土侯国切手(どこうこくきって)とは、1960年代から1970年代にかけて郵便に使用する目的でなく、切手収集家目的に濫発された郵便切手に対する総称である。アラブ土侯国切手と呼称される場合もある。切手収集の趣味は世界的なものであり、世界各国も比重に差こそあれ郵便事業の利潤獲得のために、収集家が喜んで購入し死蔵されるような美しい切手が発行されることは少なくない。また小国では国家財政の重要な歳入源になっている。しかし土侯国切手は、実際には郵便事業に使われないような切手を濫発した結果、世界中の切手収集家の顰蹙を買った。伝統的な切手の収集家は、こうした郵便事業の趣旨から大きく逸脱した切手を「いかがわしい切手(doubtful stamps)」と呼んでいる。世界的な切手カタログである「スコットカタログ」に収録されていないほか、切手収集家による国際的な切手展(切手コレクションコンクール)の出品リーフに土侯国切手を入れると大きな減点にされる。郵便を目的とした切手ではないとされた国は古今東西存在しており、1930年代に切手発行国だったタンヌツーバ(のちにソ連に併合され、現在のロシア・トゥヴァ共和国となる)があるほか、現在でも世界的に承認されていない旧ソ連から分離独立を目指す地域(沿ドニエストル共和国や南オセチア共和国など)や、国家として崩壊している「ソマリア」名義のものや、「サハラ・アラブ民主共和国」名義の切手も国際切手市場に多数存在する。また、存在した時期が短いため認知度が低く、「架空の国家」と誤認されることさえあった「南モルッカ共和国」名義の切手のようなケースもあった。これらの切手発行国とは異なり、土侯国切手の発行国は現在のアラビア半島にあった複数の土侯国(現存する首長国と区別するためにこのような表記が使われる)であった。主な土侯国として現在ではアラブ首長国連邦を構成する7つの首長国のうち5つで発行していたが、他にも北イエメン(1962年に共和政移行)の国王派ゲリラや南イエメンの首長国(いずれも現在のイエメンに統合)も入る場合がある。現在、アラブ首長国を構成するのはアジュマーン(アジマン)、アブダビ、ウンム・アル=カイワイン、シャールジャ、ドバイ、フジャイラ、ラアス・アル=ハイマであるが、1964年ごろからアラブ首長国連邦の成立する1972年ごろまで各首長国による切手発行が行われていた。首長国のうち、アブダビとドバイは石油産出国のため財政が豊かで切手も実用的な範囲で発行されていたが、そのほかの首長国は石油が産出せず生産性が低い農業と漁業しか産業がなかったため、切手販売による現金収入目当てに、世界各国の切手収集家を狙ってすさまじい種類の切手を粗造濫発した。そのため世界中に大量の土侯国切手が流通した。土侯国切手の題材として、当地の文物や風景が登場することがほとんどなく、世界中の収集家に受け入れられるように、世界各国の動物や植物、著名な風景や絵画、そしてオリンピックやアポロ計画、日本万国博覧会などをテーマにした切手を濫発していた。その結果、日本でも1970年代の切手ブームの時には、同じく格安で販売されていた東欧の社会主義国の切手とともに駄菓子屋の景品として挿入されることが多かった。また切手の製造販売権を海外のエージェントに売り渡していたため、アジュマーンでは住民の大半を占める保守的なイスラム教徒の間では女性の肌の露出がタブー視されていたにもかかわらず、ヌード絵画が切手の図柄に採用されていた。1964年の東京オリンピックを経て日本の国際的な経済的地位が向上した結果、1966年から各土侯国は日本をモチーフとした切手を発行し始める。浮世絵の春画を切手にしたり、1971年の昭和天皇訪欧の際には昭和天皇と香淳皇后の肖像を使った切手を発行したため、宮内庁が正式に抗議する事態も発生した。また首長国のうちラアス・アル=ハイマが1971年に札幌オリンピックを記念する切手を発行したが、スポーツとは関係のない風景と特産品がデザインされていた。そのうち札幌テレビ塔とサッポロビールが登場し、イスラム教徒にとって禁酒が教義であることを無視するような切手もあった。最終的に1972年限りで発行が終了したが、契約が終了する直前に切手発行エージェントが小型サイズの切手を濫発した。1960年代から1970年代にかけて発行された土侯国切手は8,000種類以上にのぼる。なお、前述のようにイエメンの首長国が発行した切手や、クウェート政府の許可をとらずに大阪の日本万国博覧会会場で販売された似非切手も土侯国切手と呼ばれることがある。
出典:wikipedia
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