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トウショウボーイ

1973年4月15日、北海道静内町の藤正牧場(現トウショウ牧場)に生まれる。幼名は「トウショウタップ」。父テスコボーイは、前年に産駒ランドプリンスが皐月賞に優勝したばかりの新進種牡馬、母ソシアルバターフライは藤正牧場が開業するに当たり、1万5000ドルでアメリカから輸入された牝馬であった。父母ともに産駒には悍性のきついものが多かったが、本馬は幼駒の頃から非常に落ち着いた馬であった。また肩幅が厚く、しっかりとした馬体は牧場では群を抜いており、牧場関係者は「クラシックのひとつやふたつは取れるだろう」という大きな期待を寄せていた。競走年齢の3歳に達し、東京競馬場の保田隆芳厩舎に入る。元々は茂木為二郎厩舎に入る予定であったが、トウショウボーイは後駆の重心が安定しない(競馬用語では「腰が甘い」)馬であったため、茂木が受け入れに難色を示し、保田に引き受けられたものであった。入厩時、腰から臀部の筋肉はすでに古馬を凌ぐほどの発達を見せていたが、保田は腰の甘さから3歳戦には使えないと判断し、笹針を数回打ちながら状態の改善を待った。12月頃から状態が向上し、翌1976年最初の開催へ出走登録を行った。しかし登録馬過多で除外され、1月31日に改めて新馬戦を迎えた。初戦は4歳を迎えた1976年1月31日、東京競馬場の新馬戦で迎えた。直前の調教では1600mを1分45秒という当時の新馬としては破格のタイムを出し、素質馬として注目を集めていた。当日は1番人気に支持されると、池上昌弘を鞍上にスタートから逃げ切り、2着に3馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。この競走には後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービーを産むシービークイン(5着)が出走しており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で圧勝。同時期、関西では5戦5勝という成績を挙げていたテンポイントがクラシックへの最有力馬と目されており、これに対してトウショウボーイは関東所属馬の筆頭格とされた。当年の皐月賞は、4月18日に例年開催の中山競馬場で施行される予定だったが、これが春闘の最中に当たり、開催3日前に厩務員組合と調教師会の交渉が決裂。組合側がストライキを宣言して開催は順延となり、翌週25日に東京競馬場で行われる運びとなった。これで調整に狂いが生じたテンポイント陣営に対し、トウショウボーイは順調に競走当日を迎えた。当日の1番人気はテンポイント、トウショウボーイは2番人気であったが、レースでは先行策から最後の直線半ばで抜け出すと、テンポイントに5馬身差を付けての圧勝を収めた。走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催で行われた第34回競走(1974年)において、同父のキタノカチドキが記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。卓越したスピードであるが、首を低く下げて走る走法はあまり速く見えず、まるで脚とは別に翼がついているようだということで、競走後にはマスコミから「天馬」との異名を付され、以後これが定着した。皐月賞の圧勝を受け、東京優駿(日本ダービー)当日は単枠指定(シード)を受け、43%の単勝支持を受けた。レースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭を走り、余裕のある手応えで最終コーナーを回った。しかし直線入り口の地点で、クライムカイザー鞍上の加賀武見が「馬体を併せられると怯む」というトウショウボーイの弱点を突き、その外側から進路を横切るように内側へ抜け出す。怯んだトウショウボーイは残り200m地点で4馬身の差を付けられ、態勢を立て直して追走するも届かず、1馬身半差の2着に終わった。加賀の騎乗は進路妨害と映ったが、しかし充分に間隔を取っての騎乗と認められ、加賀への制裁・戒告は行われなかった。北海道に戻り1ヶ月の休養後、7月11日に札幌記念に出走。これに併せてクライムカイザーも出走馬に加わり、当時ダートコースしか備えていなかった札幌競馬場には、入場人員記録となる60,549人のファンが訪れた。トウショウボーイは1番人気の支持を受けたが、スタートで立ち後れて後方からのレース運びとなる。