バルト艦隊、バルト海艦隊(バルトかいかんたい、 、、ラテン文字転写:Baltiyskiy flot)は、ロシアないし旧ソビエト連邦海軍のバルト海に展開する艦隊を指す。日本においてはバルチック艦隊という呼び名が広く定着しており、またこれは、日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことを指す場合も多い。すなわち旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するために上記のバルト海所在の艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成した艦隊を指す(後述)。帝政ロシアの領土は広大なため、地政学的に3方面(北極海も入れれば4方面)に艦隊を維持する必要があった。黒海(オデッサ、セバストポリ)、バルト海(リガ、リエパーヤ)、極東(ウラジオストック、一部は租借地の旅順に分遣)を根拠地(北極海はアルハンゲリスクだが小規模であった)として、ロシアはほぼ同規模の3つの艦隊を保有していた。バルト海艦隊はスウェーデンとの大北方戦争のさなかの1703年、ピョートル大帝によってフィンランド湾奥のクロンシュタットで編成された。最初の司令官となったのはノルウェー生まれのオランダ人コルネリウス・クルイス(Cornelius Cruys)であり、その指揮下でバルト海海域で大北方戦争を戦った。1714年のハンゲの海戦ではスウェーデン海軍相手に艦隊創設以来初となる勝利をおさめ、大北方戦争でのロシアの戦勝に貢献した。以後、バルト海艦隊はスウェーデンやプロイセンとの戦争において活躍する。七年戦争ではプロイセン軍とポンメルンや東プロイセンの沖で戦い、第一次ロシア・スウェーデン戦争ではスウェーデン軍と戦ったが、スヴェンスクスンドの海戦で大敗を喫した。その他には露土戦争のために何度も地中海へ出撃したほか、クリミア戦争の際には連合軍のフィンランド湾侵入を防ぐために戦った。この際にバルト海艦隊は機雷を活用して防戦に成功した。これを開発したボリス・ヤコビ(モーリッツ・フォン・ヤコビ)をはじめ、バルト海艦隊には、無線通信を研究したアレクサンドル・ポポフ、水雷艇運用の先駆者であるステパン・マカロフ、航空機を研究したアレクサンドル・モジャイスキーなど海戦のあり方を変えた数多くの科学者・発明家が在籍した。クリミア戦争の時点では蒸気船を持たなかったバルト海艦隊は、1860年代に入ると、南北戦争で海軍を強化したアメリカ合衆国から技術を導入してモニター艦を配備した。また造船廠の建設、近代的な軍艦の建造、バルト海沿岸の砲台建設などを推進した。また極東のカムチャツカ半島や沿海州には独自の小艦隊(シベリア小艦隊)があったが、バルト海艦隊からも艦船を抽出して極東に回航させて分艦隊を置き、後の太平洋艦隊の母体となった。アレクサンドル3世の時期、セルゲイ・ヴィッテらは北極海に面したムルマンスクが不凍港であるため、内海のバルト海でなく大西洋に面したムルマンスクの方に大洋艦隊の基地を建設する構想を提案した。しかし、1894年にアレクサンドル3世が没し、ニコライ2世が皇帝に即位すると、ムルマンスク開発案は却下された。代わりにバルト海艦隊の新たな母港・要塞をフィンランド湾外のリバウ(現・ラトビアのリエパーヤ)に建設、旅順とリバウの東西二か所に要塞艦隊を設けることにされた。リバウの要塞建設は結局日露戦争がはじまる時点になっても完成しなかった。1904年、ロシアと日本との軋轢が高まり、2月8日、旅順港に停泊中のロシア軍艦に日本の水雷艇が奇襲攻撃(宣戦布告は10日、但し最後通牒は6日に手交されていた)し、日露戦争が始まった。同日に仁川沖海戦、4月13日には戦艦ペトロパブロフスクが触雷して沈没(太平洋艦隊司令長官マカロフ中将も戦死)。さらに8月10日の黄海海戦、同月14日の蔚山沖海戦などによって太平洋艦隊はその戦力を失いつつあった。10月、ロシアはバルト海艦隊の主力を引き抜き第二太平洋艦隊を編成して極東方面に増派することとした。司令長官には侍従武官であったロジェストヴェンスキー少将(航海中に中将に昇進)が任命された。翌年2月、バルト海艦隊の残りの艦からさらに第三太平洋艦隊を編成し、極東へ送り出した。この結果、ロシア艦隊は、ロンドン条約により黒海の外に出撃できない黒海艦隊を除いてほとんど全てが日露戦争に動員された。日本ではこれら第二・第三太平洋艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶ場合も多い。第二太平洋艦隊は北海ではイギリスの漁船団を日本艦隊の待ち伏せと誤認して攻撃するというドッガーバンク事件を起こし、イギリスと戦争寸前の状態となった。