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吉弘鑑理

吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ/あきただ)は、戦国時代の武将。豊後大友氏の家臣。吉弘氏は大友氏庶流の一族で、田原氏の分家筋でもある。初めの主君で後に義父となる大友義鑑と父・吉弘氏直(うじなお)から1字ずつ賜り、初めは鑑直(あきなお)を称した。天文3年(1534年)に父・氏直(当時19歳)が大内氏との勢場ヶ原の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。弘治3年(1557年)から亡くなるまで大友宗麟の側近として活躍し、臼杵鑑速や吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられた。政務では肥前方分を務め、永禄2年(1559年)9月7日、吉岡長増、田北鑑生と共に龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。永禄4年(1561年)申次職を務める。智勇兼備の武将で、宗麟からの信任は厚く、筑前国での軍権を与えられて、のち吉岡長増から豊前、豊後の政治事項を継ぐ。弘治3年(1557年)7月の秋月文種の攻略や永禄10年(1567年)7月の高橋鑑種討伐、永禄11年(1568年)4月の立花鑑載らの謀反鎮圧に参加した。対毛利氏の門司城の戦いや、永禄12年(1569年)5月の多々良浜の戦いなど、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた。永禄12年(1569年)3月、第一次龍造寺隆信の討伐の際、隆信は肥前方分に担当するの鑑理に降伏の使者を送るが、隆信の人なりを知る鑑理は一蹴し、次に戸次鑑連に降伏の使者を出したがやはり断られた。この時、鑑連に隆信が出した書状には、「鑑理のように頼み甲斐のない人はもういやいや」と書いている。4月6日、多布施口の戦いで龍造寺軍の主力を撃破したが、さらに進撃する際に、発病するなど病気がちであったようで、龍造寺氏を滅ぼす機会を見逃した。同年11月には戸次鑑連らと共に筑前宝満城の高橋鑑種を攻め降伏させている。元亀元年(1570年)4月、第二次龍造寺隆信討伐の今山の戦いに参加したのち、元亀2年(1571年)に死去。翌日、宗麟は「治療、加持祈祷を尽くしたのだが」と鑑理の死を惜しんだ。家督は嫡男・鎮信が継いだ。また、鑑理は筑前の要衝・立花山城城督に予定されたが、病死したため、暫く子の鎮信に担当するが、間もなく立花山城城督には戸次鑑連が選ばれ、鑑連は立花と改め道雪と号した。※統貞、統秀、親良の三人はいずれも鎮秀の子であるが、母が鑑理の娘かどうか確証がないため一応「?」を施した。

出典:wikipedia

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