最後の直線では追い込みを見せながらグレートセイカンにクビ差届かず、再度の2着に終わった。ダービーに続く敗戦の責を負わされる形で、この競走を最後に池上は降板となった。クラシック最後の一冠・菊花賞に向け、秋は神戸新聞杯から始動。当時「天才」と称されていた福永洋一を新たな鞍上に迎えた。レースは先行策から直線入り口で抜け出すと、クライムカイザーに5馬身差を付けて圧勝。1分58秒9は芝2000mの日本レコードタイムであり、日本競馬史上初めてとなる1分58秒台の記録だった。それまでのレコードはシルバーランドが記録した1分59秒9であり、これを一挙に1秒短縮、関西テレビで実況アナウンスを務めた杉本清は「恐ろしい時計です、これは恐ろしい時計です」と驚きを露わにした。続く京都新聞杯もクライムカイザーを退け、重賞2連勝で菊花賞に臨んだ。戦前から3000mという距離に対する不安説が出ていたが、当日は単枠指定を受け、単勝オッズ1.8倍の1番人気に推された。しかし最後の直線で一旦先頭に立ったものの、直後にテンポイント、グリーングラスに交わされた。レースは埒沿いを抜け出したグリーングラスが優勝、トウショウボーイは同馬から5馬身差の3着に終わった。競走後、福永は敗因として重馬場と距離不適に加え、神戸新聞杯がピークで、調子を落としていたとの見解を述べた。1ヶ月後、年末のグランプリ競走・第21回有馬記念に出走。福永がエリモジョージに騎乗するため、本競走から武邦彦を鞍上に迎えた。当日はテンポイントや、天皇賞馬アイフルとフジノパーシア、同期の二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて1番人気に支持される。レースは好位から直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り優勝。1馬身半差の2着にテンポイントが入り、有馬記念史上初めて4歳馬が1、2着を占めた。走破タイム2分34秒0は2500メートルの日本レコード。当年、八大競走2勝含む10戦7勝という成績で、年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。翌1977年は、前年秋の連戦疲労が著しく、さらに両前脚の深管骨瘤も発症して休養に入る。快復後、天皇賞(春)出走のため関西に移動したが、直後に右肩に不安が出て回避を余儀なくされた。6月に入り、春のグランプリ・宝塚記念で復帰。半年の休み明けで状態の悪さも伝えられており、当日は天皇賞(春)を制したテンポイントに次ぐ2番人気の評価であった。しかしスローペースで流れるレースを先頭で引っ張ると、そのままゴールまで逃げ切って勝利を収めた(競走詳細については第18回宝塚記念を参照)。3週間後に出走した高松宮杯では、62kgの斤量に加え、不得手の不良馬場という悪条件が重なりながら、逃げ切りで勝利。単勝・複勝オッズは共に1.0倍であった。夏を越したトウショウボーイは、見習い騎手の黛幸弘騎乗でオープン戦(芝1600m)に出走。2着に7馬身差、走破タイム1分33秒6で圧勝した。次走・天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、グリーングラスを抑え1番人気に支持される。しかし先頭を行った道中で、終始グリーングラスに絡まれてオーバーペースとなり、直線では両馬とも失速。7着と初めての大敗を喫した。競走前の状態は良く、保田は「ダービー、菊花賞といい、大レースはどうも運がない」と語った。武は敗因について、距離ではなく馬場状態(稍重)であると強調した。競走後、年末の有馬記念を以ての引退・種牡馬入りが発表される。戦前は、秋に入り著しい充実を見せていたテンポイントに加え、当年のクラシックに出走できなかった8戦8勝の4歳馬マルゼンスキーが出走を予定しており、「三強対決」と注目を集めた。しかしマルゼンスキーは直前で脚部不安を生じて出走を回避し、最終的に出走馬は8頭となった。当日はテンポイントが1番人気の支持を集め、天皇賞の大敗で評価を落としたトウショウボーイは2番人気となった。スタートが切られると、荒れた馬場を見越した武トウショウボーイが先頭に立ったが、直後に鹿戸明とテンポイントがマークに付き、両馬がそのまま後続を引き離した。この状態のまま最終コーナーを周り、最後の直線では両馬の競り合いとなった。直線半ばまではトウショウボーイが先頭を保ったが、残り200m地点でテンポイントに交わされる。残り100mの地点でトウショウボーイは再度差し返しに行く勢いを見せたが、3/4馬身及ばず2着に終わった。