点で拍手が発生することもある。試合後、日本ハムが勝った場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から金色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすいスタイルになった(札幌ドームのみ)。2011年からは金テープのバズーカから勝利の花火に変更された。稲葉の打席では「稲葉ジャンプ」と呼ばれるジャンプが起こる。なお、2011年は東日本大震災の被災者に配慮してシーズン中は自粛していたが、クライマックスシリーズで復活した。金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。2005年頃から特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。札幌ドームでは長らくジェット風船を膨らませての応援が禁じられていた(東京ドームも同様)。理由は、札幌ドームはバックスクリーン奥にあるサッカー・ラグビー用天然芝ピッチの出し入れに必要な隙間に風船が挟まって移動に支障をきたす恐れがあるため(東京ドームはエアドームなので空気圧の膨張で風船が割れる恐れがあるため)。なお、札幌ドームでは2011年6月12日の対横浜戦に限り、限定的に使用が許された(ただし、衛生の観点から口から膨らますことは禁止され、専用ポンプを使っての応援のみ認められていた)。2012年から札幌ドームで行われる全試合で使用可能になった。日本ハムファンは7回表終了後に青色の風船を飛ばし、勝利時には金色の風船を飛ばしている。"北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の年度別成績一覧も参照"※1981年の優勝はロッテとのプレーオフで勝利したことによる。年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。名球会入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの。(太字は完全試合)※太字は優勝達成監督現在の本拠地移転にあたり2003年8月に設立した運営会社(新法人)「株式会社北海道日本ハムファイターズ」には、元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。歴史の項でも触れたとおり、旧法人である「日本ハム球団株式会社」(日本ハム100%出資子会社。前身の「セネターズ野球協会」時代の1946年設立)から新法人への事業(球団)譲渡という形をとり、旧法人は2004年に特別清算手続きにより解散・法人消滅となっている。2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規初代オーナーである。なおこの他に、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として0と00の使用をしないことが決定されている。球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。以下の2曲は、中日出身である大島康徳の監督就任を記念して中日ファンの山本正之がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。1953年8月9日の対近鉄パールス戦(後楽園球場)のダブルヘッダー第1試合は17時から開始された。試合は両軍同点のまま決着がつかず、延長20回・試合時間は4時間46分の末に4-5で敗れた。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限が無く、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22時11分に開始されたが、7回裏終了時点で当時のナイター時限だった23時45分が過ぎたため、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくてもそのイニングの攻撃が完了した時点でコールドとなる当時のルールによるものである。1954年10月10日の同カード(大阪球場)で、今度は延長23回のパシフィック・リーグ延長イニング最長記録を作ったが、近鉄にサヨナラ負けを喫した。また、1981年10月10日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場・プレーオフ第1試合)では、9回・5-5の引き分けだったが、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。現在ではルールが改定され、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20時40分を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。1973年に東映フライヤーズを買収した日拓ホームのオーナー・西村昭孝は、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期シーズンに7種類のユニフォームを製作、選手に日替わりで着用させる画期的な試みを行った。その7種類とは以下のとおりである。しかし、シーズン終了後に日本ハムに再身売りしたため、この7色ユニフォームは3か月でお蔵入りとなった。1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めた。この年の日本ハムは、前期がリーグ3位ながら29勝31敗5分と負け越しているにも関わらず、投票期間中の7月6日 - 7日に約7万票が日本ハムに入ったため結果が大きく変わった。この事が報じられると各界著名人から批判が巻き起こったが、それに応える形でフロント陣が、オールスターゲームの第3戦が日本ハムの主催試合となることから、ファンクラブ「少年ファイターズの会」会員にダイレクトメールでオールスターのファン投票用紙を5枚セットで送ったことを悪びれずに公表した。各界著名人から「組織票」と批判されると、日本ハムフロント陣は前言を撤回して事態の沈静化を図り、特に成績が悪かった古屋と菅野の出場辞退を発表した。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は引退までオールスターに出場することはなかった。2009年から2014年まで、日本ハム主催試合ではファイターズのラッキー7を6回裏に行った。これは、6回の得点が7回よりも多いことなどから、ラッキー6としたものである。同時に、2008年までラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、ラッキー6のBGMとして、4月は「ファイターズ讃歌」を、また5月1日の西武戦からは「ファイターズ讃歌」に代わり新応援歌「La La La FIGHTERS」を流している(「ファイターズ讃歌」は、勝利時にインストを流している。)。場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流していた。なお、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行い、ファイターズの7回裏には、2011年までは何のイベントも行わず、2012年以降は金色ジェット風船の打ち上げなど、6回裏に比べて規模を縮小したイベントを行った。2015年以降は再び、ファイターズのラッキー7を7回裏に行っている。日本ハムは本拠地を札幌ドームへ移転した2004年以降も、年間で3カード8試合の主催試合を引き続き東京ドームで開催している。移転前年の2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで球団社長(当時)の今村純二が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。東京ドームで開催を継続する理由として、東京都にも球団事務所がある事、二軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されていることに加え、旧来の東京のファンの存在を考慮したものなどが挙げられる。2004年は東京ドームでの主催試合を12試合行い、2005年は10試合、2006年は9試合、2007年以降は毎年8試合の主催試合を開催している。移転当初は週末に多く開催されたが、2008年から2013年までは全ての東京ドームでの主催試合は平日に開催された。2014年以降は、1カードの東京ドームの主催試合が週末に開催されており、2016年も4月2日(土) - 4月3日(日)の対ソフトバンク戦2試合が東京ドームで週末に開催された。また、本拠地を札幌ドームへ移転したことによって、2004年以降の東京ドームは、日本ハムの本拠地ではなくなったため、パ・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行う事が可能になった。2004年に、オリックスが2試合、ダイエーが1試合の主催試合を東京ドームで開催したのをはじめ、2005年、2007年 - 2009年はオリックスが2試合を、2010年以降は楽天が毎年1試合を、2012年以降はソフトバンクが毎年1試合を東京ドームで開催している。上記の試合のうち、2004年、2005年のオリックス主催の両年2試合(計4試合)、2013年、2015年の楽天主催の両年1試合(計2試合)、2013年のソフトバンク主催の1試合では、日本ハムが対戦相手として出場した。2016年は、パ・リーグ主催試合全体で、日本ハム主催試合7試合(東京での主催権を持っていた1試合が静岡草薙球場に振り替え)と楽天主催の1試合、ソフトバンク主催の1試合、ロッテ主催の1試合の計10試合が行われる予定である。2005年よりセ・パ交流戦が開始されたため、巨人の主催試合でも日本ハムは対戦相手として東京ドームでの試合に出場しており、2006年までは3試合を、2007年から2014年は2試合を行った。2015年は、この年より交流戦が18試合に削減され主催試合が隔年開催となる影響で、巨人対日本ハムの試合は日本ハム主催の札幌ドームでの3試合のみとなり、同一カードの東京ドームでの巨人主催試合は2016年シーズンに同じく3試合開催される。本拠地時代には全て一塁側のベンチを使用していたこともあり、移転後も主催試合では一塁側のベンチを使用している。一方で、他球団の主催試合の対戦相手として出場した試合では、主催球団側が全て一塁側のベンチを選択している事から、現在に至るまで日本ハムは全て三塁側のベンチを使用している。なお、東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦は本拠地移転後は1度も行われていなかったが、2015年4月7日・8日に、移転後初となる東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦2試合が2003年9月以来、約11年半ぶりに開催された。日本ハム主催の東京ドームでの交流戦は未だに行われていない。東京ドームが完成し、後楽園球場から本拠地を移転した日本ハムの1988年の観客動員数はドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回
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