スエズ運河は日本の同盟国であるイギリス(日英同盟)が支配していたこと、大型艦の一部はスエズ運河の通航ができないこと、イギリス側の国への寄航ができないこと、喜望峰ルートの長距離移動では石炭を多く積む必要があること、などの理由から、第二太平洋艦隊の主力はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、軽快な部隊はスエズ運河経由に分かれ、両部隊はマダガスカル島のノシベ泊地で合流した。日本やその同盟国イギリスの抗議により、また頼みのフランス植民地での補給も英仏の良好な関係から難しく、航路上の中立国の港での補給や修理は困難であり、半年間の航海は困難を極め、航海中に多数の乗組員が死亡した。しかし、平均5 - 7ノットという低速ながらも、本来遠洋航海向けでない駆逐艦など小艦艇を引き連れての航海は「奇跡の航海」として、その後も高く評価されている。第二・第三太平洋艦隊は翌1905年5月9日、ロシアの同盟国フランスの植民地であるフランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾で合流しウラジオストクを目指したが、5月27日、対馬沖で東郷平八郎率いる日本の連合艦隊と遭遇、海戦を繰り広げた(→日本海海戦)。3日間にわたる海戦の結果、第二・第三太平洋艦隊のうち、ウラジオストックになんとか逃げ込めた駆逐艦以上の艦艇はただ2隻のみ。これに対し日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらほとんど無いという、ほぼ無傷といっていい軽損であった。日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。最新鋭戦艦4隻を擁し、世界最大・最強レベルと思われていた巨大艦隊が日本海海戦で忽然と消滅した事実は、日本の同盟国イギリスや仲介国アメリカすら驚愕させた。また、この大敗が反ロシア帝政の植民地や革命団を大いに活気づけ、やがてロマノフ王朝倒壊にもつながった。日本海海戦でバルト海艦隊の主力を喪失したロシア海軍は、1908年から建艦10カ年計画を推進した。こうしてロシア海軍最初の弩級戦艦・ガングート級戦艦が建設されたが、完成は第一次世界大戦中の1914年となり、第一次世界大戦のバルト海の戦いでもほとんど行動することがなかった。この間、バルト海艦隊は何度か改名を繰り返されている。1908年までバルト艦隊()、同年からバルト海海軍()、1909年にバルト海作戦海軍()、1911年に再度、バルト海海軍()、1914年にバルト海艦隊()となった。「 」と「 」の訳し分けが困難なため、ここでの日本語訳は便宜上のものである。バルト海艦隊の水兵たちはロシア革命において革命側を熱烈に支持し、十月革命でのソビエトの権力奪取を支援した。また、続くロシア内戦や、列強による干渉戦争でもバルト海艦隊は戦った。しかし独裁化するボリシェヴィキと、バルト海艦隊の水兵たちの意見の相違が大きくなり、1921年にはクロンシュタットの反乱が発生した。この蜂起は赤軍に鎮圧され、多くの水兵がフィンランドへ逃れている。 臨時政府軍、ロシア共和国海軍、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国海軍、労農赤色海軍にかけての時代については、1918年にバルト海海軍()、1919年に赤色バルト艦隊()、1920年にバルト海海軍()に改称している。 1935年1月11日には赤旗勲章受章バルト艦隊(Red-Banner Baltic Fleet)となった。ソビエト連邦の成立後も、ソ連の置かれた地政学的地位やバルト海艦隊の役割は帝政時代とほぼ変りがなかったが、革命によりバルト三国が独立したことで、母港はいったんレニングラード(現サンクトペテルブルク)近郊のクロンシュタットに移った。第二次世界大戦中、バルト海艦隊は冬戦争や独ソ戦でフィンランド軍やドイツ軍と戦った。独ソ戦緒戦ではタリンからの赤軍兵の撤退を助け、末期には海からソ連軍の攻勢を支援し、東プロイセンからのドイツの避難船を潜水艦で攻撃した。リガはソ連、ドイツ、ソ連と支配者を変え、戦後はバルト海艦隊の重要な拠点となった。また、大戦の結果、旧ドイツ領東プロイセンのケーニヒスベルク(ロシア名カリーニングラード)がソ連領となったため、バルト海艦隊の母港はここに移った。冷戦期、西ヨーロッパに対するバルト海艦隊のプレゼンスの重要性は増したが、一方で大戦後のソビエト海軍の主力は次第に核ミサイルを搭載した原子力潜水艦に移行し、これらの主力は北極海(ムルマンスク)および極東に配備されたため、バルト海艦隊の純粋な軍事的重要性は相対的に低下した。基本的にはソ連時代と同じ。バルト三国が独立したため、飛び地のロシア連邦領カリーニングラードに集約。レニングラード海軍基地には、バルチースキー・ザヴォード、アドミラルチェイスカヤ・ヴェルフィ、セーヴェルナヤ・ヴェルフィ、「アルマーズ」工場等のロシア有数の造船所が集中している。
出典:wikipedia
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