しかしその競走内容はマッチレースとも喩えられ、日本競馬史上屈指の名勝負として高く評価された(競走詳細については第22回有馬記念を参照)。かねての予定通り、この競走を最後に引退。翌1978年1月8日には東京競馬場で引退式が執り行われた。当日は武が同日他場の開催で来られず、4歳時の主戦騎手であった池上が騎乗。皐月賞勝利時のゼッケン「5」を付けてラストランを披露したトウショウボーイは、ゴール前の200mでは実戦並の10秒5というタイムを記録。スタンドのファンからは引退を惜しむ声が絶えなかった。天皇賞(秋)の頃より、複数の生産者によって「種牡馬トウショウボーイ」の誘致交渉が始まっていた。日高軽種馬農協では組合理事会を開き、トウショウボーイの購買額を協議。組合長を務めていた斉藤卯助(荻伏牧場代表)が2億円という高額を提案したが、当時は内国産馬の種牡馬価値に対する低評価が根強く、承認には1ヶ月を要した。理事会の承認後、斉藤と組合幹部の前川敏秋が交渉のためトウショウボーイ馬主・藤田正明(当時総理府総務長官)を訪ね、参議院議員会館に赴いた。ここで藤田は売却に際し「価格2億5000万円、テスコボーイの種付け株を3年分、トウショウボーイの永久種付け権を年間3株」という条件を提示した。法外な要求に斉藤は激怒したが、最終的にこの条件を全て受け入れ、トウショウボーイは日高軽種馬農協浦河種馬場への導入が決定した。事後に開かれた組合理事会で、斉藤と前川は「なぜこのような条件を受け入れたのか」と糾弾された。これに対し斉藤は「金額や条件の問題ではない。我々にはテスコボーイの後継種牡馬を育てる義務がある。トウショウボーイの導入は、日高軽種馬農協と組合員の将来を考えた馬政だ」と抗弁し、これを退けた。東京から浦河へ輸送されるに当たっては、「天馬に相応しく」との藤田の提案により、日本国内においては初めての航空輸送が行われた。種牡馬入り初年度、トウショウボーイの種付け額は60万円、交配予定頭数は70頭であった。しかし生産者からの人気は低く、組合幹部が方々と交渉して予定頭数を確保したものの、相手をした繁殖牝馬は血統面で劣る、あるいは受胎率が低い、高齢、健康に不安があるといった負の要素を持った馬が多かった。2年目もまた同様であり、初期のトウショウボーイ産駒はほとんど評価されず、低価格の抽せん馬となるものが多かった。しかし、2年目の産駒からダイゼンキングが阪神3歳ステークス等を制し、1982年度の最優秀3歳牡馬に選出される。翌1983年には、ほぼ唯一の一流牝馬であったシービークインとの産駒ミスターシービーが、シンザン以来19年振り3頭目、父内国産馬としては史上初のクラシック三冠を達成。生産者を驚かせた。また、当年には初年度産駒の抽せん馬ラブリースターが重賞2勝を挙げた。翌年の1984年、トウショウボーイはJRA顕彰馬に選出された。これに合わせて生産地での人気も急増、当年の種付け株の取得競争率は9.4倍となり、交配に当たって相手牝馬の審査が行われるようになった。以降も毎年の産駒からGI競走、重賞競走勝利馬が続出。また重賞勝利に至らなくとも産駒は総じて高い勝ち上がり率を保ち、トウショウボーイは一転して人気種牡馬となった。「繁殖相手の質に関わらず、クズを出さない」トウショウボーイへの信頼は高く、奇形でない限り牡馬は最低3000万円以上、牝馬は1500万円以上の価格が付けられた。一方、組合の内規で種付け料は低価格に抑えられ、最高でも350万円(1992年)までに留まった。このため、審査さえ通れば中小生産者でも気兼ねなく種付けすることができ、トウショウボーイ産駒誕生で破産を免れた牧場も数々存在した。これらの事実から、トウショウボーイは中小生産者の間で「お助けボーイ」との渾名で呼ばれ、「神様より尊い存在」とされた。また、トウショウボーイ産駒の牡馬にはセリ市への出品義務があり、3億6050万円が付けられたサンゼウス、2億6500万円のモガミショーウンを筆頭に、数々の産駒が高額で落札され、取引仲介料が日高軽種馬農協の貴重な財源となった。最終的に産駒のJRA重賞勝利数は、国産種牡馬としてはシンザン(49勝)に次ぐ43勝に達した。1960年代のシンザン、ダイコーター、タケシバオー、1970年代前半のアローエクスプレス、ハイセイコーと、徐々に見直されてきた内国産種牡馬への評価は、トウショウボーイの活躍に至り輸入種牡馬に劣るものではないと確認された。以後内国産馬蔑視の風潮は払拭され、優秀な競走成績を残した馬には高額のシンジケートが組まれ、最初から充分な活躍機会を与えられる馬が増加した。1992年8月5日、トウショウボーイが脚を痛がる様子が見られ、検査が行われた。この結果、蹄葉炎を発症していることが判明する。