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志賀親次

志賀 親次(しが ちかつぐ)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。北志賀家・志賀親度の子。豊後国岡城主。豊後の大友氏の家臣・志賀親度の子として誕生。北志賀家は大友三家の一角である志賀氏の嫡流であり、祖父親守や父親度の時代には南郡衆の筆頭であった。親次は武勇に優れ、母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584年)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585年)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。天正14年(1586年)、薩摩国の島津氏が豊後国に侵攻して来ると(豊薩合戦)、父親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。この戦いで見事な采配を振るった親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛され、敵将の島津義弘からも「天正の楠木」と絶賛された。その後は祖父親守の後見を受け、岡城を拠点に日田にも所領を拡大し、島津侵攻で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである。ところが、こうしたことから主君・吉統(義統)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。天正20年(1592年)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため戦況を見誤り撤退を義統に進言してしまい、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。なお、「フロイス日本史」の大友氏に関する記述は、このときに親次が仕官先を求めて上京するところで終わっている。その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井の荘一千石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友義統に石垣原の戦いに支援、のち福島正則、小早川秀秋(九百五十石)、再び福島正則、毛利輝元にそれぞれ仕えた。95歳で(一説93歳)山口県宇部市にて死去、子孫は当地に残っている。一部の子孫は九州に戻って細川氏に仕え熊本藩士として明治まで続いたという。釣り野伏せ

出典:wikipedia

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