以降は職員総出の治療・介護が行われたが、病状の進行は止められず、9月18日に組合幹部全員の同意を以て安楽死の措置が執られた。前年、前々年ともリーディングサイアーランキングはノーザンテーストに次ぐ2位と、勢いを保っていた中での死であった。浦河種馬場で葬儀が行われた後、遺骨は分骨され、種馬場とトウショウ牧場にそれぞれ墓が建てられている。※括弧内は当該馬の勝利重賞競走、太字はGI級競走(グレード制導入前の阪神3歳ステークス含む)。※GI級競走勝利馬のみ記載。以下はセリ市において1億円以上で落札された馬。落札額を超える賞金を獲得したものはいない。トウショウボーイ存命の間、その産駒以外で1億円以上の値が付いたものは、ハギノカムイオー(1億8500万円)しか存在しなかった。同馬はトウショウボーイと同じテスコボーイ産駒であり、ダイイチルビーの叔父に当たる。武邦彦はその能力について「良馬場なら10年先を走っているような超スピード馬」と評し、自らが騎乗した内の最強馬として名を挙げている。保田隆芳も能力面の特徴を「類稀なスピード」にあると評している。実際に神戸新聞杯で記録したレコードタイムは、レースレコードとしては2005年にディープインパクトに破られるまで、29年間に渡り保持された。一方、重馬場は苦手であり、上記の武のコメントにも「道悪は下手だったが」という但しが付いている。距離適性は中距離が最適とされ、産駒にも同様の傾向が見られた。走法は常に頭を低く下げ、一完歩(ストライド)が大きいフォームで、見る者にスピード感を与えない走りだった。これが「空を飛んでいるようだ」と喩えられ、「天馬」と渾名される一因となった。また、走行時の首の使い方が上手な馬であった。競走馬時代は500kgを越える大型馬であったが、その均整の取れた馬体は高く評価された。特に前駆の発達が顕著であり、担当厩務員の長沼昭二はデビュー前から「一番好きなのは肩の辺り。後ろから見ると、素晴らしく幅があるんですよ」と賞賛していた。一方、上体の発達に比べて膝下が華奢で蹄も小さく、大きな怪我こそなかったが脚への負担は大きかった。長沼は「最後まで怪我なく来られたのは奇跡に近いといえるだろう」と回想している。前述した腰の甘さと華奢な脚は、産駒にも概ね遺伝した。しかし獣医師の猪木淑郎は、腰の甘さを「別の言葉で表現すれば身体が柔らかいということ」と述べ、産駒の競走成績には関係ないと語っている。また、大柄だったトウショウボーイに比べ、産駒には小柄で細身の馬が多く、父親ほど脚元への不安は抱えていなかった。トウショウボーイは「骨太で逞しく、いかにも猛々しく見えた」(寺山修司)という外見的印象とは異なり、性格的には非常に穏やかで、人に懐いた馬であった。厩舎で長沼の顔を見ると必ず顔を寄せてきたといい、保田も「利口で可愛い馬でした」と回想している。内外タイムスからトウショウボーイの取材を行っていたライターの更級四郎は、長沼に甘える姿や、好物を届けられたときの喜色満面の様子などから、「彼は天馬や帝王というよりも、むしろ、となり近所の子供たちとうれしそうに公園を走り回る人気者のイヌといったイメージ」と評している。また、調教では走り終える際に後ろを振り向く癖があり、数回に渡って騎手を落馬させていた。長沼は「今思えば、あれは愛嬌だったのだろう」と語っている。更級はトウショウボーイが一般に与えていた印象を、「野性味あふれるたくましさ。天才。バンカラ。骨太の帝王」とした上で、自らの取材を通して掴んだ実像を「縫いぐるみのような可愛い優等生。機を見るに敏。いたずらっ子。まるで暗さのない男」としている。半兄に重賞3勝を挙げた トウショウピット(父パーソロン)、半姉に優駿牝馬2着・産駒に4頭の重賞勝利馬を輩出したソシアルトウショウ(父ヴェンチア)がいる。他の近親にも数々の活躍馬がおり、母ソシアルバターフライから派生した系統は名牝系として認知されている。また、半弟トウショウゲート(父シャトーゲイ)とトウショウルチェー(父ダンディルート)、全弟トウショウイレブンは、重賞未勝利ながらトウショウボーイの影響で種牡馬入り後、いずれも重賞勝利馬の父となっており、血統研究家の吉沢譲治は「ソシアルバターフライ系は典型的な『種牡馬族』」と述べている。甥のトウショウペガサスも2頭のGI競走優勝馬を輩出している。トウショウボーイの競走馬・種牡馬としての活躍には、両親の能力の他、父方3代目、母方4代目に入っているハイペリオンの3×4というインブリードの影響が大きいとされた。

出典:wikipedia

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